カテゴリ:日劇ミュージックホールの文学誌( 248 )

花火の華麗

 肥前国平戸藩第九代藩主松浦静山(1760-1841)が隠居したあと書いた『甲子夜話』で、若いころ両国に納涼に出かけ、隅田川に浮かぶ大小の屋形船で繰り広げられる弦管の音や娼妓の舞や水に映る燈の光を回想しながら「年老たるは悲むべけれども、昔の盛なるを回想するに、かヽる時にも逢しよと思へば、亦心中の楽事は今人に優るべき歟」と述べている。
 ここのところを読んで思い出すのが一九九三年に八十二歳で亡くなった作家野口冨士男のSKD(松竹歌劇団)を讃えたエッセイ「レビューくさぐさ」で、そこには百八十センチ級のヌードの美女が三十人ほども舞台に登場するパリのムーランルージュの迫力はSKDにはない、しかし「SKDの踊りのスピード感と横一線に百人ちかくもならんで踊ることによってかもし出される、ラインダンスに固有な躍動感は舞台のせまいムーランにはない」「レビューの魅力は観ている瞬間だけの華やかさであって、演劇や映画のようにあとあとまで尾をひかない。その華麗さは、夜空に打ち揚げられる花火のようなものである。瞬間に消えてしまう歓楽ほど、贅沢なものはない。その贅沢さを知らぬ人は、なぜ花火が美しいかを理解できぬ心の貧しい人でしかないだろう」とある。
 一九八三年(昭和五十八年)八月の歌舞伎座でのグランドレビューを機に執筆された一文は、レビューの魅力を伝えるとともにフランチャイズである国際劇場を失い歌舞伎座に進出したSKDへの応援歌でもあった。
 松浦静山のいう、大小の屋形船で繰り広げられた弦管の音や娼妓の舞や水に映る燈の光と、野口冨士男の夜空に打ち揚げられる花火の華麗、瞬間に消えてしまう歓楽とが通じあっているのは一読、明らかであろう。
 SKDの前身SSK(松竹少女歌劇)が誕生したのが一九二八年(昭和三年)、ターキーこと水の江滝子の登場で人気が湧いたのが翌々年、野口はターキー登場直後あたりからのファンだった。一九一一年生まれだからいまでいえば高校生のころから魅せられていて、学生時代には「少女歌劇論」という論文を書いて劇評家にこの道へ進むよう激励を受けたこともあったという。
 「レビューくさぐさ」の六年後、SKDはレビュー劇団としての生命を終えた。そのとき野口は同劇団を追悼して「また一つ」(「群像」一九八九年六月号)を書いた。
 七十八歳にもなって少年時代から愛好してきたものがまた一つ消えていく淋しさ、「あのアトミックガールがもう観られなくなるのか、あの華やかなフィナーレにめぐり会えなくなるのかと思うと、こんな年まで生きてしまったばかりに、これほど寂しい思いをさせられるのかという気持も、わかる人にはわかってもらえるのではなかろうか」。
 みずからの老いをみつめながら、華やかだったレビューとその死を悼んだ名品である。
 老作家がSKDに捧げたオマージュは、日劇ミュージックホールのファンだった方なら「わかってもらえる」にちがいない。
 こうしてSKDのレビュー、ミュージックホールのヌード・レビューといった贅沢、その花火のような歓楽の美しさは日本の社会から消滅したのである。この時点で、社会と人心の変化によりレビューという形式で女性の美しさを表現するのは時代遅れとなったと解釈してよいのだろう。そのことを承知しながらも瞬時に消える花火の華麗の歓楽を忘れ去る気にはなれない。

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by yumenonokoriga | 2017-10-27 11:30 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

森泉笙子「もうヒトツのソラ展」のお知らせ

森泉笙子「もうヒトツのソラ展」が10月2日(月)から21日(土)まで銀座のギャラリー&バーKajima(東京都中央区銀座7-2-20山城ビル二階 tel.03-3574-8720)で開催されます。
たくさんの方のご鑑賞(お酒もね)をお願い申し上げます。
以下、森泉さんの略歴、活動歴です。
1933年 東京に生まれる
1957年~58年 関根庸子の名で日劇ミュージックホールにショーダンサーとして出演
1959年 新宿二丁目にバー・カヌーを開店
1965年 バー・カヌー閉店

作家として
1957年 関根庸子の名で処女作「女の復讐」を「週刊新潮」に発表
1959年 『私は宿命に唾をかけたい』(光文社)
1965年 埴谷雄高氏よりペンネーム森泉笙子をいただく。
森泉笙子名による主要著作
『危険な共存』(河出書房新社1970年)
『天国の一歩手前』(三一書房1984年)
『新宿の夜はキャラ色』(三一書房1986年)
『香港の朝起会』(深夜叢書社1988年)
『ブーゲンビレアの花冠』(三一書房1990年)
『食用花』(深夜叢書2000年)
『青鈍色の川』(深夜叢書2009年)

画家として
2010年 「森泉笙子寄贈絵画―埴谷雄高とかかわりのあった人たち」展(埴谷島尾記念文学資料館・福島小高)」
2011年 「もうひとつのソラ」展(ギャラリーKazima・銀座)
2012年 「もうヒトツのソラ」展(サロンドゥラー・銀座)他
2016年 「もうヒトツのソラ」展(プロモ・アルテ プロジェクト・ギャラリー・青山)他
(2016年「もうヒトツのソラ展」図録より)

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by yumenonokoriga | 2017-09-25 09:00 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

カストリ時代

 第二次世界大戦直後の日本で出回った粗悪な密造焼酎を俗にカストリと呼んだ。統制外の粗悪な紙を用いて濫造された低俗な内容の雑誌を指してカストリ雑誌という。つまりカストリは戦後すぐの時期を象徴する言葉だった。
 林忠彦『カストリ時代』という写真集があり、朝日文庫版の表紙には日本劇場の屋上に横たわる踊り子の写真があしらわれていて、この表紙にふさわしく「裸と夢」の一章がある。
 敗戦後の解放感と女性の美がセットになった「裸と夢」という題がよい。昭和二十二年に撮影した日劇ダンシングチームのラインダンスの写真に添えて写真家は「ラインダンスは戦前からあったが、華やかに復活した」と書く。昭和十三年に岩波書店から上梓された永井荷風『おもかげ』には荷風みずから撮ったラインダンスの写真があるが両者をならべて眺めると「華やかに復活した」という気分になってくる。
 カストリ時代は停電が多く電車が停まるので、家から劇場へかよっていると時間にまにあわなくなるおそれがあるため、劇場に泊まり込みの踊り子が多くいたという。同書には国際劇場の泊まり込み用の布団が数列にわたって置かれた写真がある。「夢」の舞台裏を撮った貴重でいとおしい一枚だ。
 昭和二十四年の日本劇場五階は日劇小劇場、いわゆる日小の時代で、このころからストリップ全盛の風潮の余波が日小に及んだ。「演しものにもお色気主体の作品が目立ちはじめ、セントラル・ショーや朱里みさをとパルナスショーなどの進出にも刺戟されて日小独自のエキサイトショー、クライマックス・ショーの上演にいつながっていった」と橋本与志夫「日劇ミュージックホール30年の歩み」にある。
 「女の楽園」「女の祭典」「女の凱旋門」「女の宮殿」「女の摩天楼」というのが昭和二十四年当時の演目で、これが二十五年、二十六年になると「女のポポ」「濡れるマンボ」「女のデデ」「色ぼけポポ」「女と毛槍」「女の川開き」というふうにきわどさは下流のほうへと発展した。
 劇場支配人以下出演者の何人かが所轄の丸の内署に連行されることもしばしばあり、やがて小林一三の「丸の内からハダカを追放せよ」との大号令が下された。
 昭和二十七年日劇小劇場は日劇ミュージックホールとあらため再出発したが、これとカストリ時代を重ねてみると、日小の終焉を以てカストリ時代は終わったとみえる。ちなみに経済企画庁「経済白書」に「もはや戦後ではない」と記述されたのはミュージックホール開場の四年後、昭和三十一年のことだった。
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by yumenonokoriga | 2017-08-30 11:57 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ある懐古記事

 日劇ミュージックホールが閉場したのは一九八四年(昭和五十九年)三月二十四日だからすでに三十余年が経つ。「夢の残り香」としては、もっともっと関係者やファンの懐古談を読んでみたいと願っているがなかなか叶えられない。
 といったことを思いながらパソコンにある資料を整理していたところ、以前にダウンロードしておいた懐古記事を見つけた。
 「カタツムリの戯言」というブログの一篇で「古秀さん」の署名、二00二年六月十四日の日付がある。念のため検索をかけてみたが同ブログの所在は知れなかったのでお断りなしの紹介となる。
 「いささか懐古趣味になりますが、今はもう無くなって久しい日劇ミュージックホールが懐かしいです。覚えて居るだけでも、奈良あけみ、小浜奈々子、アンジェラ・浅丘、五月美沙、島淳子、朱雀さぎり、松永てるほなどなど素晴らしいスター達が居て、抜群のプロポーションと美貌を誇り、数々の伝説(例えば大酒豪だとか・・・)の持ち主も沢山いました。もう二度とあんなショウは見れないと思うと、あれは本当によき時代だったんだなあと思います」。
 このとき「古秀さん」は六十三歳だから観劇歴は相当に年季がはいっている。ただしジプシー・ローズの舞台には間に合わなかったようだ。わたしはほぼ一回り下でここに名が挙がったダンサーのうち奈良あけみのステージには接していないが、それでも眼福に恵まれたほうだろう。
 「自分はいつも公演が始まるとその初日に行く事が多かったです。もう待ちきれないというか・・・」と「古秀さん」は熱心だ。
 ある日、その熱心が暴走して、ことによるととんでもない事件になりかねない行為に及ぶ。
 「立ち見席で両手をうしろで組んでいる若い子がいたので、その子の真後ろに立って股間を押し付けるとすぐさま握ってきました。それでふたりで外出し、第一生命ビルの大きな柱の陰でしこしこやっただけで別れました。今となってはそれもこれもただただ懐かしい思い出です」。
 事件とならなかったうえにうらやましい体験をなさった次第で御同慶の至りだけれど、事件となれば威力丸出しのセクシャルハラスメント、強姦未遂の刑事犯だ。
 もっともミュージックホールが閉場した当時はまだセクハラという言葉は広く知られていない。一九八九年刊行の新明解国語辞典(第四版、三省堂)にはセクシュアルの項目はあるがセクシュアルハラスメントはない。じつは福岡市の女性が全国ではじめて性的嫌がらせを理由に提訴したのがこの年で、当時はいまほど聞き慣れた用語ではなかったから第四版はこの言葉を採らなかったのだろう。
 それから十年、一九九九年に第五版が出て、ここにはセクハラが立項されている。第四版と第五版とのあいだの年月にこの問題が大きな社会問題となり、セクハラという言葉が定着したことがうかがえる。なお語釈には「性的嫌がらせ、特に職場などで、女性に対して当人がいやがる性的な言葉を男性が口にしたり行動に表したりすること」とある。
 話題をミュージックホールに戻すと、わたしには「古秀さん」のように立ち見席の若い女性の姿態にまで目を遣ったおぼえはない。一回り下の若者にはステージの美女をまえにそうした余裕はなかったとしておこう。
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by yumenonokoriga | 2017-07-28 10:58 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

資料紹介~新潮45 2017・7月号

 たまたま図書館で手にした雑誌「新潮45」7月号グラビアに日劇ミュージックホールをはじめロック座、新宿セントラル劇場などのパンフレットの画像が掲載されていました。
 また踊り子ではジプシー・ローズ、吾妻京子、伊吹マリ、園はるみ、ハニー・ロイ、桜洋子、春川ますみ、ヒロセ元美、アンナ水原の写真があります。
 題して「時代の標本 松田コレクションの世界 7」~嗚呼、ストリップ時代
 映画演劇史料収集家 松田集氏のコレクションと説明があります。
 多くは昭和二十年代なかばから三十年代前半にかけての「時代のついた」貴重なもの、あの時代を知らなくても昭和のノスタルジーが喚起されます。未見の方、手に取ってみてください。
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by yumenonokoriga | 2017-07-03 10:55 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

『谷口征写真集 THE DANCER 殿岡ハツエ』

 本ブログをご覧くださっているある方から日劇ミュージックホール関係の資料を何点かいただきました。ありがとうございます。感謝に堪えません。
 いずれも貴重なものばかりのなかで、とりわけ標題の写真集は著者名も書名も、つまり本の存在さえ知らなかったものですから、ことのほか意外の感がしました。ミュージックホールのダンサー個人の写真集としてはわたしが知る限りでは唯一のものです。
 書誌については以下のとおりです。
『谷口征写真集 THE DANCER 殿岡ハツエ』
昭和五十年十月十七日第一刷発行
発行所 スタジオ・テン
協賛 旭光学商事株式会社
 三十三葉の写真のモデルは殿岡ハツエひとりだけ。ほかには、冒頭に「“踊りは仕事なんだけど休息でもあるのよ。一人でいる時も踊っているのよ」というモデルのことばと、最後に散文詩のようなカメラマンのあとがきがあります。
 踊り子を撮りつづけたカメラマンとしては稲村隆正を知るだけでしたが本書で谷口征という方を知ったしだいで、同氏は『黒木瞳―17か月のDesigned Woman』『叙情の虚構―永島暎子写真集』『褐色のままでー向井亜紀写真集』といったふうに女優を対象とする作品集を多く刊行されています。
 殿岡ハツエは昭和三十年代後半から五十年代はじめにかけてしばしばミュージックホールにゲスト出演したダンサーで、客演したセミヌードのダンサーとしてはいちばん回数を重ねていると思われます。本書には彼女の踊るよろこびや官能的な姿、またコケティッシュな表情などその多彩な魅力がいっぱい詰まっています。
 なお、本ブログの二つの記事「『いれずみ突撃隊』と『かぶりつき人生』」(2014/12/10)ならびに「プカプカ」(2014/12/15)にもご登場いただいていますので参照していただければさいわいです。
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by yumenonokoriga | 2017-05-16 11:30 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

美女の形容

 ときどき気が向いたときに『千夜一夜物語』を読んでいる。テキストは英語で著されたバートン版で訳者は大場正史。中世のイスラム世界がいきいきと描かれた同書にはいまのイスラム世界のイメージからはほど遠いたくさんの艶笑譚が収められている。
 たとえば同書第九夜「バグダッドの軽子と三人の女」で、たぐいまれな美女が一糸まとわぬ姿で池に飛び込み、ひと泳ぎしたあと上がってきて、自身の「細長い切れめ、つまり裂け口」を指さして、軽子(荷物運搬を業とする人足)に、ここは何というのと問いかける場面がある。
男が「それは玉門といいます」と答えると美女は、そんな言葉を口にして恥ずかしくないのとばかにする。軽子はあれこれ挙げてみたものの女は満足せず、だったら貴女はそこを何と呼ぶのかと逆に質問したところ「橋のめぼうき」との答えが返ってきた。
 日劇ミュージックホールの美女をめぐるコラムの筆者としてはまことに慚愧に堪えないのだがイスラム世界の美女が口にした「橋のめぼうき」がわからない。ちくま文庫の註釈には「めぼうきCcymum basilicumは、ボッカチオ第四日第五話のbassilicoにあたる」とあるが、困ったことにこれでは余計にわからない。博雅の士のご教示をお願いしておきたい。
 念のため『デカメロン』の該当箇所にあたってみたが「橋のめぼうき」に関連のありそうな言葉はなかった。
 それはともかく、軽子はさらに別の美女からおなじ質問を受ける。そこで「橋のめぼうき」と応じたが、女はこれを拒み「莢をむいた胡麻の実」と言う。胡麻の実を知らない方は落花生を思いうかべるとよいでしょう。
 くわえて三番目の女が同様の問いかけをする。男は「橋のめぼうき」「莢をむいた胡麻」を挙げたがいずれもだめでここは「旅人の宿」じゃないのと言うのだった。「旅人の宿」なんとなく風情があっていいですね。こんなふうに女性の性器をどのように表現するかをめぐってやりとりがつづく。
 ついでながら手許にある『アメリカ俗語辞典』(ユージン E.ランディ原編 堀内克明訳編 研究社出版)のvaginaの項には五頁余にわたり千以上の訳語があり、その表現においてわが日本もイスラム世界に負けず劣らずずいぶんと意を用いてきたと知れる。残念ながら旅人の宿はなかったが、旅の縁語とおぼしいのを拾うと愛の泉、華門、花洞、秘丘といった具合。
 もうひとつイスラムの文学は美女をどんなふうに形容しているかを眺めてみよう。前項とおなじ「バグダッドの軽子と三人の女」には以下の記述がある。
 「背のすらりとした、およそ身の丈五尺ばかりの女で、器量といい、愛くるしさといい、ひときわすぐれ、まさしく豊艶と均整と、たとえようもない優雅さの雛形」
 「額は花のように白く、頬はアネモネのように紅に輝き、目は野生の若い牝牛か、羚羊のそれ。眉は第八月(シャーバン)を終わり、第九月(ラマザン)を迎える三日月のようでございました。また、口はといえば、スライマンの指輪にまごうばかりで、唇は珊瑚のように赤く、歯並びは真珠かカミツレの花びらを横にならべたようで、のどもとは羚羊をしのばせ、乳房は同じ大きさのふたつの柘榴に似て、いわば人に歯むかうように、つき出ていました」
 「体は着物の下で、丸めた金襴の錦のように、波をうって起伏し、お臍には一オンスの安息香油もはいりそうでした」
 というふうに美人の形容の総論は豊艶と均整と優雅で、あと各論として額、頬、眉、歯並び、乳房そして最後にお臍がくる。ベリーダンスを浮かべるまでもなく、イスラム世界のセクソロジーにおいてお臍はたいへん重要な位置を占めていると考えられるが、そのいっぽう『千夜一夜物語』はお臍、「旅人の宿」につづく脚線にはまったく触れていない。あるいはこれもイスラムふうなのかもしれない。
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by yumenonokoriga | 2017-03-21 10:25 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

美女へのまなざし

 先日池袋で用を済ませたあと雑司ヶ谷に廻り鬼子母神と霊園を散歩した。はじめて鬼子母神に参詣したのは市川準監督「東京兄妹」にあるこの界隈の詩情ゆたかな映像に惹かれたのがきっかけだった。一九九五年の作品だからはや二十年余が過ぎ、このかん二00八年には市川監督が五十九歳で歿した。
 霊園で永井荷風の墓参をしたあと園内をあるいているうち竹久夢二の墓地の標識を見かけたので行ってはじめて手を合わせた。文京区弥生と夢二のふるさと岡山にあるふたつの夢二美術館には行ったことがあるが墓地の所在はこの日はじめて知った。
 雑司ヶ谷霊園から池袋に戻り喫茶店で吉川英治『鳴戸秘帖』を読んでいると、阿波にはたくさんの美人がいるが、あの豊麗な、肉感的な、南国色の娘たちとは、これはまた、クッキリと趣をかえた美人、太夫鹿の子の腰帯に、裾を上げて花結びにタラリと垂れ、柳に衣装をかけたようななよやかさといったくだりがあり、夢二の描くスレンダータイプの美人が浮かぶとともに、丸尾長顕氏がよくこの種のことを話題にしていたのを思い出した。
 吉川英治の豊麗な、肉感的な、南国色の娘たちを丸尾流に言えば「やや脂肪質の、極度に曲線的で、ヴォリュウムがあって、性的なエネルギーを発散している多産型の肉体」となる。
 いっぽう太夫鹿の子の腰帯に、裾を上げて花結びにタラリと垂れ、柳に衣装をかけたようななよやかさを丸尾は性的なエネルギーは稀薄で、乳房も小さく、ヒップにもセクシーな魅力はないけれど「見るからに清潔であり、清楚であり、知的な印象を持つ肉体」と表現する。
 そのうえで日劇ミュージックホールの総帥は前者の典型として伊吹まり代とジプシー・ローズを挙げ、後者のそれを小川久美とし、その中間に位置しているのが小浜奈々子と述べている。(『女体美』昭和三十四年、五月書房刊)
 『鳴門秘帖』は江戸時代中期、十八世紀半ばの物語で、奈良時代の吉祥天女のころはいざ知らず、仮に作者の記述が当時の男の「女体美」に向けたまなざしをそれなりに示しているものだとすれば、丸尾が採りあげた昭和三十年代の男たちの視線に通じている。
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by yumenonokoriga | 2017-03-02 11:53 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

荒木一郎と日劇ミュージックホール(つづき)

 前回紹介した荒木一郎『まわり舞台の上で』にある、荒木の事務所経由で日劇ミュージックホールの舞台に立ったダンサー。答えはジャンボ久世。
『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)に「東京都北区赤羽の生まれ。本名苦瀬静枝。川村中学を経て、1972年、川村高校を卒業。アルバイトでゴーゴー・ガールをしているところを荒木一郎にスカウトされて、芸能界に入る。74年の日活映画『江戸艶笑夜話・蛸と赤貝』でデビュー。しかし大柄な身体が映画界では生かされないと判断して、映画界を去る。赤坂のコルドンブルーの踊り子に転じ、75年3月に“75年の大型新人”という触れ込みで、日劇ミュージックホールの舞台に立つ。そのとき、それまでの本名から93センチのバストにちなんで、ジャンボ久世の芸名をつける」とあり、これが彼女の公式の記録で、『まわり舞台の上で』にあるのが非公式の履歴となる。あるいはタテマエとホンネといったところか。
 93センチのバストも公式記録らしく『the Nichigeki Music Hall』(東宝出版事業室)には「ぼくらの印象では、あれはたしか一メートルは越していた。ウエストは80センチ(?)に近く、ヒップも一メートルオーバーで、だからこそ文字通りの“ジャンボ”だったのである」とあったりする。
ところで『まわり舞台の上で』にはミュージックホールに迎えられた彼女は以後同劇場の終焉までずっと中堅のスターとして踊ったとあるが、たしか失踪事件を起こしてミュージックホール最後の舞台には立っていない。
 ちなみにネットで検索をかけたところ「北脇貴士のブログ」
(http://takashikitawaki.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/429-1c71.html)に昨年四月に催された「ホープ一門ライブ」に彼女が出演したとの記事があり、そのときの写真も掲載されていた。
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by yumenonokoriga | 2017-01-27 10:29 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

荒木一郎と日劇ミュージックホール

 役者、歌手、作詞作曲家、プロデューサー、芸能プロダクション経営者、小説家とジャンルを超え多岐にわたって活動を続けてきた荒木一郎が昨年十月に刊行した『まわり舞台の上で』(文遊社)を読んだ。一九四四年生まれの奇才がその人生の軌跡と活動の集積を存分に語った作品である。
タフとやんちゃを併せ持つ人の語り口は痛快で、ときに娯楽読み物に目を遣っている気になる。たとえば桃井かおりが初めてのLP「ONE」(一九七七年十月)をフィリップスからリリースする直前の光景。
 フィリップスの社長がプロデューサーの荒木に無断で歌謡曲のアルバムみたいなジャケットをつくる。それを知った荒木は「なんだよ、社長呼べ」と言い放つ。
 制作の部屋に来た社長に荒木は「なんでお前がやるんだよ。桃井かおりをお前がやれるのか。お前がやれるんならお前がやれ。どれだけの思いをしてこっちがやってると思ってんだ」と啖呵を切りジャケットを社長に向けてぶん投げる。
 「いやいや・・・」と専務が間に入る。
 荒木「いやいやじゃないよ」「社長がやるんだったら俺は引くから、かおりと契約してるんだから勝手にやりゃいいよ。俺にやらせるんだったら、俺の言う通りやれよ」
 社長「やっていただきたい・・・」
 荒木「やっていただきたいじゃなくて、まず、やったことに対して謝れ。謝ってから言えよ」といった具合。
 とうぜん歯に衣着せない批評が随所にある。
 「こないだ、村上春樹がチャンドラーを訳したのを買ってきてみたときに、もうひどくて。やっぱり全然、何にも分かってないなと・・・・・・ハードボイルドが見えないっていうか、全然違うところにいるんだなぁと思った。やっぱり日本人のオタク的な人なんだろうなぁと思う」。
その根拠として荒木は、村上春樹の頭のなかにチャンドラーが書くマーロウみたいな探偵が存在してないのではないか、ただ憧れはあって、その憧れだけで書いた(訳した)のではと語る。
 わたしはレイモンド・チャンドラーのファンと自認しているけれど、村上訳チャンドラーの評価を云々する力はない。ただノーベル文学賞候補ととりざたされる作家を神格化することなく、明快で率直に論ずる姿勢には好感を持った。これなしに言論の世界の充実はありえない。

 ところで荒木は現代企画というプロダクションを経営していて、一九七0年代、池玲子、杉本美樹、芹名香ら東映、日活のポルノ女優の多くが所属していた。ここにマネージメントを担当していた荒木のいとこのおばさんがいて、ある女優を見つけてきた。ところがこれが箸にも棒にもかからない。やたらにでかいオッパイだけで日活に連れて行っても相手にされず通行人みたいな役しかつかない。
 でもすごく一生懸命やってるからなんとかしてあげたいと荒木は一考した結果、彼女はレストランシアター、コルドンブルーの舞台でハダカになることになった。やがてダンスを覚えた彼女は「いつか、日劇ミュージックホールに出たい」と口にした。荒木はそんな夢があるんだったら叶えてやりたいと思う。
 「どうやって日劇ミュージックホールにつなぐか、考えた。それで、日活に話して、日劇にコネを持ってるのがいるかって聞いたら、日劇を仕切っているのが、同じ名前の荒木っていう人だと言う。同じ名前だから、向こうも意識してるんじゃないかって思って、日活の紹介もあったけど、とにかく当たってみたんだ」。
 ミュージックホールの荒木尚志プロデューサーがどれくらいおなじ姓の荒木一郎を意識していたかどうかはわからないが、ともかく二人の荒木の会見は実現し、当の彼女はミュージックホールに迎えられ、以後同劇場の終焉までずっと中堅のスターとして踊った。
 『まわり舞台の上で』にある荒木一郎がミュージックホールと関係した箇所だが、困ったことにコルドンブルーを経てミュージックホールの舞台に立った彼女の名前がしるされていない。他のブログであればともかくここではそのままにはしておけない。そこで勇躍、研究に取り組んだわけですが、意外と簡単にわかりました。答えは次回で。
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by yumenonokoriga | 2017-01-12 10:18 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)