2012年 03月 20日
渡辺たをり『祖父 谷崎潤一郎』
「僕は日劇のミュージックホールへ行きました、すつかり顔ぶれが変つて美人ぞろひになり出し物も大へん面白くなりました、今度君が来たら是非案内したいと思つてゐます」とある昭和三十三年七月二十一日付け谷崎の千萬子あての手紙もはじめこの『祖父 谷崎潤一郎』で紹介されていた。ここのところ、同書は次のように註釈をくわえている。
〈ミュージックホールは大好きで女優さんになる前の春川ますみなどのご贔屓もあったようである。お供には女中さんや知り合いの夫人まで、いろんな人を連れて行っているようだけれども、母に聞いた話では、ああいうところに一緒に行くのは「ちょっと訳ありの女」がいいんだ、と言っていたという。自分の妻や娘、恋人なんかはダメで、全くの他人というのもつまらない、と言うのである。「息子の嫁」というのはそういう意味で、合格だったらしく、母はよく谷崎と日劇に行ったのだそうだ。〉
「ちょっと訳ありの女」と冗談めかして書かれてあるが、潤一郎夫人松子にとっては冗談どころではなく千萬子は夫婦関係の障碍と考えていた。松子自身谷崎の死後は随筆家として『倚松庵の夢』『湘竹居追想 潤一郎と「細雪」の世界』『蘆辺の夢』などで谷崎との美しい思い出を語っている。もちろん「ちょっと訳ありの女」の話などない。
けれどそこは千萬子から見ると「谷崎の死後に松子が造り上げた美しい松子ワールドで、彼女を傷つけたり谷崎との関係を侵すような事や人が入り得なかった世界」であり、松子はこのワールドに「渡辺千萬子」と「渡辺たをり」という名前だけは絶対に入れたくはなかったと述べている。(『落花流水』)
松子夫人が満八十七歳で亡くなったのは一九九一年だった。生前に孫娘が上梓した『祖父 谷崎潤一郎』を松子夫人がどんなふうに見ていたかはおのずと想像がつくだろう。