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夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌

日劇ミュージックホールに出そびれて・・・

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 シャンソン歌手石井好子(1922-2010)が日劇ミュージックホールのパンフレットに寄せた「村松先生の想い出」という小文が手許にある。コピーでいただいたもので、いつの公演のものなのかはわからない。
 石井さんにはミュージックホール出演の経験はなく、だからこれは出でざる弁を綴ったものだ。もっともミュージックホールの応援団長、村松梢風から何度か出演を懇請されていた。
 一九二二年生まれの石井好子がアメリカ留学を経てフランスへ渡り歌手としてデビューしたのは一九五一年(昭和二十六年)のことだった。村松梢風はパリへ行くとよく彼女が出演しているモンマルトルのキャバレー、ナチュリストのレビューショーに足を運んでいて、石井好子が帰国したときには演出家の岡聡を連れてミュージックホール出演を熱心に口説いたという。「日本ではあなたの出るべきところは、日劇ミュージックホールをおいてありませんよ」「あなたは大人の客の前でパリで歌っていたようにのびのびと歌って下さいよ」と言って。
ただし、このときは二か月ほどして彼女がパリへ戻ったために実現しなかった。
 ついでながら彼女が一九五五年に刊行した『女ひとりの巴里ぐらし』にはパリの劇場に見えた人々として川口松太郎、三益愛子夫妻、山口淑子、川喜多長政、五所平之助、益田義信、佐々木茂索、今日出海、小林秀雄、火野葦平、岩田豊雄といった方々の名前がある。村松梢風もその一人だった。
 その後帰国して、村松梢風からふたたび声をかけられたが、地方公演のリサイタルに力を傾注すると二か月は縛られるミュージックホールへの出演は不可能で、そのままになってしまったという。
 一九六一年二月十三日村松梢風が亡くなって、岡聡から追悼の意味で出演を請われたが、そのころ石井好子は石井ミュージックプロモーションの社長として自身より事務所所属の大木康子と堀内美紀を出演させたく、逆提案してこれを実現させている。
「そんな事で、私は日劇ミュージックホールに出そびれたまま今日に到っている」。
by yumenonokoriga | 2014-05-05 09:22 | 日劇ミュージックホールの文学誌

いまはない日劇ミュージックホールをめぐるコラムです。

by yumenonokoriga
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