訂正の弁

a0248606_11195038.jpg 前回の「朱雀さぎりのデビュー」で「朱雀さぎりは小浜奈々子の姪にあたる。彼女が十六歳のときおばの小浜が引き取って面倒をみることになったのだという」と書いたところ、秋山薫様から「朱雀さぎりと小浜奈々子は母親どおしが姉妹のいとこです」とのコメントをいただきました。
 小浜奈々子と朱雀さぎりの関係をおばと姪としたのは劇作家で、ミュージックホールと関わりの深い演劇評論家だった石崎勝久(故人)の『裸の女神たち』を典拠としています。同書は一九八二年九月に吐夢書房から刊行されています。
 指摘を受けてさっそく他の資料にあたってみたところ『裸の女神たち』に先立つ同年五月に東宝株式会社出版事業室が出した『theNichigeki Music Hall』に以下の記述がありました。
〈そもそも彼女(朱雀さぎり)は”小浜ヌード一家”を形成していた一人。日劇ミュージックホール史に輝く、原みどり・小浜奈々子・西崎ぼたんの三姉妹ヌードとは従姉妹の関係。〉
 朱雀さぎりは東京赤羽の比較的裕福な家庭に生まれたが、小学生のとき父が交通事故、母ががんにより死去し、四人きょうだいは別れ別れになり、末娘の彼女は雑貨商をしている青森の親戚に引き取られた。高校生のとき、三沢に住んでバンドマンをしていた兄が上京することになったのを機に彼女もいっしょに上京してこんどは小浜奈々子に引き取られた、といった生い立ちについては『裸の女神たち』と『theNichigeki Music Hall』に変わりはありません。ただ前者には小浜奈々子は「叔母」といってもそれほどの年齢の開きはなく、朱雀は「おねえさん」と呼んでいたといった箇所があります。
 小浜奈々子と朱雀さぎりの二人はおばと姪の関係なのでしょうか、それとも従姉妹どうしなのか、戸籍調査はできかねる現状では決定的な証拠はありません。そこでとりあえずは『theNichigeki Music Hall』の版元が東宝株式会社出版事業室であることを重くみて判断することとしました。すなわち『裸の女神たち』が著者の「私史」であるのに対して『theNichigeki Music Hall』は東宝の「正史」の一環と考えられるためです。
 小浜奈々子、朱雀さぎりをおば、姪とした初稿を従姉妹どうしに訂正したいきさつです。秋山様にあらためて御礼申し上げます。
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by yumenonokoriga | 2012-05-30 08:44 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(1)

朱雀さぎりのデビュー

a0248606_98512.jpg ジプシー・ローズは「笑わないスター」だったと伝えられている。あんたみたいな男にこのジプシーが抱けるものか、もしも近づいたりしてごらんグラインドで吹き飛ばしてしまうよ、彼女の舞台にはそんな雰囲気がたちこめていたという。
 その舞台に接していない者の想像にすぎないけれど、ジプシー・ローズ以後の日劇ミュージックホールのダンサーのうち、朱雀さぎりこそジプシー的ムードを濃厚に湛えた踊り子だったような気がする。
〈四十年近く女の裸の世界とつきあってきたが、朱雀は五指に入る踊り子。腰を大きくグラインドさせるストリップ独特の踊りは、吹き飛ばされるようなすごみがあった。あのジプシー・ローズに次ぐ迫力だった。〉
 ミュージックホールの演出家でのちに浅草ロック座の演出に転じた平田稲雄の回想だ。
 朱雀さぎりは笑わないスターではなかったが、基調は笑顔よりも緊張感のあるひたむきな表情だった。彼女のひたむきさにこちらもしっかり見つめていないとはじき返されそうな気がした。視線に力を込めて見つめる、片時も力を抜かずに見つめつづけても微笑んでくれるかどうかわからない凛としたたたずまいがあって、しかしそんな彼女がときに洩らす笑みがこれまた男をとりこにした。
 朱雀さぎりは小浜奈々子と従兄弟どうしだった。彼女が十六歳のとき新進のヌードダンサーとして売出しかかっていた小浜が引き取って面倒をみることになったのだという。ある日二人で銭湯に行ったとき小浜が「あなた、とっても綺麗なからだをしてるじゃないの。私のようにヌードダンサーになりなさいよ」。親のない娘は心ならずも「やってみようかしら」と返事をした。そこで小浜は浅草のフランス座に紹介したが、朱雀のほうは決心していたにもかかわらずどうしてもヌードになる勇気はなく一日でやめて帰ってきた。
 それから二年間は小浜の家に住み込んでカバン持ちのような生活をしていたが、やがて小浜の妹が西崎ぼたんとしてヌードになる決意をしたと聞いて彼女もこんどこそと気持を決めた。こうしてミュージックホールの舞台に立ったのが昭和三十三年七月、そのときの公演「夏の夜はいたずらもの」のトップスターは小浜奈々子だった。もう大丈夫と思っていたのに小浜の家に帰ってふとんに入るたびに声を殺して泣いたという。
(写真は石崎勝久『裸の女神たち』より)
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by yumenonokoriga | 2012-05-25 09:54 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

軽演劇とストリップ

a0248606_947128.jpg 東京・新宿の帝都座小劇場での額縁ショーが大ヒットしたのは一九四七年(昭和二十二年)のことだった。おなじ年、この劇場で空気座が田村泰次郎のベストセラー「肉体の門」を演じて大いに当て、日劇小劇場に進出してここでもヒットを放ったがけっきょくははだかに勝てず、ストリップの進出とともに空気座は立ちゆかなくなった。
 空気座の文芸部の一人にのちに東宝にあって数々の芝居、ミュージカルの製作、演出を手がけた林圭一がいた。昭和四年生まれ。戦後、菊田一夫に師事し、古川ロッパ一座の舞台監督を経て空気座文芸部へ入り、その解散のあと昭和二十八年に東宝・日劇制作室へ転じた。林の回想記『舞台裏の喜劇人たち』に、あんなに活気があって盛り上がっていた空気座だったのに、いったいお客はどこへ行っちゃったんだろうと考え込んでしまうくだりがある。
 昭和二十五年、世間は朝鮮戦争の特需で景気がいいのに軽演劇はさっぱりだ。ある日、林は浅草のロック座に行ってみた。舞台にはスポットに浮きでた一人のストリッパーがいた。メリー松原だった。ムーディな音楽が流れ、踊りながら一枚一枚衣装を脱いでゆく。ブラジャーに手がかかる。客席は水を打ったように静かだ。固唾を飲むなか後ろ向きでブラをはずした彼女が正面を切る。ブラはまだ落とさない。音楽のビートの高まりとともに豊かな胸があらわになった。そのあとクライマックスがもう一度来た。スカートを脱ぐ。その下はバタフライ。なんとも頼りない小さな布だけど見えそうで見えない。それから林の休日はメリー松原の「追っかけの日」となった。「軽演劇にお客が集まらないはずだ。私だってこっちのほうがいい」と書いている。
 浅草のにぎわいが偲ばれる記述だが、いっぽう有楽町の日劇小劇場でも昭和二十三年八月メリー松原、ヘレン滝、ミス池上ら人気ストリッパーが総出演した「女の楽園」が記録的な興行成績をあげていた。
 林圭一が追っかけたメリー松原をはじめ伊吹マリ、ヒロセ元美、グレース松原、フリーダ松木、福田はるみ、奈美路笑、マヤ鮎川、園はるみなどこんにちにまで名の伝わるストリッパーがいて浅草と有楽町の舞台を彩った。
 こうしてはだかは殷賑を極め、軽演劇は衰退にむかう。
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by yumenonokoriga | 2012-05-20 06:25 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「清く正しく色っぽく」

a0248606_11451572.jpg 埼玉県の越谷市立図書館に野口冨士男文庫が開設されている。一九九三年(平成五年)十一月二十二日八十二歳で他界した作家の遺族が、ゆかりの地の図書館に原稿、書簡、蔵書等を寄贈して設けられた。同文庫は所蔵する資料目録を刊行しており、なかに蔵書目録も収められている。その図録・観劇プログラムを見てゆくと国際劇場が取り壊されたあとの歌舞伎座でのSKD(松竹歌劇団)の公演パンフレットをはじめ何冊かのSKDの冊子とともに日劇ミュージックホールのパンフレット「ザ・ミュージックホール」(昭和五十九年三月一日)も架蔵されていてレビューが好きだった作家の面影を伝えている。
 昭和五年のターキーこと水の江滝子が登場したすぐあとあたりからレビューを見始めたという野口冨士男は宝塚とSKDを対比して後者のファンとなったいきさつを次のように述べている。
〈宝塚は歌劇中心で、両手を前にさし出しながら「ああ、王子様ァ」などとやられると、私は鳥肌が立った。そのかわり、歌劇中心だっただけに、歌となると松竹は宝塚の足許にも及ばなかった。越路吹雪が生まれる素因が宝塚にはあったわけだが、歯切れのいい踊りの軽快さでは松竹のほうが上だった。レビューでは踊りが生命だから、私はSKDのファンになった。〉
 野口より九歳下で一九二0年(大正九年)生まれの安岡章太郎は旧制中学のころを回想して、休みには学校の近くの靖国神社でおこなわれているサーカスに行っていた自分と対比して気のきいた連中は日比谷か新宿へレビューか映画を見に行ったと書いている。
 いまのタカラヅカのファンの大多数は女性と見受けるが、しかし華麗で絢爛、あでやかな女の世界をつくるレビューの舞台は男性を魅了しないはずがないし、じじつ野口冨士男や安岡章太郎の回想にあるようにかつては男性のレビューファンが多くいた。
 日劇小劇場の閉鎖を承けてミュージックホールという新しい舞台にどのようなショーがふさわしいか、丸尾長顕をはじめとする運営委員たちが検討をはじめた際に丸尾が参考にしたのも小林一三が創設した宝塚のイメージであり、宝塚の延長線にミュージックホールの像を描こうとした。宝塚歌劇を卒業した男性が鑑賞するショー。ここで宝塚の「清く正しく美しく」は「清く正しく色っぽく」に転換する。
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by yumenonokoriga | 2012-05-15 10:16 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(6)

ジプシー・ローズと東劇バーレスクの閉鎖

a0248606_10581371.jpg 永六輔『芸人その世界』に「ジプシー・ローズの東劇バーレスクが突如として中止になったのは、東劇のチャリティー・ショーに出席する皇太子殿下が、運転手のミスで、東劇バーレスクの玄関に車を寄せ、恐れ多くもジプシー・ローズのエロティックなポーズの看板がそこにあった為だという」との逸話がある。
ジプシー・ローズは一九五三年(昭和二十八年)に開場した東劇バーレスク・ルームの専属スターだった。もともとここは東宝のミュージックホールに刺激されて松竹がつくった劇場であり、構成、演出、台本から照明にいたるまでジプシー・ローズを中心に企画運営されていた。ところが客席も大入り満員がつづいていたにもかかわらず翌年一月いっぱいで突如閉鎖されてしまう。そこにやんごとない方面の話が絡んでいたという真偽のほどは筆者の知るところではない。
 もっともジプシー・ローズで隆盛を誇っていたと見えても東劇バーレスクの経営は脆弱だったらしく、客席数二百、入場料二百円は、四百十二席、三百円のミュージックホールの比ではなかった。(小柳詳助『G線上のマリア 』)
 日劇ミュージックホール開場にあたり丸尾長顕は伊吹まり、ヒロセ元美、メリー松原という当時の斯界の大スターの引き抜きを手がけて大成功をおさめ、勢いづいていろんなストリップ劇場へ手を伸ばして相手方の雇った暴漢に襲われたこともあったとか。そんななかジプシー・ローズにだけは引き抜きを企てなかったのは一人くらい敵方にスターを残しておかなければこちらの競争心が鈍ってしまうと思ったからだという。ミュージックホールのスター連にジプシー・ローズ一人で対抗できるほどその魅力は強烈だったともいえるだろう。
 けれど東劇バーレスクが閉鎖となってはジプシー・ローズはマネージャー兼内縁の夫正邦乙彦とともに自分たちのほうから東宝に足を運ぶほかなかった。契約が成立してはじめ大阪のOSミュージックホールに出演し、次いで昭和三十年の年頭公演「東京恋愛通り」で日劇ミュージックホールの舞台に立った。
 しかしながら東劇とはシステムがちがいここは演出、振付の指示が強い。野性味ある自由奔放な個性はミュージックホールの設計図に合いにくく、最大の武器である腰をぐるぐる回すグラインドという技術も発揮できなかった。取締り当局も扇情的という理由で禁止措置をとっていた。こうして彼女は次第に酒に溺れるようになり、わずか三年でこの劇場を去った。
(写真は『昭和写真・全仕事 稲村 隆正』より、東劇バーレスク劇場で1954年)
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by yumenonokoriga | 2012-05-10 08:52 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

立川談志のミュージックホール体験

a0248606_950197.jpg 一九六五年(昭和四十年)刊行の『現代落語論』に著者立川談志は、日劇ミュージックホールのコメディアン泉和助を訪ねた折り、さいわいに話がはずんで、いまだにいろいろとギャグを教わっていると書いている。
 この本が上梓された年に談志は泉和助とともにミュージックホールの舞台に立っている。五月十三日から七月四日にかけての「女は風船そよ風まかせ」で、ほかに月の家圓鏡(現、橘家圓蔵)もゲスト出演している。ヌードはアジジェラ浅丘がトップ、K.みなみ、加茂こずえ、潮チヒロ、高見緋紗子、五月美沙がつづいている。
 噺家の出演は翌年の「乾杯イブとあなたに」に桂歌丸、三遊亭金遊、三笑亭笑三の名前があるが、立川談志の登場は『Nichigeki Music Hall』の公演リストに見る限り一回だけだった。そのときのことについてのちの家元は「共演の泉和助さんのアドバイスもあり、たのしい公演だった」と述べている。
 具体に挙げているのは客席とのやりとりで「寄席ではやれないお客さんとの会話の交流が直接できる。客席に語りかけ、相手の弥次を受けとめることのできる演出だったので、いろいろとお客を相手にし、わたしも相手になったりした」という。ミュージックホールの舞台は噺家に寄席とは異なる貴重な体験をもたらしたようだ。
 客席の反応ではもうひとつこんなことも述べている。
〈ミュージック・ホールに出ておもしろいと気づいたのは、外人客をけなすと日本人の客が喜ぶということだ。とくにアメリカ人にむかって”こんなところへきてるより、ベトナムのことでも考えろ”とか、”日曜日には教会でお祈りでもしてろとか、”わからねえだろうな、いちいち訳してやるヒマがないからね、日本の客のほうが大事だ”てなことをいうと、ワッとくる〉。
 おなじ内容をいっても皮肉な調子ではなく熱く浴びせかける口ぶりのほうが受けがよかったという。客席観察の眼は鋭い。外人客の多い劇場だったからなかには日本語のわかる人もいたはずだが問題にはなってない。もっとも外人を罵倒すると喜ぶというのはコンプレックスの裏返しのようであり、しゃべってみたもののあまりよい気持はしなかったそうだ。
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by yumenonokoriga | 2012-05-05 09:11 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)