「日劇花の五十年」

a0248606_83581.jpg 新幹線が東京駅へ近づくとその手前有楽町界隈に日本劇場が見えてきたのを思い出す。終点間近になって地方からの者はいよいよ東京だとの思いを強くし、東京の人はさあ戻ってきたとの気持を懐いた、そのきっかけとなったのがこの劇場だった。車輌からは日劇ミュージックホールの看板もちらっと見えていたものだった。
 いまのマリオンの地にあった日本劇場、通称日劇の大劇場は日劇ダンシングチーム(NDT)のフランチャイズだったからレビューの公演が、そしてジャズ・コンサートやウエスタン・カーニバルが催された。もちろん映画の封切館でもあった。劇場五階には小劇場があってそこでは絢爛たるヌードショーが繰り広げられていた。日劇ミュージックホールというその小劇場はかつて老若問わず多くの男たちが美女のヌードに酔いしれた場所で、いまなお忘れ難い人々も多くいるだろう。
 当時の国鉄有楽町駅側にある切符売場経由でエレベーターに乗るのだが、そのドアは通常のものの手前にアコーディオン状のドアがあり係員が開閉してくれていた。五階に着いて入場すると赤い絨毯が敷き詰められたゴージャスなフロアーがあり、やわらかな床を踏みながら入場すると別世界が待っていた。
 やがて高度経済成長のなかで大劇場が変化にさらされる。「陸の竜宮」であり「踊る不夜城」でもあった日本のショービジネスの一大拠点はテレビの普及やレビューの制作費の高騰、ショービジネスの多様化といったなかで不振がつづき、NDTが解散を余儀なくされる。そこへ再開発計画が持ち上がって一九八一年(昭和五十六年)この有楽町名物の建物は取り壊された。
 この年の「文藝春秋」一月号に劇評家の矢野誠一が「日劇花の五十年」という劇場を追悼する一文を寄せている。なかに「本家の苦戦をしり目に、五階にある日劇ミュージックホールばかりは、連日一杯の客をエレベーターが運んでいる」と書かれてある。
 ミュージックホールは東宝の興行のなかでドル箱的存在だったからここだけは日比谷の東京宝塚劇場に移転して公演は続けることとなったけれど目論見ははずれ、結果的にこの措置は三年間の延命装置を付けたにとどまった。
 新幹線に乗っていても日比谷では何にも見えない。
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by yumenonokoriga | 2012-03-30 06:37 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

「白日夢」

a0248606_1145218.jpg 昭和三十四年のお正月、渡辺千萬子が丸尾長顕からの年賀状を見たところ、そこに谷崎潤一郎の作品を日劇ミュージックホールの舞台で上演するといった文言があり、追って谷崎から一月二十九日付け書簡で「日劇ミュージックホールで四月から僕のものを上演します。これは多分次頃に出る僕の全集第十三巻にある『白日夢』と云ふ古い作品からヒントを得て作るものです。題も多分『白日夢』とするつもりです」という知らせがあった。
 「白日夢」が上演されたのはこの年の第二回目の公演で、初日は二月二十六日、千穐楽は五月五日だった。公演の名称も「白日夢」とされ小浜奈々子がトップを務めている。
舞台は谷崎の二編の戯曲「白日夢」と「白狐の湯」にもとづくもので、この年、三月三日付け渡辺千萬子あての書簡では、後半の部分「残酷物語は全く丸尾さんが書いたもので、私は関知してゐません、丸尾さんは私にデディケートしたのださうです」とその舞台裏が語られている。丸尾長顕のほうも『回想 小林一三』で「『白狐の湯』は私が翻案して、脚本を書いたが、『白日夢』の原稿は谷崎先生自身が書かれた」と述べている。
 当時の谷崎の健康状態からすると作品を提供したのに近かったと想像されるのだが、最終の脚本には谷崎も目を通していて、後半に残酷なところがあるので演出を柔らかくしておくようにと注文をつけていた。もっとも渡辺千萬子の眼には後半は谷崎の作品とは似てもつかないものと映っており「格もちがひますし、にほひもちがひます。丸尾さんには悪いけれど惜しいと思ひます」とその感想を述べている。
 舞台の出来は想像するほかないが、「大谷崎」がミュージックホールの構成・演出者に名をつらねたことが話題を呼び客の入りはよかった。それと、この公演にはヌードダンサーから女優に転じた御贔屓の春川ますみが特別出演している。当時谷崎は数え年の七十四歳。前年末には右手の麻痺に襲われて自身の手による執筆はむつかしくなっていた。それまでは『源氏物語』の訳を口述筆記としていたが、創作にも同様の措置をとらなければならなくなっており、この年の『夢の浮橋』が口述筆記によるはじめての創作となった。こうしたなかで自身の作品がミュージックホールの舞台で上演されるのは谷崎にはなぐさめになったにちがいない。
(写真はミュージックホール楽屋での谷崎と春川ますみ。丸尾長顕『回想 小林一三』より)      
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by yumenonokoriga | 2012-03-25 05:50 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

渡辺たをり『祖父 谷崎潤一郎』

a0248606_11185232.jpg『谷崎潤一郎=渡辺千萬子 往復書簡』は二00一年に中央公論新社から刊行された。ただしその前に一部書簡は公表されていた。一九八0年六興出版刊、渡辺たをり『祖父 谷崎潤一郎』がそれで、著者は渡辺清治、千萬子夫妻の長女である。父の清治は谷崎夫人松子の前夫根津清太郎とのあいだの子だから、たをりと谷崎との血縁はないけれど祖父と孫とのあいだがらに変わりはない。
 「僕は日劇のミュージックホールへ行きました、すつかり顔ぶれが変つて美人ぞろひになり出し物も大へん面白くなりました、今度君が来たら是非案内したいと思つてゐます」とある昭和三十三年七月二十一日付け谷崎の千萬子あての手紙もはじめこの『祖父 谷崎潤一郎』で紹介されていた。ここのところ、同書は次のように註釈をくわえている。
〈ミュージックホールは大好きで女優さんになる前の春川ますみなどのご贔屓もあったようである。お供には女中さんや知り合いの夫人まで、いろんな人を連れて行っているようだけれども、母に聞いた話では、ああいうところに一緒に行くのは「ちょっと訳ありの女」がいいんだ、と言っていたという。自分の妻や娘、恋人なんかはダメで、全くの他人というのもつまらない、と言うのである。「息子の嫁」というのはそういう意味で、合格だったらしく、母はよく谷崎と日劇に行ったのだそうだ。〉
 「ちょっと訳ありの女」と冗談めかして書かれてあるが、潤一郎夫人松子にとっては冗談どころではなく千萬子は夫婦関係の障碍と考えていた。松子自身谷崎の死後は随筆家として『倚松庵の夢』『湘竹居追想 潤一郎と「細雪」の世界』『蘆辺の夢』などで谷崎との美しい思い出を語っている。もちろん「ちょっと訳ありの女」の話などない。
 けれどそこは千萬子から見ると「谷崎の死後に松子が造り上げた美しい松子ワールドで、彼女を傷つけたり谷崎との関係を侵すような事や人が入り得なかった世界」であり、松子はこのワールドに「渡辺千萬子」と「渡辺たをり」という名前だけは絶対に入れたくはなかったと述べている。(『落花流水』)
 松子夫人が満八十七歳で亡くなったのは一九九一年だった。生前に孫娘が上梓した『祖父 谷崎潤一郎』を松子夫人がどんなふうに見ていたかはおのずと想像がつくだろう。
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by yumenonokoriga | 2012-03-20 09:39 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

谷崎が見たミュージックホール興隆期

a0248606_10435369.jpg 『谷崎一郎=渡辺千萬子 往復書簡』所収昭和三十三年七月二十一日付け谷崎の千萬子あての手紙に、昨日は、家族はボリショイサーカスを見に行き「僕は日劇のミュージックホールへ行きました、すつかり顔ぶれが変つて美人ぞろひになり出し物も大へん面白くなりました、今度君が来たら是非案内したいと思つてゐます」とある。
 ということは谷崎がミュージックホールに行ったのは七月二十日だから、このとき上演していたのは「夏の夜はいたずらもの」。この公演で小浜奈々子がはじめてトップにクレジットされた。スター誕生であり、その後のミュージックホール隆盛を思えば記念すべき公演だった。
 この年の一、二月公演のトップは伊吹まり代、三、四月が桜洋子、五、六月が月城ゆりで、伊吹、桜はこれでもって引退、月城も翌年以降出演者リストにその名を見ない。ミュージックホールはこの前の年あたりから世代交代期を迎えてヌード陣は弱体化していた。
 丸尾長顕は当時のことを『日劇ミュージックホールのすべて』で「伊吹まり代の引退興行である一、二月公演「『日本髪の恋愛選手』をきっかけに、傘下に集っていたスタアたちが続々とやめていった(中略)ほんとうに一人も残らなくなってしまったのである。興行成績は眼に見えて悪くなった」と語っている。
 このとき救世主のように現れたのが小川久美で、当時、短大卒のヌードダンサーとして大きな話題になった。「インテリ・ヌード」で話題を呼んだダンサーとしてはもうひとり丘るり子がいた。とりわけ小川久美の登場は新人ダンサーの呼び水となった。彼女に刺激されたかのように多喜万利、美保みどり、菊島八千代、有田ミノルがデビュー、さらにそれにつづく新進ヌードとして香月顕子、加茂こずえ、室生紫、小松光子たちが舞台に上がった。
 小浜奈々子がトップの座を占めたのはこのような時期だった。この「夏の夜はいたずらもの」の出演者リストには彼女のほかに、月城ゆり、丘るり子、瞳はるよ、朱雀さぎりの名がある。前年には沈滞気味だった舞台になんとかして客を呼ぼうとシスターボーイを出演させているが、しょせんは窮余の策にすぎない。
 谷崎の書簡の「すつかり顔ぶれが変つて美人ぞろひになり出し物も大へん面白くなりました」との一節は図らずもミュージックホールが上り坂状態に入ったことの証言となっている。
       
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by yumenonokoriga | 2012-03-15 10:41 | Comments(4)

「メケメケ」の頃

a0248606_10244678.jpg 『谷崎潤一郎=渡辺千萬子 往復書簡』に収める昭和三十二年(一九五七年)十二月十八日付け千萬子あての手紙の一節に「笹沼のトヨちゃん、キミちゃん、千代子さんの三人がシスターボーイが大勢出演している日劇M・Hを見せてくれろと云ふので、昨日案内しました。」とある。
 かねてより谷崎は「ミュージックホールは、女房同伴で観るものじゃない」と丸尾長顕にいっていて、じじつ松子夫人を同伴したことはなかったそうである。ただしこの書簡にあるように夫人以外の女性とはいっしょにステージをたのしんでいたのであり、姑の松子と嫁の千萬子の不仲にこうしたことがらも微妙に影響していたのかもしれない。
ところでこの手紙で、谷崎がシスターボーイの出演する舞台へ案内したというのは第四十回の「メケメケよろめけ」という公演で、シスターボーイは女っぽい男という意味であり、いまでは死語に近いからニューハーフといったほうがわかりやすいだろう。
 当時のシスターボーイの代表的存在は丸山明宏(現、美輪)で、彼女?はこの年一、二月の「春の天使はみんなウエット」に出演しているが、谷崎が出遊した「メケメケよろめけ」には出ていない。「メケメケ」はシャンソンで丸山明宏が訳詞して歌ったヒット曲で、当時「メケメケ」ということばじたいがシスターボーイとおなじ意味で用いられていたから公演名にも採用されたのである。ゲスト出演者として泉和助とマダム青江という名が見えており、このマダムが大勢のメケメケの代表格だったのだろう。
 この公演のヌードは月城ゆりがトップで、そのあと由比木の実、R.テンプル、桜洋子、丘るり子、小浜奈々子が名をつらねている。劇場側ははじめ伊吹マリ代をトップに考えていたが彼女が引退の意向を表明し、ついでメリー松原も休演を申し出た。すでに春川ますみと奈良あけみの二人は退団していた。
 ヌードダンサーの世代交代がはじまっていたが、新しいスターはまだ登場していない時期だった。ヌード陣の弱体化はミュージックホール開場以来の大ピンチとなった。こうしてゲストのシスターボーイが、それも銀座のバーにいる十四人がそろって舞台にあがった。この窮余の策はヒットとなってけっこう話題を賑わせた。
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by yumenonokoriga | 2012-03-10 08:38 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

『落花流水』のこと

a0248606_9413129.jpg 谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』の颯子についてはモデルと目された渡辺千萬子自身が『落花流水』のなかで語っている。
 二00七年に上梓された本書で著者は谷崎家の嫁として長いあいだ封印してきたことがらを赤裸々に綴った。たとえば谷崎潤一郎夫人の松子が「千萬子に谷崎の愛を奪われた」と憤慨していると谷崎家出入の中央公論社の社員が千萬子に伝えて来たとか、谷崎の態度に松子は夫と千萬子とのあいだに関係があると誤解していたとか、いずれも外からは窺えない事情で、谷崎の色好み、女性崇拝が嫁と姑のあいだをむつかしくしていたのだった。
 松子が疑ったいう谷崎との関係。それについて千萬子は四十四歳の年の開きは問題なかったが谷崎に男性を感じたことはなかったという。彼女からすれば「熱海の町とか、東京のミュージックホールとかへ、度々出掛けることがありました。谷崎はステッキをついてゆっくり歩いていましたが、危ないからと思って手を取ることさえしませんでした。ですから手を繋いだこともない」のだから邪推もいいところだった。
 谷崎の千萬子宛て昭和三十四年一月二十日の手紙には「僕は君のスラツクス姿が大好きです、あの姿を見ると何か文学的感興がわきます。そのうちきつとあれのインスピレーションで小説を書きます」とある。『瘋癲老人日記』の出版は三十七年だから、この小説の執筆にあたっては千萬子が谷崎に「文学的感興」「インスピレーション」をもたらしていたことがわかる。
 千萬子は子育て中だったからいつも動きやすいスラックスを穿いていた。颯子が着るエッフェル塔の柄のTシャツも千萬子が着けていたものだった。自身これは自分だなと思う情景も多々あるけれど、それでも千萬子は、自分が颯子のモデルであると思ったことはないと明言する。
 千萬子は目の前でひれ伏す谷崎に頭を踏んでくれといわれて踏んだ。このときの「頭」と「足の裏」が義父と嫁との唯一の肉体的接触だった。そして谷崎は釈迦の足跡を石に刻んで信仰の対象とした「仏足石」を真似て千萬子の足形をとり自身の「仏足石」とした。いずれも小説にもある描写である。ただし谷崎が「仏足石」を得たのは昭和三十八年だからすでに『瘋癲老人日記』は刊行されている。小説を事実が追っかけていたのだった。
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by yumenonokoriga | 2012-03-05 05:28 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

颯子のモデル

a0248606_13264519.jpg 谷崎潤一郎晩年の傑作『瘋癲老人日記』の颯子のモデルについて、中公文庫版『瘋癲老人日記』に収める千葉俊二「『瘋癲老人日記』の舞台裏」には「颯子という女性像は、千萬子さんをベースに、当時谷崎の周辺にあったお気に入りの複数の女性たちのイメージが合成されたものだった」とある。
 千萬子さんというのは渡辺千萬子、つまり谷崎潤一郎夫人松子さんと前夫とのあいだの実子渡辺清治氏の夫人である。
 小説の老人が颯子に寄せる思いと見まがうほどに谷崎は千萬子を気に入っていたから彼女が颯子のモデル、とする俗説がある。けれど、彼女の挙止や生活感覚が小説に採り入れられているとしてもモデルといったのでは正確を欠くだろう。
颯子はNDTでダンサーをしていたとの設定だが、千萬子が結婚したのは一九五一年(昭和二十六年)五月、二十一歳、同志社大学英文科の学生だった。上背があり、脚線の美しい女性からレビューの踊り子という連想が谷崎のなかではたらいた一面はあっただろう。そのいっぽうに「当時谷崎の周辺にあったお気に入りの複数の女性たち」のなかに踊り子や女優の姿があって、彼女たちと千萬子さんが「合成」されていったというのが本当のところと思われる。
 昭和二十六年から谷崎が死去する四十年にかけて、谷崎から千萬子あて二百五通、千萬子から谷崎あて八十八通の書簡が現存していて『谷崎潤一郎=渡辺千萬子 往復書簡』にはそれらのほとんどが収録されている。「『瘋癲老人日記』の舞台裏」もこれを承けて執筆されたもので、おそらくこの書簡集は谷崎文学の研究者やファンにとってはもとより、「作品」の質からしても日本文学史上の「事件」であるといえるのではないか。それと、日劇ミュージックホールが『瘋癲老人日記』の形成にあたって、作者に陰に陽にはたらきかけているのが具体的に確認できるという点でも貴重である。
 「お気に入りの複数の女性たち」については谷崎潤一郎の助手として『源氏物語』の改訳を手伝い、病により執筆に支障が出た谷崎のために作品あるいは書簡の代筆を行った伊吹和子は『われよりほかに』で「当時の日劇でその名を謳われ、先生も大のお気に入りであった春川ますみさん(写真)や、新進の女優であった炎加世子(中略)といった人々が意識されていたと思われる」と記している。
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by yumenonokoriga | 2012-03-01 06:47 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)