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夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌

カジノ・フォーリーのことなど

戦前、カジノ・フォーリーという淺草で人気を博したレビュー劇団があった。

パリにあったカジノ・ド・パリとフォーリー・ベルジュールをつなぎ合わせたのが名前の由来となっている。

昭和初年淺草の水族館の二階が余興場となり、ここでカジノ・フォーリーが旗揚げ公演をしたのが昭和四年(一九二九年)七月、しかし評判は呼ばず八月一日を以て休演している。

同年十月おなじ劇場でカジノ・フォーリーは再起を図り、レビューガールのエロティシズムを強調した舞台が大評判となり爆発的な観客動員となった。

翌昭和五年になるとカジノ・フォーリーでは金曜日に踊り子がズロースを落とすという風説がどこからか流れ、集客力はさらに高まった。エロ・グロ・ナンセンスの時代の有名なエピソードである。

カジノ・フォーリーが軌道に乗った経過は日劇ミュージックホールのそれとよく似ている。

昭和二十七年三月十六日、日劇小劇場を改装したミュージックホールの第一回公演「東京のイヴ」がスタートした。越路吹雪を筆頭にジャズの水島早苗、バレエの松山樹子ら豪華メンバーを揃えた舞台だったが客の入りは散々で、半月足らずで休場となった。

再開場したのが翌四月の二十五日、「ラブ・ハーバー」の舞台にはミュージックホール・ニンフと称した五人のヌードが出演し、これが起死回生策となった。ヌードのいる、いないが客の入りを決定づけたのだった。

カジノ・フォーリーもミュージックホールもはじめはずっこけた。よくいえばこれが反省材料、マーケットリサーチとなって以後劇場の運営、舞台の演出に活かされたわけだ。

再開したミュージックホールには、金曜日のズロースほどのインパクトをもったうわさや風説は聞かないけれど、それでもthe Nichigeki Music Hall』(東宝出版事業室)には当時の新聞、週刊誌の見出しとおぼしいものがいくつか拾われている―「日劇MH うわさの花は中国歌手」「国際色豊かなMH 〈ラブ・ハーバー〉」「観客も舞台に いっしょにフレンチカンカン」。

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さきごろ井上章一『パンツが見える。羞恥心の現代史』が新潮文庫の一冊となったのでさっそく再読した。元版は二00二年五月に朝日新聞出版より刊行されていて、本書とこれに先立つおなじ著者の『愛の空間』(角川ソフィア文庫)は感動的な面白さをもつ性愛風俗誌の名著だと評価している。

たとえば『パンツが見える。』によると明治末期から大正期にかけての公衆便所事情は男女ではなく大小の別でつくられていて、女性も場合によっては朝顔に背を向けておしっこをしていたそうで、寅さんの「粋な姐ちゃん立ちションベン」の口上は絵空事ではなかった、といった具合。

トイレ事情とおなじく男女で分けない浴場、温泉もけっこうあって、そうなると便所と風呂は昔のほうが男女共同参画の度合が高かったようでもある。

筆者は一九五0年(昭和二十五年)生まれで、残念ながら女の立小便は見たことはないが、小学生のころ路面電車の車内でオッパイを出して授乳していた光景は記憶にある。羞恥心にも歴史があり、すくなくとも昭和三十年代のはじめくらいまではお父さんのためのお乳じゃなければ出していたんですね。

わたしは父方の祖母に背負われて、母の職場へ授乳に行っていたと聞いている。母は小学校の教師で、昭和二十年代に授乳室なんてなかったから、どこで飲ましてもらっていたのだろう。まさかとは思うが路面電車の話から推測すれば、児童があそぶ校庭の片隅での授乳も可能性としてはある。

そういえば、母方の祖父母宅の近くに、あんま、マッサージとならんで「ちちもみ」と書かれた看板があり小学生だったわたしは心ときめいた。

 そのころわたしの家から歩いて十分ほどのところに色町があった。町名とは別に「新地」(新開地にできた遊廓)という呼び名もよく用いられていた。その近くにはトタンかブリキ屋根のアーケードに覆われた「闇市」があった。「新地」も「闇市」もおなじ小学校区だったから通学する友人もいた。そのなかのひとりかどうか定かではないがあるとき異な話を聞いた。「新地」の某館では秘密のショーが行われていて一般の客とは別に特別な客がいるというのだ。秘密のショーといっても特出し以前のストリップなのだが「新地」のそこには特殊な仕掛けがあり、一般の客は座敷に設けた舞台を正面から眺めるだけだが、舞台の下には透かしで見える客席があり特別な客だけが案内されるという。嘘っぱちとの判断はつかない小学生(わたしのこと)には「ちちもみ」とともに刺激は大だった。

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 カジノ・フォーリーの大成功で東京のレビューや軽演劇は二匹目のどじょうを狙い、エロティシズムの強調へと大きく舵を切った。金曜日に踊り子がズロースを落とすと同様のうわさを意図的に流した劇団もあったにちがいない。

 その余波で事態を憂慮した当局が統制に乗り出し、昭和五年(一九三0年)十一月二十四日の通達に「ズロースは、また下二寸未満のもの及び肉色のものはこれを禁ずる」と明記するにいたった。

 昭和の初期は和服の女性が多く、そのほとんど、いや、すべてと言ってよいだろう、ズロースははかなかった。いまでもパンティの線が和服に現れるのを避けて下着を着けない方も多くいるのではないか。

昭和二十四年の映画「青い山脈」(今井正監督)では芸者の梅太郎姐さん(小暮実千代)が沼田医師(竜崎一郎)に自転車のうしろに乗せてもらい、しっかり運転してくださいね、あたしゃ、大和なでしことしてズロースやパンティははいていないんですからといったことを口にする。自転車から落ちて裾が乱れると、陰部が丸見えになってしまう。

 そこのところ石坂洋次郎の原作には「しっかり頼みますよ。先生、私は大和なでしこの血をひいているんで、パンツだかズロースだか、あの窮屈なのが大きらいなんですからね」とある。

下着のおしゃれは普及していない時代だったから、市販されていたのはペラペラしたズロースで、これにしても当時としては贅沢品だったので着古しの浴衣をつぶしてズロースに改造したり、男物のさるまたで代用したりしていた女性も多くいた。戦後の貧しい時代という事情を割り引いても、ズロース、パンティの市場の小さい戦前も似た状況にあった。

 そこでカジノ・フォーリーに戻ってみよう。レビューガールは踊りでスカートを広げ、ラインダンスでは脚を振り上げる。そのとき浴衣地やさるまたの代用品では興を削ぐこといちじるしいし、だいいちショーにならない。おなじズロースでも一般の人がはいているのはぶかぶか、ごわごわ、たいして踊り子には身体にフィットしたものが求められる。

 『パンツが見える。』によるとそれはキャラコという綿素材でつくられることが多く、薄手でつやのあるきめの細かい生地だった。見られるのを前提とするズロースの出現で、日劇ミュージックホールのダンサーたちが着けたきらびやかなコスチュームは日本の歴史としてはここらあたりまでさかのぼる。

これを和服の裾が乱れると陰部が丸見えになるのとくらべるとなんともの足りないと感じた男たちもたくさんいただろう。しかしカジノ・フォーリーの観客動員からは、踊り、ラインダンスの動きのなかに見える脚線や美麗なズロースに心が高鳴った男も多く輩出したことがうかがわれる。

 これには海外からの影響が大きかった。おそらくおなじころのカジノ・ド・パリやフォーリー・ベルジュールの踊り子たちはカジノ・フォーリーよりももうひとつ股ぐりの深い、あでやかなズロース(パンティ)を用いていたと想像される。

 そして一九三0年代になるとハリウッドから洗練されたミュージカル映画がやって来る。フレッド・アステアのフィルモグラフィーを見てみよう。一九三三年「ダンシング・レディ」「空中レビュー時代」、三四年「コンチネンタル」、三五年「トップハット」などなど。そこでは踊るレビューガールのスカートが開いた瞬間に身体にフィットした真っ白なコスチュームが男たちを刺激した。こうして日本の男たちのまなざしもだんだんと変容を遂げていったのだった。


by yumenonokoriga | 2018-05-24 11:18 | 日劇ミュージックホールの文学誌

いまはない日劇ミュージックホールをめぐるコラムです。

by yumenonokoriga
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