秦豊吉のショービジネス展望

a0248606_10301463.jpg 日本のストリップ・ショーは一九四七年(昭和二十二年)の正月、東京・新宿の帝都座小劇場での額縁ショーにはじまる。幕が上がると額縁のなかに花籠を抱いた女性が静止したポーズで納まっていて、薄い布で覆われてはいるものの上半身は露わで豊満な乳房が観客の度肝を抜いた。「ヴイナスの誕生」と名付けられたこの景は全二十七景のなかのひとつに過ぎなかったがその衝撃は大きく定員四百二十名の劇場に毎回二千人の客が詰めかけたという。
 このショーのプロデューサーは秦豊吉、当時五十五歳、東宝の役員として欧米のショービジネスの視察経験があり造詣も深かった。日劇ダンシングチーム(NDT)の創設者として、また丸木砂土のペンネームによる好色随筆やレマルク『西部戦線異状なし』の訳者としても知られる。終戦時には東宝の演劇担当副社長の職にあったが戦時中指導的立場にあったとされて、GHQにより公職追放となっていたから額縁ショーにかかわったときは浪人中の身の上だった。帝都座の演芸場を開設したのは東宝であるが、この企画は東宝の秦ではなくあくまで個人のプロデュースとされた。
 額縁ショーについて秦自身はこんなふうに語っている。
〈ヴイナス実は甲斐美和さんこそ、日本の舞台で、美しい乳房を見物の前に露わした、最初の女性である。甲斐さんは、色の白い人ではないが、美しい体格で、そこに縹渺たる苦心の照明を作用させたから、立派な立体画が出来上つた。見る人も私も勿論この効果に感嘆した。〉
 上の一文は昭和二十八年一月に鱒書房より刊行された秦豊吉『藝人』の一篇「ストリップ・ショウ三年」の一節だが、エッセイの眼目は額縁ショーから三年経った時点でのストリップの現状に対する苦言である。
〈この三年のハダカ・ショウを拝見すると、やはりどうにも贅沢な美しさが見られないのは遺憾千万であって、こういうショウは思い切って贅沢なものになるか、或は港町の酒と煙草のけむりの中の見世物になるかである。これを美しく磨き上げる人がいないから、東京のこの種類のものが、波止場に近いものになつてしまつた。〉
このときはまだ日劇ミュージックホールは開場していないけれどそろそろ「贅沢な美しさ」が求められている雰囲気があったことが窺われる。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-04-30 09:27 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

岬マコ

a0248606_12291442.jpg 岬マコ、日劇ミュージックホール、その掉尾を飾ったスターである。
 一九八二年(昭和五十七年)の四月から十二月にかけて「週刊朝日」誌上で「今を盛りのいい女列伝」という連載があった。執筆は同誌の山下勝利記者。手許にある旺文社文庫版には「30代色香研究」との副題が付いている。松尾嘉代から松坂慶子まで三十七人の「いい女」のうち日劇関係では新倉まりこ(NDT)と岬マコが登場している。(写真は同書より)
 岬マコ、本名弦間るみ子、昭和二十五年三月甲府に生まれた。憧れは宝塚の男役だった。何の訓練も受けていなかったが、なにしろ踊りたかった。知人に紹介されてミュージックホールの舞台を見てダンサーの仲間入りをした。初舞台は昭和四十二年の暮れ。公演リストによればしばらくは「岬まこ」でクレジットされている。当時の体重が六十三キロ、「いい女列伝」の頃より十キロ以上重かった。目が大きく色が黒かったからタヌキとあだ名されていた。
 このタヌキがやがてミュージックホールのトップスターとなったのが昭和五十七年三、四月公演「エロティカルグラフィティ」だったから初舞台から十五年目のことだった。劇場は日比谷に移っていた。 なお同公演には大山節子、ジャンボ久世、明日香ミチ、南ゆき、梓かおり、炎美加、鵬夏子といったダンサーの名が見えている。
 岬マコはできればたった一人のひとに見られていたいと語る。けれどそれは舞台に立つかぎり叶えられる願いではない。岬マコの体は複数の男たちのために存在しなければならないという山下記者に彼女は語る。
〈「そう、それは踊り子を恋人に持った男性の宿命ですよ。くずれちゃったら商品価値がなくなってしまいますものね。でも、体を商品にしても、私だって女ですもの、十回に一回は胸に触れてほしいということもありますよ」〉
 これらの言葉から窺うかぎり踊り子の世界には酷な制約があるものだ。あるいは、こういう制約があればこそあの華麗な舞台は存在したともいえよう。
〈「踊り子ってやっぱり突っぱってるところがあるんですよね。胸を出すってことだけでも、どこかで突っぱらないともたないんです。それだけに最後んところをわかってくれる人がほしい。寂しいんですよ」〉
 女の制約はおのずと男のそれでもある。彼女をわかったうえで、胸にも自由に触れられない行動の制約が。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-04-25 09:05 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(7)

泉和助

a0248606_10334941.jpg 日劇ミュージックホールに関係する代表的コメディアンとなるとトニー谷それとも泉和助ひょっとして空飛小助といったところか。
 泉和助については色川武大が『なつかしい芸人たち』に、ショー芸人でネタ作りに才能があり、楽屋内では多くの芸人から敬愛されていたと書いている。「楽屋内では」というのがくせもので玄人うけはするが、大衆受けはしなかった。
 丸尾長顕は、泉和助はむかし八丁荒しという異名があったほどで、その一座がかかると近くの芝居はみんな食われてしまったと書いているけれど、一座が盛んな時期は長くはなかった。名古屋で進駐軍の慰問をしたのちミュージックホール開演時に迎えられたというが公演リストで確かめた限りでは一九五二年(昭和二十七年)七月三十日初日の「サマースキャンダル」が初登場で、このときの芸名は新谷登(しんやのぼる)。泉和助での出演は一九五六年の第二回公演「ふぉりいず やぽね あらべすく」からとなっている。
 一九一九年生まれの和助がエノケン一座に入ったのが一九三四年。これが芸人としての出発で、芝居、タップ、歌などの修行を積んだ。藤山一郎に師事したとウィキペディアにあったが色川武大は二村定一のお弟子さんだったと書いている。楽屋内では尊敬され慕われもして玉川良一、関敬六、ミッキー安川、E・H・エリック、岡田眞澄、トリオ・ザ・パンチらに芸を仕込んだ。
 立川談志『現代落語論』に小ゑんの頃に泉和助を訪ねたときのことが書かれている。
〈下っていたセリ舞台へ落ち、足の骨を折り、ドスンと落ちて「地階食料品売り場でございます」といって気を失ったという彼、ざっくばらんにいうと和っちゃん先生は(皆この呼び名をする。ちゃんがついてその後に先生ってのがついているのはこの人だけ)、古川橋のちかくの汚い病院の一室で、窓から使い古したフラッシュランプを川へほうり込では、空気銃で射っていた〉。
 そこへ「わたし柳家小ゑんという落語家です。一度お逢いしたかったもんで・・・・・・」。さいわい話がはずんでいまだにいろいろとギャグを教わっているとあるが『現代落語論』が刊行されたのは一九六五年、この五年後 一九七0年一月二十八日(推定)に泉和助は不帰の客となる。推定は心臓病、喘息、糖尿病で入退院を繰り返し二月一日にアパートで死去しているのが発見されたという事情による。若い芸人間でネタ帖の争奪戦があったというが判読はできなかったそうだ。
(写真は左、泉和助、右、空飛小助、丸尾長顕編『日劇ミュージックホールのすべて』より)
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-04-20 10:05 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ミュージックホールと落語の奇妙な御縁

a0248606_1295871.jpg 日劇ミュージックホールの前身である日劇小劇場が開場したのが一九四六年(昭和二十一年)で、薔薇座、東京レビュー、新風ショー、宝石座、空気座、ムーラン・ルージュなどレビューチームの公演を主としながら、ときに文学座や俳優座など新劇のグループも出演した。
 このうち空気座の結成に参加したひとりに作家の吉村平吉がいて『吉原酔狂ぐらし』によると代表者に祭り上げられて金の工面で苦労し、父親をだましてその財産をだいぶんつぎ込んだという。また東京レビューにはのちに小津安二郎監督の映画でおなじみの桜むつ子と須賀富士男のふたりが参加しているのが眼を引く。桜むつ子は永井荷風のお気に入りの女優で、日劇とはほとんど御縁のなかった荷風先生もときに彼女を楽屋に訪ねている。
 じつは小劇場はレビュー、演劇だけではなく、寄席の席でもあった。敗戦の年の十二月東京宝塚劇場が米軍に接収されたため、この年の十月からここの小劇場で開かれていた東宝名人会が打ち切られ、日小に引っ越しを余儀なくされる。
 もともと東宝劇場での名人会は劇場開場の昭和九年に小林一三の肝煎りで開かれたものだった。けれど昭和十九年四月に劇場は軍部に接収されて寄席どころではなくなった。このときまでよく寄席が持ちこたえたというべきだろう。
 東宝名人会は敗戦後まもなく復活したのもつかのま、こんどは東宝劇場は米軍に接収され、米軍専用のアーニーパイル劇場とされてしまう。そこで名人会は日小に引っ越して、昼の部は演劇、夜の部は寄席という変則興行がおこなわれるようになった。そこへ遅れてやってきたのがストリップ。集客力の差はあきらかで、遅参のショーが日小の主流となり、新劇も寄席も立ち退かざるをえなかった。
 昭和三十四年東京宝塚劇場の接収が解除され、その結果東宝名人会がこの年同劇場にある小劇場で復活した。けれど寄席とミュージックホールの奇妙な因縁は消えなかった。
 昭和五十六年有楽町再開発による日本劇場取り壊しを機にミュージックホールは東宝名人会のおこなわれていた東京宝塚劇場の小劇場に移ったのだ。名人会再度の城明け渡しである。皮肉な運命であったが、その名人会もミュージックホールもいまはない。
(写真は日劇ミュージックホールの看板をかけた東京宝塚劇場界隈)
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-04-15 10:11 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

映画のなかのミュージックホール

a0248606_12255713.jpg 日劇ミュージックホールのこけら落とし公演は越路吹雪がゲスト出演した「東京のイブ」。一九五二年(昭和二十七年)三月十五日が初日で、ハダカのない娯楽の殿堂として出発したのだったが無惨な不入りで、翌月二十五日ヌードを入れた「ラブ・ハーバー」での再出発となった。
 その越路吹雪が横山泰三の漫画をもとに市川崑監督が映画化した「プーサン」では満員のミュージックホールの客席にいる。コーちゃん扮するミス・ガンコが伊藤雄之助のプーサンをミュージックホールへと誘う。男まさりのミス・ガンコだったが、いざショーがはじまると恥ずかしくなって眼をそらせてしまうところがかわいい。反対に弱気だったプーサンは身を乗り出して見つめている。舞台中央で踊っているのはメリー松原。(写真)
 スクリーンには日劇の看板が一瞬映って「桃源の美女たち」とある。記録によるとこの公演は一九五三年二月一日から四月十五日まで行われており、メリー松原のほかに伊吹まり、R.テンプル、奈良あけみ、邦ルイズ、阿里しのぶの名前が見えている。ちなみに映画の公開は一九五三年四月十五日だった。
 ヌードショーの満員の客席のなか、越路吹雪の胸に一年ほどまえの不入りの舞台が思い出されたかもしれない。
 再出発公演「ラブ・ハーバー」、構成は丸尾長顕、演出は岡田恵吉が担当した。
ヌードを入れてもまだプログラム上での主役はNDTの選抜チームで、このメンバーのなかにのちに女優となった根岸明美がいて、彼女は翌年「魔子恐るべし」という映画に出演している。山で出会った画家を訪ねて信州から上京した魔子が男たちに狙われ食いものにされそうになり、その都度切り抜けるといった話で、作品としては珍品に属するといってよい。ここでは根岸明美が新宿フランス座でセミヌードになって踊るシーンがある。舞台は当時あった同劇場だろう。ミュージックホールからの出張組も出演していて、伊吹まりがスター格、男性ダンサーが新谷登(のちの泉和助)、伊吹のうしろにいる何人かの踊り子のなかに春川ますみがいる。
 「プーサン」や「魔子恐るべし」にちらりと映る初期のミュージックホールの踊り子たち。いずれもいまでは貴重な映像だろう。東宝系のミュージックホールだから昔の東宝映画、新東宝映画のなかには思わぬ出会いが待っている。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-04-10 09:09 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

消えた名所

a0248606_10582546.jpg 日劇取り壊しを機に書かれた矢野誠一「日劇花の五十年」(「文藝春秋」一九八一年一月号)に五階の小劇場のあゆみが記されている。劇場の概観に便利なので引いておこう。
〈もともと、日劇附属の小劇場として併設されたこの小屋、敗戦直後は芝居を上演して、『東京哀史』『鐘の鳴る丘』といった菊田一夫作品や、俳優座の『壊れ甕』、空気座の『肉体の門』など話題作をうんだ。日劇ミュージックホールと改称されたのは、一九五二年で、第一回公演の『東京のイヴ』には、先日逝った越路吹雪も出ている。もっとも、これは記録的な記録的な不入りであったという。サラリーマンや学生の支持をうけ、いまやパリの「クレージーホース」とならぶ世界の名所との評価も高いが、メリー松原、ジプシー・ローズ、奈良あけみ、小浜奈々子、アンジェラ浅丘と、あの小さな舞台に花咲かせたひとたちをしのんでいるときりがない。〉
 おなじく著者は日比谷に移ってからの公演パンフレットに寄せた「舞台にも時の流れ」という一文で、やがてくる高齢化社会のショービジネスを視野に入れて「もし二十年先の老人たちが、相当の経済力を有しているとすると、空前の老人黄金時代ということになるわけだ。そんなとき、あの日劇ミュージックホールの旧式エレベーターをなつかしがるような大勢の老人客たちを十分に満足させられるショーをつくれる若い才能が、まったくなくなってしまっては困るのだ」と書いている。その後の事態は矢野の心配を杞憂としなかった。日比谷のミュージックホールは日劇時代の隆盛には及ばず二十年後どころか開場してわずか三年の一九八四年三月に閉場してしまう。
 一九九八年に出た川本三郎『続々々映画の昭和雑貨店』には「消えた名所」のひとつとしてミュージックホールが紹介されている。ついでながら時代とともに消えていった庶民の娯楽の場所はといえば・・・・・・。
 ローマ風呂と称された大浴場が名物だった船橋ヘルスセンター。「トルコ風呂・温泉のデート」として三原橋脇にあった東京温泉。日劇の隣にあった朝日新聞社。昭和三十年代までは有楽町界隈は朝日、毎日、読売が集まる新聞街でもあった。昭和九年に来日したベーブ・ルース、ゲーリックらの一行が全日本と試合した横浜平和球場。ドーム球場となるまえの後楽園球場、ナゴヤ球場。昭和二十七年渋谷の東横屋上にできたゴンドラ式ケーブルカー「ひばり号」。 
(写真は日劇会館最後の日の舞台。昭和56年1月26日。石崎勝久『裸の女神たち』より)
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-04-05 08:52 | Comments(0)