2017年 11月 27日
武智鉄二と日劇ミュージックホール
日劇ミュージックホール昭和三十一年の掉尾を飾った公演は「三つの饗宴」(11.16~12.26)で、構成・演出者に丸尾長顕とともに武智鉄二の名前がみえている。
武智鉄二(1912~1988)は狂言作者の意図を尊重する「武智歌舞伎」の演出者、また「黒い雪」、二度にわたる「白日夢」の映画監督として知られる。とりわけ二度目の「白日夢」では愛染恭子と佐藤慶とのセックスシーンが「ホンバン」として大きな話題となった。
『the Nichigeki Music Hall』(東宝、1982年)によると「三つの饗宴」の構成は第一部が武智鉄二構成・演出のヌード能「能楽(のらくら)コント」、第二部が村松梢風のソ連みやげ「野生の女」、第三部が新感覚フォリーズ「感覚の饗宴」で、うち第一部については「ヌード能は武智氏がさきにOSミュージックホールで上演した作品にさらに手を入れたものだが“羽衣”“葵の上”ほかで、奈良あけみの天女に、初出演の関敬六が白竜をつとめ、メリー松原の葵の上は伊吹まり代の御息所を相手に熱演したが、所詮は目先のもの珍しさに止まり」とある。執筆者は橋本与志夫で、武智演出の評価は高くはなかったが、ヌード能はその後もときどき演じられているから、この劇場と能とを結びつけた武智の功績は認めなければならないだろう。(下の写真は「羽衣」の奈良あけみと関敬六)
じじつ武智は昭和三十九年の「真夜中のシンホニー」(7.3~8.30)で小浜奈々子の「関寺小町」を演出して評判を呼んでいる。ちなみに小浜奈々子は十七年間にわたるミュージックホールの舞台でもっとも思い出に残る演目として観世栄夫演出、藤間貴与志振付「小町」を挙げている。小浜とならぶトップスターだったアンジェラ浅丘も昭和四十三年(公演名不明)にヌード能「輪廻」を演じていて、ミュージックホールと能との関係はけっこう深いものがある。
ところで橋本与志夫によればミュージックホールでのヌード能「能楽(のらくら)コント」は武智がさきにOSミュージックホールで上演した作品にさらに手を入れたものだった。OSミュージックホールは大阪、梅田にあった日劇ミュージックホールの姉妹劇場で、日劇ミュージックホール開場の翌々年昭和二十九年にスタートしている。武智のヌード能は昭和三十一年の九月に上演され、二か月後、日劇ミュージックホールの舞台にかけられた。
このとし四十三歳の武智には私生活での大きな変動があった。関西に妻と愛人、実子七人と全財産を置き去りにして東京に逃れ、文藝春秋社の編集者だった西村みゆきと結婚したのである。当時「夫の家出」としてずいぶんマスコミの話題となった出来事で、日劇ミュージックホールでの演出は武智の「家出」とともにあった。
武智は、昭和八年京都帝国大学で刑法学者滝川幸辰を文部省が一方的に休職処分としたのを機に起きた思想弾圧事件、滝川事件のとき、経済学部の学生委員をしており、授業ボイコットの声明文を書いてみずから読み上げたという。
武智に師事した直木賞作家松井今朝子は『師父の遺言』(NHK出版2014年)において、武智歌舞伎、ヌード能、「白日夢」の底流には権威への抵抗があり、その出発点は滝川事件に際しての行為にあったとみていて、OSミュージックホールのヌード能については「能楽の権威主義を否定しようとする意図があったのかもしれない」、能楽に対する見識もある武智によるヌード能は、その世界を震撼させるのに十分だっただろうと論じている。
そのOSミュージックホールの舞台の制作主任は花登筐、出演者には舞踏家土方巽もいた。橋本与志夫は日劇ミュージックホールの舞台は「OSミュージックホールで上演した作品にさらに手を入れたもの」としているが衝撃の度合はOSのほうが大きかったようだ。
ヌード能の遠景に滝川事件という戦前の思想弾圧事件がみえているのが興味深い。