谷崎潤一郎と日劇ミュージックホール

a0248606_1002921.jpg 小説に描かれた踊り子といえばすぐに思い浮かぶひとりに颯子さんがいる。谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』の主人公の息子の嫁で、七十七歳になる督助老人が懸想する元レビューの踊り子で七歳になる息子がいる。
 老人の日記によるとNDTに入団したものの、有楽町にいたのはわずか半年ほどで、その後は浅草あたりで踊っていたようだ。ナイトクラブにも出演していたらしい。ここのところはストリッパーだったのを匂わせているのだろう。
 スレンダータイプの美人で、身長は老人よりもすこし高くて百六十一センチ五ミリある。彼女が日劇で踊っていたのは昭和二十年代のなかばだったから当時の日本の女性からすれば相当の上背だった。嫁いできておよそ十年、歳月を経るほどに美しくなる、と老人はいう。化粧や立ち居振る舞いがみょうに派手に見えたのが、いまではしっとりと落ち着いた妙齢の主婦となって、以前の踊り子臭い感じはない、と老人は手放しの喜びようである。
颯子が良家の奥様然としているのを老人は讃えているけれど、うれしいことに足だけは隠せない。颯子の足はなんといってもダンサーの足で「颯子ノ足ハ柳鰈(やなぎがれい)ノヨウニ華奢デ細長イ」。ラインダンスを舞ったレビュー・ガールの足に魅せられている老人は、颯子のなかに踊り子を見てしまうのだ。
 ある日、颯子がサンダルヒールを穿いているのを老人は見て彼女に訊ねる。
 「何デソンナモノ穿いイテルンダネ」。すると彼女は「ミュージックホールノヌウド・ショウナンカヘ行クト、ミンナ裸デコレヲ穿イテ出テ来ルワ。足気狂イノオ爺チャンニハ、コレモ魅力ジャナイ?トキドキ足ノ裏ガ見エタリシテ」。このあと彼女は老人に「二十分以上モ所謂ネッキングヲ恣ニ」させて宝石をせしめるのであった。
 日劇ミュージックホールのパンフレットを眺めると、ハイヒールを穿いているダンサーとともにサンダルヒールを穿いた踊り子の写真がある。ミュージックホールのファンだった谷崎の観察の細かさとフェティッシュな感覚が窺われる。
 谷崎がこの作品の口述をはじめたのは一九六一年夏、すでに手が不自由ばかりでなく外出も思うにまかせなかった。ミュージックホールへの出遊もできないもどかしさのなかで颯子という人物の創造は谷崎に慰めと愉悦をもたらしていたにちがいない。     
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by yumenonokoriga | 2012-02-25 06:21 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

橋本与志夫

a0248606_10231748.jpg  一九八四年(昭和五十九年)日比谷の日劇ミュージックホール閉場の際にはNHKが特別番組を組んだ。乳房もあらわな舞台の様子を放映したのだから大英断だった。ジプシー・ローズのマネージャーだった正邦乙彦や演劇評論家橋本与志夫が出演してインタビューに応じていた。三十二年にわたるミュージックホールのすべての公演を見たと紹介のあった橋本が、閉鎖は残念、惜しまれるとは口にせず、「もう、いいよ」といっていたのが印象的で、ダンサー、コメディアン、裏方さんを思う慈父のような表情だった。
 一九七二年(昭和四十七年)の末から翌新春にかけてのミュージックホール開場二十周年記念「すべて乳房からはじまる」は、この劇場の大スターだった小浜奈々子の引退公演ともなった舞台だったが、この公演のパンフレットに橋本の「観客席からの二十年!」と題する一文が寄せられている。
 一公演二カ月として一年に六回、二十年で百二十回に及ぶ公演をほとんど落さず丹念に見続け、なかでも開場した昭和二十七年の九月から十一月にかけての公演「恋愛15の愉しみ」のときは十数回も客席の後方に立って見た、それほどたのしさに満ち溢れた舞台だったと回顧談を語っている。評論家として舞台のたのしさを伝えたい思いが十数回の観劇となったのだろうが、はじめ読んだときには、うらやましい人生があるなあと思ったものだった。
 演劇評論といっても橋本は、レビュー、ストリップ、ミュージカルが中心で、とりわけ「特出し」「マナ板」が猖獗を極める以前のストリップについて語れる評論家はこの人をおいてほかにいないといってよい存在だった。氏が愛してやまなかった日劇ダンシングチーム(NDT)、松竹歌劇団(SKD)、日劇ミュージックホールはすべて消滅してしまったから、もうこうした評論家があらわれる可能性はない。それゆえに、生涯にわたって見つづけたショービジネスの世界をもっともっと語ってほしかったと悔やまれてならない。命日は一九九八年五月二十一日。享年八十二歳。 
さいわい昭和二十年代から三十年代にかけてのストリップについては『おお!ストリップ』と『ヌードさん』が、またNDTについてはその全公演を記録した大著であり、遺著となった『日劇レビュー史』が残されている。SKDについては未見ながら『松竹少女歌劇物語』(南風書房、一九五0年)があるという。いまとなってはこれらをつうじて橋本与志夫の夢の思い出にめぐり会うほかない。
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by yumenonokoriga | 2012-02-20 06:44 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

夕雨子

a0248606_9103347.jpg 劇評家で作家、エッセイスト、演出家でもあった戸板康二にはしょっちゅう酒席をおなじくする十数名の仲間がいた。一九八四年に刊行された戸板の『思い出す顔』に収める「酒席の紳士淑女」によると仲間内として小田島雄志、清水邦夫、大河内豪といった名前が見えている。
 四谷の「F」が溜まり場で、丸の内の劇場からの交通上の便利さがあって、この店に行く機会が多くなったという。六本木では「夕雨子」や「ザ・クレドール」が行きつけの店だった。
 吉村平吉『浅草のみだおれ』に、高見順の代表作「如何なる星の下に」の主要な作中人物「美佐子」のモデルだった元踊り子さんが七十七歳で亡くなったことが書かれてある。
〈昭和十五年の七月、浅草楽天地(現在の花やしき)内の劇場で、新しく結成された楽天地ショウによって「如何なる星の下に」が劇化上演され、わたしはむろん早速観に出かけた。そこで美佐子のモデルだった故人は、当の”美佐子”を演じたのだった。〉
 「美佐子」には浅草のレビューの文芸部に籍のある夫がいて、戦争中に胸を悪くして早逝した。高見順のお弟子さん的存在だったという。
〈彼女と早死したご亭主との間に娘さんがいて、名付け親は高見先生だという。その娘さんは成長してかなり名のあるダンサーになったのだが、いつだったか、わたしに父親の面影を見るようだといってくれたことがある。〉
 この「成長してかなり名のあるダンサーになった」娘さんが日劇ミュージックホールの水原まゆみにほかならない。いっぽうで彼女は戸板康二がよく行っていた「夕雨子」という店を六本木に開いていた。本名の井上悠子にもとづく命名だった。
 母親の告別式では吉村平吉がおわかれの辞を述べた。戸板康二と吉村平吉とは「夕雨子」で出会って、いっしょにお酒をのんだことがあったのだろうか。
 『浅草のみだおれ』は一九九七年の刊行だがいろんな機会に書かれた短文の初出が示されていないため「美佐子」がいつ亡くなったのか、この本からはわからない。娘さんの「夕雨子」も二00三年八月十六日不帰の客となった。一九四八年の生まれだからあまりに早い死だった。
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by yumenonokoriga | 2012-02-15 06:43 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

松永てるほの転身

a0248606_20494135.jpg 吉行淳之介に「踊り子」というエッセイがある。一九八一年(昭和五十六年)日本劇場の取り壊しを目前にして、作家が日劇ミュージックホールを訪れたときのことを書いたもので、はじめ「オール読物」に発表され、のちに吉行淳之介『私の東京物語』(山本容朗編)に収められた。
 なかに、ある会合で、松永てるほが周囲に聞こえる声で「わたしを裸にしたのは、この人よ」というくだりがある。NDTに在籍していた松永てるほが退団してミュージックホールに移ったのは昭和三十年代末のことだった。てるほが口にしたように、この移籍については吉行の影響があり、「踊り子」にはそのときのいきさつが述べられている。
 はじめて吉行が丸尾長顕の紹介でてるほに会ったとき彼女はまだNDTの団員で、ミュージックホールには他のメンバーとともに「セクシー・ファイブ」というセミ・ヌードのチームで客演していた。そのことをてるほが吉行にいうと、吉行から「あそこでセミ・ヌードなんて中途半端でよくない。ヌードになっちゃったほうが、ずっときれいだよ」との言葉が返ってきた。てるほは、それで脱ぐ決心をしたと語る。
これに対して吉行は次のように述べている。
〈つまり、私の言葉が決心をかためる一つの要素になったことは確かであるらしいが「裸にした」わけではない。戦後二十年経っていたその時期でも、そういうときには女は悩むし、その事情は現在でもほぼ同じであろう。世の中にヌードは氾濫しているが、そのすべての女が、あっけらかんと裸になっているわけでもあるまい・・・・・・。〉
 松永てるほの転身については橋本与志夫『日劇レビュー史』にも記述がある。
〈或る時「ブラジャーをつけてヌード劇場へ出ているのでは、刺身のツマに過ぎぬではないか」といわれて発奮「ようし、それなら刺身になってやると転身を決意したというのだ。〉
 刺身のツマ云々も吉行淳之介の言葉として聞いたおぼえがある。
『日劇レビュー史』には松永てるほとおなじくNDT出身のヌードダンサーとしてパール浜田、サリー宮川、ミッチー原、島崎魔子、沢美奈、三笠比与子、谷佑子といった名前が挙げられている。
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by yumenonokoriga | 2012-02-10 09:13 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

女優・松永てるほ

a0248606_9524674.jpg 日劇ミュージックホール出身の女優といえば春川ますみやあき竹城が思い浮かぶがいずれもヌードを引退してからの転身だった。現役時代に主役級でスクリーンに登場したのは伊吹まりや殿岡ハツエ、マリア茉莉がいるが本格的には松永てるほだけといってよいだろう。
 川本三郎『朝日のようにさわやかに』に彼女が主演した日活ロマンポルノ作品「情痴の檻」に触れた一文がある。物語は川崎あたりでコールガールをしていた女が足を洗い、過去を隠して小さな町の床屋の後妻になっている。亭主は喘息持ちでセックスのほうもダメになっているが、それでも女は小さな幸福に満足している。そんなある日、彼女はむかしのなじみ客に偶然会う。そこからよりが戻ると、お定まりのコースで二人は夫を殺してしまう。J・ ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を思い起こさせるストーリーだ。
 川本三郎はこの映画の松永てるほを讃えていう。
〈女を演じているのは日劇ミュージック・ホールのダンサー、松永てるほ。派手な女だとばかり思っていたがいつからこんなやるせない女が出来るようになったのだろう。いつもは化粧もせず髪をひっつめている女が”向う岸”に男に会いに行く時にはじめて口紅をひき、マニュキアをする。それまで目立たなかった松永てるほがゾクッとするほど色づいた。〉
 川本三郎の「派手な女だとばかり」のイメージは「ヌードの殿堂」としてのミュージックホールのショーの構成や内容から来ている。それが「情痴の檻」では一転して「やるせない女」が演じられた結果、「派手な女」との落差が生じ、そこに著者は松永てるほの魅力を見たのだった。
 昭和四十年代の後半から五十年代の初めにかけて松永てるほは十本余りのロマンポルノ作品に主役、準主役として出演したが、ヒット作には恵まれなかった。おそらく『朝日のようにさわやかに』の著者とは反対に、スクリーンでもなお、舞台の延長線上にある「派手な女」としての彼女を見たいファンも多くいたのではないか。あるいは貧乏くさい「やるせない女」ではなく、「派手な女」のイメージをだいじにしておきたいファンもいただろう。
 「派手な女」とは日劇ミュージックホールのスターの謂にほかならず、そうした彼女を活かすとしても、えらくむつかしそうな企画だなあといまにしても思わざるをえない。
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by yumenonokoriga | 2012-02-05 04:27 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)