2012年 10月 05日
ヘレン滝の最期
一九四九年(昭和二十四年)の新宿セントラルの人気投票でヘレン滝は東の大関だからグレース松原、吾妻京子の東西横綱に次ぐ人気を得ている。しかし二年後の五一年、内外タイムス社のストリッパー人気投票では四十位にも顔を出していない。
色川武大『あちゃらかぱいッ』には「昔の少女歌劇時代の仲間とレズのような関係があったらしく、その相手と共同で渋谷に花屋を出したというが、これも長続きしない」とある。橋本与志夫は『おお!ストリップ』に「SKD出身の男役だったY・Sという踊り子と共同で花屋を開業したという明るい話が伝えられたのも束の間、それから数年後にはこんどは都内下町の某所で、廃品回収業を細々とやっているというニュースを聞かされた」と書いている。
橋本の「都内下町の某所」は色川によると「下谷の小島町あたりの裏通りをリヤカーをひっぱって歩いている」である。酒も薬もやめてさっぱりしたものという彼女はしかしすっかり老けこんで、御徒町のガード下で寝ていたという。
やがて色川も橋本も彼女の死を伝え聞く。色川はその最期を「数年後、リヤカーにうよりかかるようにして死んでいった彼女のそばに、やっぱり焼酎瓶が転がっていた」と書き、世田谷のほうで行き倒れたという別の話を添えている。
そのころ土屋伍一はサンドイッチマンをしたり、芸界のつてをたよってもぐりの指圧師として楽屋を渡り歩いていた。
ヘレン滝の最期の哀話は花形ストリッパーのはかない末路というほかないが、あくまで傍目から見た話で、当事者としては別の思いもあるだろう。『あちゃらかぱいッ』には「好きに生きて好きに死んだんだ。他人(はた)がアヤをつけることはねえ。幕がおりておめでてえや」との土屋伍一の言葉が見えている。
死んでから数年後、彼女が全盛時代にあった常盤座をはじめ他の劇場の関係者も多数つどって偲ぶ会を催した。参会者はその霊を慰め一夜を語り明かしたという。
いまのところどの本を開いてもヘレン滝の享年や忌日はわからない。