その後の谷ナオミ

 一九六0年代中期から七十年代にかけてピンク映画、日活ロマンポルノで人気を博した谷ナオミが日劇ミュージックホールに出演したのは昭和五十一年(一九七六年)三・四月公演「春の夜の女絵巻」だった。スクリーンでの緊縛と苦悶の艶技が舞台で見られるというので評判を呼び、さいわい筆者も眼福を頂戴した。
 Wikipediaによれば彼女の映画デビューは一九六七年の「スペシャル」、引退はミュージックホールに出演した三年後の一九七九年で、最後の出演作は「団鬼六 縄と肌」だった。
 引退後はレストラン経営などの事業を展開し、その後は熊本市内でクラブ「大谷」を経営していたがこちらのほうも二0一三年に引退したそうだ。 
 往年のスターとなってもときにその動静は話題になっており、手許の「週刊新潮」一九九七年七月十七日号(下の写真もおなじ)には団鬼六『美少年』の出版祝いにゲストとして招かれたときの模様が報じられていて、壇上の彼女の姿に「ホーッ」というため息が漏れ、「昔と全然変わっていないよなあ」とざわめきが広がったとある。
 団鬼六は『美少年』で「……麻縄で上下に緊め上げられた豊満な乳房が激しく揺れ動いて、凌辱されまいとするナオミの悲痛なばかりの身悶えようは私のような嗜虐趣味傾向のある人間から見れば錦絵のような美しさに感じてしまうのである」と書いている。
 「ゆれる」「ディア・ドクター」「夢売るふたり」などの映画監督西川美和は二00二年の「蛇イチゴ」で監督デビューする前(二000年頃らしい)九州地方に残された昭和の夢の跡みたいなものを集めたドキュメンタリー番組を企画したことがあり(実現はしなかった)、その際、谷ナオミに会いに熊本へ行き、そのときのことをのちに『映画にまつわるXについて』(実業之日本社)に書いている。
 切なげな色っぽさを漂わせた谷ナオミは西川美和に会って「こんな御嬢ちゃんたちがあたしのことを」と言って喜んでくれたが、出演の依頼には一瞬の迷いもなく「ノー」と言った。「お客さんの夢を壊したくない」という元女優に「今も十分お綺麗ですが」と食い下がっても答は変らず、彼女はこんな話をした。
 「あの頃は、お客さんに観てもらう身体だったから……それはもう徹底して管理してたんですよ。肌を焼いてはいけないから、半袖なんか着ませんし、青春時代だったけど、十数年間海に行ったこともありませんでした。大事に大事にして、やっとカメラの前に立ったんです。ああいう世界は、現実には居ない女の居る所でしょう。一生懸命そういう女に仕立てて行って、そうしてお客さんの夢を作ったんですから、お客さんの中では永遠にそれを大事に、抱きしめていてもらいたいんです」
 日劇ミュージックホール「春の夜の女絵巻」のパンフレットにある映画監督小沼勝の「今日活の仕事と日劇の稽古の為ほとんど寝ないでしかも笑顔をたやさず頑張っている谷ナオミさん、あなたはほんとの女優ばかで、それだけにかわいいし、又そこに女としての悲劇をみる思いもするのです」という文章は、上の谷ナオミの話と響き合っている。
 「ごめんね、頑張ってね」とやさしく送り出してくれた谷ナオミに西川美和は「裸になるということは容易ではないのだ。容易な裸には、価値がない」との思いを懐いた。
 谷ナオミが引退して五年後、日劇ミュージックホールも閉場した。すでにビニ本、裏本、週刊誌には「容易な裸」が氾濫していた。
a0248606_10452326.jpga0248606_10455428.jpg
[PR]

by yumenonokoriga | 2015-08-11 10:55 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)