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夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌

東京宝塚劇場小劇場小史

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 日劇ミュージックホールは東京宝塚劇場にあった五階の小劇場で終焉を迎えた。その小劇場の消長を道江達夫『昭和芸能秘録』を参考にしながら見てみよう。
 東宝劇場が帝国ホテルと道ひとつへだてて華やかに開場したのは一九三四年(昭和九年)一月二日、その五階ははじめダンスホールとして設計されていた。ところが警視庁はホールの新設を許可せず、そこで社長の小林一三が劇場支配人秦豊吉に提案したのが「高尚ナル娯楽」を提供する「名人座ヲ組織シ、広ク、江湖ノ御賛翼ニヨッテ、永久ニ栄エンコトヲ祈ル」というもので、小林は関東大震災まで数寄屋橋ぎわの有楽座で催されていた「東西名人会」の再興を願ったのだった。
 ダンスホールは突貫工事で大改装され、定員五百五十名の小劇場となった。日比谷の客層の多くはサラリーマンや学生だから桟敷では抵抗があるだろうと、寄席としてははじめての全部椅子席とした。
 昭和十九年に東宝劇場が日本軍に接収され、戦後になるとこんどは米軍に接収された。接収解除となったのが昭和三十四年四月。小劇場は東宝演芸場と命名され、ここで東宝名人会が再開したのがこの年の八月一日だった。
 やがて有楽町再開発計画の余波で日劇ミュージックホールの東宝演芸場への移転が決定。「消える東宝演芸場・名人芸よりヌード」「ハナシとハダカじゃ負けますナ」「”笑売”よりヌード”ショー売”」などの見出しで報じられた。おなじ建物ではスカラ座、宝塚劇場が興行しており改装工事はすべて興業が終わってからの夜間に行われた。
 工事を前にした昭和五十五年八月一日東宝演芸場でお名ごり公演がはじまった。上席のトリは古今亭志ん朝、仲入り雷門助六。風流住吉踊り連中総勢五十七名もいた。このときレギュラー出演した三遊亭円弥の歌ったかっぽれの戯作替え歌がある。
〈高座が暗いのに白い肌がサア見えるヨイトコラサ、あれは日劇ヤレコノコレワイサノサ、ヨイトサッサッサ、ヌードじゃえ。さて、ストリップ、ストリップがサア、乗り込んで、サテヨイトコラサ、あれは東宝演芸場のヤレコノコレワイサノサ、ヨイトサッサ、乗っ取りじゃえ〉
八月末日午後七時過ぎ、有楽町、日比谷とつづいた「お笑いフィーバー」の火は消えた。道江達夫の心の中に大きな空洞があいた一日だった。
(写真は小林一三)
by yumenonokoriga | 2012-12-05 10:03 | 日劇ミュージックホールの文学誌

いまはない日劇ミュージックホールをめぐるコラムです。

by yumenonokoriga
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