2013年 04月 10日
『映画字幕五十年』
一九五二年(昭和二十七年)三月の日劇ミュージックホールこけら落とし公演「東京のイヴ」の演出を担当したのは岡田恵吉だった。戦前には宝塚の舞台のプロデュース、演出にあたっていたが「僕は戦後約十年間ほとんど、裸の女の子のお相手をして暮してきた」とその著『女のシリ・シンフォニー』に書いているように戦後はミュージックホールの運営と演出を務めた。
岡田の友人に映画字幕の第一人者だった清水俊二がいて清水は著書『映画字幕五十年』で「岡田恵吉は戦争が終わってしばらくすると日劇ミュージックホールのプロデューサーとして登場してきた。プロデューサー兼作者兼演出者である。やはり宝塚にいた宇津秀男、加藤忠松、作家の丸尾長顕が運営委員として名をつらねていたが、中心になっていたのは岡田恵吉だった」と回想している。岡田は生粋の舞台演出のプロだった。
清水俊二ははじめ岡田の弟で一九三六年(昭和十一年)創刊の東宝PR雑誌「エスエス」の編集部にいた二郎を通して親しくなった。ついでながら「エスエス」には昭和戦前のモダニズムのシンボルだったスクリーン、ステージ、スポーツ、スピードなどが含意されている。
清水の見た岡田はしゃれっけたっぷりのダンディ・タイプだが、どこか自分と共通するものがあるらしく、いつでも腹を割ってつきあえる人物だった。そうした関係から清水はミュージックホールの千秋楽の夜の打ち上げパーティに呼ばれることがあり、そのときの思い出を前掲書に書いている。
〈女優たちのなかではジプシー・ローズをよく覚えている。からだが大柄なように人間も大らかで、いつも明るく屈託がなかった。アルコールに命をとられたということだが、一つの時代を代表していた女優の一人だろう。〉
もうひとつ一九五七年(昭和三十二年)十一月の「メケメケよろめけ」の打ち上げパーティにも触れている。
〈ゲイの男たちが中心になったショウが上演されたことがある。私はこのショウの打ち上げパーティでゲイのナンバー・ワンの青江なにがしと躍って、私の手にふれた背中が女性のようにやわらかいのに驚いた。〉
なお文中の「青江なにがし」はマダム青江を指している。
(写真は清水俊二とジプシー・ローズ、『映画字幕五十年』より)