朱雀さぎりの刑務所慰問

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 三代目三遊亭円之助『はなしか稼業』に刑務所へ慰問に行ったときの話がある。場所が場所だけに演題にはあれこれ気を配り、隅田川の花火見物を題材とする「たがや」とした。
 噺は快調に進んだがラスト近く、武士と桶のたがをつくる職人たがやとのいさかいを群衆が幾重にも取り巻いた場面でつまずいた。事情がわからない人が何があったのか訊ねると、知ったかぶりが、巾着切りが捕まりましたと答えたところで噺家は「しまった!」と思った。聞き手には掏摸、泥棒の受刑者が多く、会場は一瞬にして静まり返り、それまでの陽気な雰囲気は一転して凍りついてしまった。落語はそれからさきメロメロになったという。そうかと思えば九代目鈴々舎馬風は刑務所の慰問で開口一番「悪漢諸君」とやったが、誰一人腹を立てる者なく爆笑の渦だったというから演者の個性もあるのだろう。
 円之助師匠は演題を決めるとき塀のなかであまり色っぽいものはまずいだろうと考えたと書いているが、ここへ朱雀さぎりが慰問に行ったことを思えば気の遣い過ぎだったかもしれない。
 ヌードダンサーの刑務所慰問なんていまも行われているのだろうか。こんどホリエモンの塀の中からの通信でも読んでみなくっちゃ。ま、それはともかく朱雀さぎりが慰問の依頼を受けて演じたステージでの出来事。
 担当の所員が「衣装をつけてやって下さい」というので彼女は「はい、わかりましたわ」と応じたのはよかったが、ここで同床異夢というかボタンの掛け違いがあった。所員は胸は覆うようにとのつもりだったが、さぎりのほうはいつもの通りにブラジャーをはずして受刑者を感激させた。
 「ちゃんと、衣装をつけてやってくれって、さっきもお願いしたじゃないですか」となじる所員にさぎりはきょとんとして「衣装?つけてたじゃないですか。あれは、私の自前のなかでもいちばんいい衣装なのよ」と答えた。これには役人連中がギャフンとなった。
 それならそうと最初からセミヌードでやってくれとか、ヌードにならないでくれとか言うべきだわというのが彼女の言い分で、日劇ミュージックホールのステージの衣装はツンパ(パンツ)であり、彼女としては言われた通り「正規の衣装」で踊ったのだった。


*朱雀さぎりと小浜奈々子さんの血縁関係について、コメントを寄せて下さいました秋山様から、氏のお知り合いの方に、小浜さんが、いとこどうしと言明されたとの話が筆者に伝えられました。また同氏から提供を受けた朱雀さぎり「この頃 思うこと」という一文に「19年前、いとこの小浜奈々子さんにすすめられて、私はヌードダンサーになった」との一節があります。これで以てお二人の血縁関係の問題は解決をみました。ありがとうございました。なお、上の写真は「この頃 思うこと」から採りました。
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by yumenonokoriga | 2012-06-30 08:20 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

朱雀さぎりと小浜奈々子

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 朱雀さぎりと小浜奈々子との血縁関係について、石崎勝久『裸の女神たち』にはおばと姪とあり、他方『theNichigeki Music Hall』には従姉妹どうしとあります。とりあえず東宝による「正史」として後者の記述により本欄では従姉妹としました。
 この問題について先日、コメントを寄せていただいた秋山様に連絡をとりましたところ、同氏も御自身の知見をもとに二人は従姉妹との見解でした。
 ところで「小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する」「昭和ロマン館」館長根本圭介氏にこのことに触れた記事があります。「忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(22) 日劇MHのトップスター小浜奈々子さん」がそれで「WEB松戸よみうり」にあります。
 執筆の日付を欠くのが残念ですが、ここには小浜奈々子(本名森井=渡辺歌子)さんのデビューや引退後の結婚のいきさつをはじめ平成十七年八月に御主人渡辺裕之さんを亡くされたこと、また、余暇にフラダンス教室を開いて忙しく過ごしているといった近況が紹介されています。
 朱雀さぎりとの関係については以下のとおりです。
〈裕福な家に生まれながら、父の死で生活が一転した小浜さんはまじめで身持ちも固く、徐々にスター街道をのぼって行った。その小浜さんの楽屋に中学に通っていた妹さんが、弁当を届けに来たり、まめまめしくお茶を入れたりしていた。これが後に西崎ぼたんという芸名で同じ舞台に立つようになる。更に小浜さんの姪の女の子も舞台に出たいと言いだし、この姪は両親を早く亡くして小浜さんの家にひきとられて苦労した少女時代を過ごしてきた。この少女が後の朱雀さぎりとなり、看板スターとなる〉。
 見られるようにここで根本氏はおばと姪の関係として記述しています。
 気の向くままにあれやこれや、主としてふるほんの活字を通して日劇ミュージックホールの残り香を訪ねあるいている本欄としても、どちらかに断言できればと思うのですが、いまのところ決定的資料を持ちあわせていないのが現状で隔靴掻痒の気分はまぬがれません。上記の根本氏の記事、とりあえずひとつの資料として載せておきます。
 小浜奈々子さんの証言があればこの問題は決着するのですが・・・・・・。
(写真は『theNichigeki Music Hall』より)
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by yumenonokoriga | 2012-06-25 06:56 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(1)

がんの手術

a0248606_9575535.jpg ある女優はがんと診断されたあといくら周囲が手術を勧めても絶対に応じなかったという。どうして死に急ぐように拒否しつづけたのか、宣告を受けてどのような心境にあったのかは想像するほかない。メスを拒否してもなにかを守ろうとしたのだろうか。
この女優の死とともに思い起こされるのが朱雀さぎりだ。命日は一九九二年一月十二日、享年五十一歳だった。前年の六月、彼女はものがつかえたような咳をした。かぜかなと思いながら八月に検査を受けたところ肺がんだった。喫煙の習慣はなかったにもかかわらず。
 右肺の三分の一を摘出手術して退院したものの十二月に再入院、そのときはあちらこちらに転移していた。病名は知らされないままだった。
 がんと判明した三か月ほどまえから朱雀さぎりは婚約者といっしょに暮らすようになった。すでに日劇ミュージックホールは閉場していて、彼女のヌードダンサーとしての生命は実質上は終わっていた。それでも踊り子の美しさへの執念は現役のときと変化はなかった。というよりも年齢を意識するときあるいはその執念は現役のとき以上であったかもしれない。身体のすみずみを大きなたわしでごしごしと洗うのが美肌維持のための彼女の方法で、あねご肌の彼女は後輩の踊り子にも大いに勧めていたという。そんな彼女の肌を手術のメスが裂いた。
 手術の跡は二十センチほどあり、それを鏡で見たとき彼女は子どものように泣いたという。再入院のまえに手が上がらないほど肩が痛くて髪を洗うにも不便だからと三十センチほどの黒髪を切った。舞台で長い黒髪を回してダイナミックに踊った、その黒髪である。婚約者だった奥義紀氏は「髪を切った時の心境を思うと切なくて、踊り子としてのあいつは、あの時に命を絶ったんだなあ」と語っている。
 あくまでメスが身体にはいるのを拒否した女優と肢体の美に執着しながらもメスをいれた踊り子。いずれにせよ彼女たちの死生観を賭けた選択であるゆえに他人があれこれ云々できるものではない。  
(写真は『theNichigeki Music Hall』より)
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by yumenonokoriga | 2012-06-20 09:56 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

朱雀さぎりの「それからの時」

a0248606_9402521.jpg 朝日新聞社会部『それからの時』に朱雀さぎりを追悼した一文が収録されている。はじめ同紙の「それから」と題した連載に掲載された。「悲運の踊り子」の「それから」の記事に挙式を前にして逝った朱雀さぎりと遺された婚約者とのある事情が書かれている。
 朱雀さぎりが日劇ミュージックホールの舞台を去ったのが一九八二年、そののち彼女は渋谷でスナックを経営していた。婚約者の奥氏はスナックの客だった。やがて二人は恋仲になったが、挙式にあたってままならない事情があった。じつは朱雀には踊り子時代に入籍した男性がいたのだった。
 朱雀と奥がいっしょに暮らしはじめたのが一九九一年の三月、このときはまだ朱雀の籍が抜けていなかった。同年の夏にようやく離婚が成立し、奥はすぐに式を挙げようとした。「一度、白無垢が着てみたい」と朱雀が彼に話していたからである。ところが二人は律儀にも女性は離婚後六ヶ月以内の再婚は認められないとの条項を考慮に入れて挙式を翌年に延期し、日取りを一九九二年三月二十五日と決めたのだったが、このときすでに朱雀の身体はがんにむしばまれていた。 
 その三月二十五日、ミュージックホールのスターたちが挙式の予定されていた会場である東急ゴールデンホールにつどって久しぶりに華やかな踊りを披露したという。
 有楽町時代のミュージックホールには小さなバーがあって、そこの壁面にはメリー松原、伊吹マリ、ヒロセ元美、ジプシー・ローズ、R・テンプル、小浜奈々子、奈良あけみ、アンジェラ浅丘の八人の写真が飾られていた。いわば「殿堂」入りしたダンサーたちで、ここがそのまま残されていたならば、朱雀さぎりは松永てるほ、岬マコとともに壁面を飾っていたはずだ。
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by yumenonokoriga | 2012-06-15 09:59 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

朱雀さぎり、その死

a0248606_10364332.jpg 日劇ミュージックホール閉場のあと一度だけ朱雀さぎりのヌードにお目にかかったことがある。里吉しげみの主催する未来劇場に岬マコとともに客演した博品館劇場の舞台だった。手許のパンフレットで確かめると日にちまでははっきりしないけれど一九八四年(昭和五十九年)の十一月、そのときがわたしが彼女を眼にした最後の機会だった。
 それから七年あまり経った一九九二年(平成四年)一月十三日の新聞で彼女の死去を知った。朝日新聞に載った記事を引いておこう。
〈朱雀さぎりさん(本名三浦規子=元日劇ミュージックホール・ダンサー)
十二日午前三時十二分、肺がんのため、東京都中央区の病院で死去。五十一歳。葬儀・告別式は十六日午前十時から葛飾区白鳥二の九の一の四つ木斎場で、喪主は婚約者の奥義紀(おく・よしのり)氏。自宅(略)
 一九五八年に同ホールで初舞台を踏み、七十年ごろから八十三年までトップダンサーだった。〉
 斯界の大スターの訃報記事におどろき、ついで彼女を悼み、そして素敵な眼福をもたらしてくれたことに感謝を捧げた。
 葬儀の日の一月十六日に産経新聞が追悼記事を載せ、のちに産経新聞社会部『葬送 時代をきざむ人生コラム』に収録された。
 この追悼記事のなかであるファンは「日本人離れしたボリュームのある体だった。腰をグラインドさせて大きく突き出されると、吹き飛ばされるようだったね」と語っている。また弔辞を読んだファンは「三浦家の名前で逝くなんて」と挙式を前にしての死を悼んだ。
 その人柄は涙もろくて人情に厚いとある。
 婚約者の奥氏は彼女に病名を告げてはいなかったが彼女は肺がんと知っていて、兄には手紙で告げていた。婚約者には知らないそぶりを通しつづけた。知らないふりの一環でもあったのか、病院の食事には手をつけず二人で食べ歩いた店の料理をねだって、奥氏はリクエストに応えた。
 そして通夜の席で婚約者は兄から彼女の手紙を見せられたのだった。
 「だまし通したつもりが、わからないふりをしてくれたんです。いいやつでした」。奥氏の述懐である。
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by yumenonokoriga | 2012-06-10 06:37 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(1)

森茉莉の応援歌

a0248606_13294075.jpg 固い決意で日劇ミュージックホールの舞台に立ったがそれでも涙を流した。朱雀さぎりのデビュー・シーンである。そのときの感情は石崎勝久『裸の女神たち』によると「客の目線が乳房にからみ、腰のあたりにねちっこくからむたびに、自分の処女の肌がべとべとと汚されてゆく感じがする。その屈辱感。不快感」というものだった。泣き寝の生活は四か月つづいたが、そのあとはスパッと割り切れたという。
 彼女には男と対峙する気迫があった。わたしが朱雀さぎりに感じた迫力は彼女がデビュー当時に味わった屈辱感と不快感を乗り越えた気持の表れであったのかもしれない。
 川島雄三監督に「風船」という映画がある。富裕になって生じた家庭内の安易さや軽薄さにあれこれ悩まされるている実業家(森雅之)の姿が描かれている。なかで、かつての下宿先の娘(左幸子)が貧乏からヌードモデルのアルバイトをしているのを知る場面があり、秘密を知られた娘は「ヌードモデルは私の外側だけ見せるもんや、私の中身とは関係あらへん」という。
 はたしてそうか。
 森茉莉はヌードについて「恥と思う女は、それはそれで立派だ。恥だと思うのなら貧窮を我慢して、マッチ箱でも張ってりゃあいいんだ。裸になってさんざん稼ぎまくっていて何が恥だ」と書く。(中野翠編『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』)。
 そう、ヌードモデルが恥であるものか。「風船」の彼女は片手間のアルバイトでモデルをしているからあんなせりふが出てくるのではないか。
 鴎外の息女はさらにパリの娼婦にも触れて、その自尊心を持った姿勢を讃えて「素人の女が羨むような美貌と化粧と着付けで、肩で調子を取って軽く腰を揺するようにして歩くと一歩歩くたびに肩にゆるく、斜めにかけた毛皮の尻尾が軽く揺れる」「そうして踵の細く高い靴の下からポッ、ポッと、薄紫の菫の花が咲き出るようなのだ」と述べる。
 それはともかく四か月の泣き寝のあとで朱雀さぎりが獲得したのは森茉莉が論じたごとき誇り高さと気高さだった。その姿に多くの男は酔いしれ、血を滾らせた。
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by yumenonokoriga | 2012-06-05 09:19 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)