2013年 05月 05日
パン猪狩
コメディアンの出世の階梯といえば浅草から丸の内がその代表格だった。戦前から日本劇場が健在だったころまでは。そうして映画やテレビに進出した。榎本健一、古川緑波、渥美清、コント55号いずれもこのコースをあゆんでいる。
そんななかパン猪狩(一九一六年~一九八六年)はこの道を拒否した稀有な存在だった。この人をモデル(作中ではポン碇)にした滝大作「ライムライト」(『トンボを切りたかったコメディアン』所収)にはこんなふうに記されている。
〈戦後、ボードビリアンとして、東宝系の日劇、日劇ミュージックホールなどを舞台に一気に浮上する。これは記録にはっきり残っている。当時売り出しのトニー谷と看板を競っていたと記されているくらいだから、その勢いが想像される。
そのまま東宝系の舞台をつづけていたら、森繁久弥みたいな巨大な存在になっていたか、堅実な脇役コメディアンの道を歩いていたかそのどちらかだっただろう。だが、結局のところポン碇は森繁にも堅実な脇役コメディアンにもならなかった。ある日突然東宝系の舞台を捨ててストリップ劇場に鞍替えしてしまう。〉
小説ではこの点についてポン碇がギャラの問題もあったが「もともとおれは晴れがましいところが苦手なんだよ。だから、おれにはストリップの舞台の方が合ってるって思ってたんだ。やっぱりその勘は当たりでさ。自分が納得いく芸ができるようになったのはストリップへ行ってからだもんね」と語っている。人には自分をみがく場としてのフランチャイズがあり、それは世間の評価、物差しとは一致するとは限らないということだろう。東宝を去ったのは一九六三年(昭和三十八年)東京オリンピックの前の年だった。
滝大作による聞き書きをもとにした『パン猪狩の裏街道中膝栗毛』にはパン・スポーツショー、ミュージックホール時代の名作コント「乱笑門」、パントマイム「切腹」、晩年の芸術祭参加のボードビルショーなどが紹介されていて、そのステージに接したことのない筆者にとってはそれらをせめてものよすがとするほかない。早野凡平といえばわたしには懐かしい芸人だけれど、大当たりをとったホンジャマの帽子の芸はパン猪狩が弟子の凡平に五百円で売ったという有名な逸話がある。
めざすところはチャップリンではなくモーリス・シュバリエだったそうだ。
(写真はパン猪狩とトニー谷)