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夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌

脚線美閑話(一)~荷風と犀星

 日劇ミュージックホールの総帥丸尾長顕は「足はセックスを支える柱であり、セックスへの『ローマへの道』」と述べた。そのローマのへ道をすこしばかり歩いてみたい。

  永井荷風が父のすすめで渡米したのは明治三十六年(一九0三年)二十四歳のときだった。九月二十二日に横浜港を出帆し、カナダのヴィクトリア港を経由して十月七日にシアトル港に到着した。爾来耳目を引くものは多く、そのひとつに脚線美があった。
 明治三十八年四月一日付けの友人西村恵次郎に宛てた手紙に、荷風は風俗と境遇が違うとこれまで見慣れた日本の春画は可笑しいばかりで少しも実感を起こさせないとしたうえで「実感の点から云ふと足踊りをやッて居る安芝居の広告画の方が遥に有力なのです。今日春情実感を起させる一番有力なのは、女のペチコートの間から、ほの見える足の形一ツです。細い舞り靴をはいた女の足・・・・・・此れが一番微妙な妄想を起させるです。(中略)女役者の体格試験の中に足の形の検査が容貌のそれより六ケ敷しいと云ふのも一理ありですよ」と述べている。
  明治十年代後半のいわゆる鹿鳴館時代の欧化政策のもと、上流社会の女性のあいだに洋装が流行した。まもなく東京女子師範学校はじめ各地の学校で女子生徒の制服として洋服が採用されるようになった。これがわが国女性の洋装ことはじめだが、スカートの丈は長く、まだ和装の女性が多くを占めていた。
  こうしたなかでアメリカに旅立った荷風は、脚線をあらわにしたレビューの踊子の姿に大きな刺激を受けた。荷風は早くに脚線美を発見した日本人だった。
 やがて女性のファッションの世界ではココ・シャネル(1883-1971)の活動が衝撃的な変化をもたらす。窮屈な服装に耐える服装からスポーティでシンプルなデザインの服装への変化である。女性の社会的進出もそれを後押しした。こうしてスカートの丈は短くなり、足が見えるようになる。そのときの驚きと興奮をのちに室生犀星が『随筆女ひと』に記している。
  「丈の短いスカートがはやり、永い間着ものでかくされていたきめの細かい日本の女の脛は、うすいこまかい緊まりを見せた脂肪のつやを、くつ下のしたからちょっとしたあかりを見せ、電車の座席などで無心にならんで見える膝から踵までの、また、ふくらはぎの伸び方の放心さにいたっては、これまで、そんなところを見たことのない古男共にとっては、まさに驚嘆の唾を飲みこむほどのものであった。それは毎日眺めるものであり、そして生涯眺められる光景のものであって、決して飽きることのないいのちの糧のようなものであった」。
  それまでの「女の手というものには、むかしはたいへんな魅惑があった」「手は女の二番目の顔のようなものであって、仮りに女の人がゆるして男に手をにぎらせるということがあれば、女の人に相当なかくごがいるものである。いまでいうキスをゆるすという程度にほぼ近いものに、手重く見てよかった」時代は過去のものとなり、「薄情なわれわれはもはや手というものを見なくなって了った」のだった。
  男の視線が手から足へ移動していった事情がうかがわれる証言である。
  犀星が『随筆女ひと』を書きはじめたのは一九五四年(昭和二十九年)六十五歳のときだから、上の文に「丈の短いスカートがはやり」とあるのはミニスカートではなくて膝が隠れていた頃だったが、それでも大変な刺激だった。脚線美閑話(一)~荷風と犀星_a0248606_120394.jpg
by yumenonokoriga | 2016-01-15 09:10 | 日劇ミュージックホールの文学誌

いまはない日劇ミュージックホールをめぐるコラムです。

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