2013年 09月 10日
村松梢風と奥野信太郎
中国文学者で慶應義塾大学の教授だった奥野信太郎(写真)に『女妖啼笑 はるかな女たち』という随筆集があり、戦前の東京と戦時下の北京の世態人情を背景に幼いころからの女たちとのかかわりが詞藻豊かな達意の文章で書かれている。こういう本を著すほどだから女との関係にいかほど意を用いたかは想像されよう。
この人の弟子のひとりにおなじく慶應の教授だった村松暎がいた。日劇ミュージックホールの応援団長を自任していた村松梢風の子息で、暎が師事したことから梢風と奥野とは親しくつきあうようになった。
梢風は遠州森町の在の新興成金の家に生まれ、信太郎は父は陸軍大尉、母は安政の大獄で斬首となった幕末の志士橋本左内の姪という家に生まれた。生まれ育ちの環境はだいぶん異なるが女、そして中国という点で共通するものがあった。
「ともに早く父親を亡くして遺産が自由に使えるようになり、片や家作を端から売り飛ばして芸者遊びにうつつを抜かせば、一方は田畑を端から売って吉原に入れ揚げるといった往年の放蕩息子であったから、気が合ったのも当然であろう」と村松映は『奥野信太郎随想全集』第一巻の解説で述べているが仔細に見ると女にも中国にも好みの異同はあり、何よりもあれほどミュージックホールに関わりの深かった梢風に対して、信太郎がこの劇場に言及したことは管見する限りではなかった。親しく交わるなかに梢風がいて、慶應での親しい同僚にこの劇場と縁のあった池田弥三郎がいたが、そうした交友関係があるにもかかわらず信太郎とミュージックホールの関わりは見えてこない。
中国にしても信太郎が愛したのは、柳絮舞い、胡同に物売りの声がやさしく流れる平和で古きよき北京だったのに対して、梢風は陰謀がうずまき、革命家が暗躍する魔都上海に生きた。
先に引いた村松暎の一文には「好奇心の旺盛な信太郎は、古いものをくずして出て来る新しいものにも、とびついて行く。が、そういう新しいものは彼の心を満たすことはできない。当時最新であった日活ホテルを常宿として、出来たばかりの日劇ミュージックホールに入りびたって大満悦であった梢風とは違うところである」と書かれている。
とはいえ奥野信太郎も市川左団次や中村勘三郎、菅原通斉たちとともに東劇バーレスク・クラブのジプシー・ローズを応援する「風流バーレスク・クラブ」のメンバーの一員だった。お互いにニアミスを避けていたのかも知れない。