谷ナオミ

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 日活ロマンポルノを代表する女優の一人で、SMの女王また緊縛の女王と異名をとった谷ナオミのビデオを集めていた人がそのコレクションを奥さんに見つけられて処分させられたという記事を週刊誌か何かで読んだことがある。
 紀田順一郎『古本屋探偵の事件簿』のなかで古書店勤めの男がビニ本マニアを評して「みんなごく普通の、気の弱いサラリーマンでしたよ。女を買う勇気もないという男たちの、ひそかな楽しみですよ。いじらしいじゃありませんか」と言っていた。谷ナオミのファンも同様にいじらしい。だからコレクションが見つかると処分して泣き寝入りするほかなかったのだろう。
 谷ナオミが日劇ミュージックホールへ出演したのは昭和五十一年(一九七六年)二月から四月にかけての「春の世の女絵巻」だった。このころロマンポルノの女優陣である田中真理、田口久美、二條朱美、小川亜佐美などがゲスト出演しており、そのなかにあって谷ナオミの舞台は緊縛と苦悶の表情が大いに評判となった。彼女の個性とともに緊縛作家団鬼六の演出の成果も大きかった。
 公演パンフレットには演出意図をつづった団鬼六「私のサディズム」と女優への声援をしるした映画監督小沼勝の「虚構(ロマン)に生きる女 谷ナオミ」の二編が収録されており小沼監督は「今日活の仕事と日劇の稽古の為ほとんど寝ないでしかも笑顔をたやさず頑張っている谷ナオミさん、あなたはほんとの女優ばかで、それだけにかわいいし、又そこに女としての悲劇をみる思いもするのです」と述べている。
 じつはこの一年ほど前に谷ナオミは逮捕されていた。「劇団ナオミ」に十七歳のヌードダンサーがいてこれが児童福祉法に違反した。谷ナオミの亭主兼プロダクション社長のYという男がこの十七歳を入れた経緯があり、谷ナオミはYを必死になってかばっていた。ところがミュージックホールの舞台稽古に入ったころYに新しい女ができたのがもとで二人は別れてしまう。
 ある日稽古が終わって彼女は新橋の酒場に団鬼六を誘い、そこで十八のときから九年間いっしょだった男との別れを告白したという。「ナオミは無理に笑いながら私を見たが、その二重瞼の大きな眼には涙が一杯、滲んでいるように私には見えた」と団鬼六は『蛇のみちは 団鬼六自伝』に書いている。
 小沼監督の見た谷ナオミの笑顔、そしてミュージックホールでの緊縛と苦悶の表情の裏にはこうした事情が秘められていた。          
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by yumenonokoriga | 2012-07-30 08:34 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

永井荷風とメリー松原

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 ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人』は、ひとりの外国人研究者の眼に映った日本の戦後史像を示して話題になった書だが、なかに戦後の象徴のひとつとしてストリップについて触れた箇所がある。そこにはジプシー・ローズとメリー松原の名前が見えていて、とくにメリー松原は永井荷風のお気に入りだったと記述されている。
 荷風が昭和二十三年から三十年にかけて浅草六区のロック座やフランス座、常盤座、大都劇場などの楽屋に連日といってよいほど出遊していたのは有名なはなしで、日劇ミュージックホール初期のスターだったメリー松原は昭和二十三年(一九四八年)二月にロック座で浅草初お目見えしているから、荷風が彼女をひいきにしていたとしておかしくはない。ただし困ったことにそれを証する典拠が何なのかがわからない。
 橋本与志夫『ヌードさん』が荷風のひいきにしていた踊り子として挙げるのはナミジ笑と高原由紀。前者は仲澤清太郎の司会でおこなわれた荷風のストリップ談義「荷風先生とストリップ」(昭和二十五年八月「オール讀物」)でヒロセ元美、ベッテイ丸山、オッパイ小僧こと犬丸弓子とともに座談のお相手をつとめている。後者は彼女を映画スターにすべく荷風みずから映画会社に推薦状を書いて入社させたこともあったとか。
 いっぽう、秋庭太郎『考證永井荷風』にはお気に入りの踊り子としてヘレン瀧、高原由紀、ハニー・ロイ、摩耶ジュリ、園ハルミ、奈良アケミ等の名があるもののいずれにもメリー松原の名はない。
 話題を『敗北を抱きしめて』に戻すと、メリー松原が評判を呼んだのは舞台での演技とともに、有名女子高を卒業し、国会の貴族院で秘書を勤めたという経歴もあずかっていたとある。学校教育法が施行される昭和二十三年以前だから女子高とは旧制の高等女学校を指しているのであろうが、ならばどこの学校に通っていたのか、貴族院の秘書とは特定の議員の秘書だったとすればそれは誰だったのか、いろいろと疑問は残る。メリー松原の妖しい魅力はいまに伝えられても、怪しい情報については困難ではあってもできるだけ確認作業をしておきたいものだ。
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by yumenonokoriga | 2012-07-25 08:43 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「インテリ・ヌード」小川久美

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 小川久美についてコメントを寄せていただいたみどりやま様から貴重な資料を提供していただきました。同氏の思い出の雑誌記事は「将来の栄光に”裸”を賭けたインテリ」というもので、副題に「ヌード・ダンサーの小川久美さん」とあります。初出は不明ですが文中に「ヌードになって三か月」という文言があります。この記事にはミュージックホールの入団は一九五八年(昭和三十三年)二月十日、初舞台は同月二十七日とありますから、そこから三か月経った時点のものです。
 さて当時二十一歳の小川久美の素顔を雑誌記者はこんなふうに述べている。
〈瞳の大きいどちらかといえば清楚な感じのする美人・ヌード・ダンサーといえば妖艶な美しさを思いがちだが、彼女にはおよそそんな感じはない。むしろ硬質な、造花のような印象ですらある。〉
妖艶から清楚へ。小川久美の登場はそれまでのヌードダンサーのイメージの変化を伴っていたようだ。
 そして山脇短期大学を卒業して栄養士の資格を持ち、くわえてラジオ東京のアシスタント職や新協劇団の研究生の経験もあるといった経歴が当時の人々の耳目を引いた。ミュージックホールへの誘いを受けたときの気持を彼女はこんなふうに語っている。
〈新協劇団でワンサをやるのも、テレビに仕出し役でチョット出たりするのもおなじで、一向にかわりばえがしない。いっそヌードになって思い切り勝負をしてみればまた変わったサイの目も出るかもしれない。〉
 しかしいざ舞台に立つと、いくら割り切っていたといっても「一種の屈辱感」はどうしようもなかった。くわえてマスコミで大きく取り上げられた結果、同輩のダンサーからは挑戦的な視線で見られるようになる。華やかな舞台とはうらはらに楽屋は人間関係がむき出しになる場所となる。
「なにさ、お高くとまって」「インテリはちがうわネ」と聞こえよがしにいわれたとき小川久美は「お里がしれるわ」と応じたという。ここも言わずと知れた競争社会であり、どちらをよしとするものではないが、いずれにせよ勝ち気でなければ生きてゆく資格がない世界である。
(写真はみどりやま氏提供の記事より)
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by yumenonokoriga | 2012-07-20 10:25 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「救世主」小川久美

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  日劇ミュージックホールが開場して五年目にあたる一九五六年(昭和三十一年)と翌年の公演リストを見ると、伊吹まり代(まり改め)がほとんどの舞台でトップを務めており、その存在の大きさがよくわかる。昭和三十一年の六回の公演ではすべて、翌年の六回では五回、彼女の名前がトップにきている。そのあとにメリー・松原、R.テンプル、奈良あけみ、桜洋子、ジプシー・ローズ、春川ますみといったダンサーがつづいている。
 その伊吹が昭和三十三年の初公演「日本髪の恋愛選手」を最後に引退を表明した。この前後には伊吹につづいていたダンサーたちの名前が公演リストから消えている。つまり世代交代期に入ったわけだ。当時の状況は丸尾長顕によると「傘下に集っていたスターたちが続々とやめていった」「ほんとうに一人も残らなくなってしまった」「興行成績は眼に見えて悪くなっていった」というものでここにミュージックホールは第一期の終焉を迎えたのだった。(『日劇ミュージックホールのすべて』)
こうしたなか短大卒業のインテリ・ヌード小川久美のデビューが評判を呼んだ。清潔な、知的な感じが舞台に新風を吹き込んだという。初舞台は伊吹まり代の引退公演「日本髪の恋愛選手」につづく「これはカックン!」で、『the Nichigeki Music Hall』の公演リストにはつぎの「女は悪魔を飼っている」ではじめてその名が見えている。そのあと二年半ほどで結婚した小川久美の舞台は長くはなかったが、丸尾は「インテリ・ヌードの威力は、第二の黄金期を築く基礎になった。私は、第一期の伊吹まりと共に、日劇M・Hにとっては恩人だと信じている」と述べて彼女を讃えている。伊吹まりと肩を並べるほどの貢献度というのだから、彼女の出現が窮状にあった劇場にどれほど大きな救いとなったかが窺われよう。まさに「救世主」の出現だった。
 小川久美については本ブログにコメントを寄せていただいたみどりやま様が貴重な情報を提供してくださっているので一部を紹介しておきたい。
〈昭和三十三年客数の低迷に悩んでいたNMHに客を取り戻した救世主と言われた彼女、新潟出身、山脇学園卒業、ラジオ東京編成局にいる彼女をNMH運営委員加藤忠松が口説き落とし、いきなりスター扱いでデビューさせた。小川久美は新潟生まれらしく色白で他のダンサーとは一味違う清潔感もあって大いに人気を集めた。彼女のお陰で客数は増加、影響された新人ダンサーも増加・・・・・・〉
(写真は『日劇ミュージックホールのすべて』より。左小川久美、右小浜奈々子)
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by yumenonokoriga | 2012-07-15 10:10 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

和っちゃん先生の信奉者たち

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林圭一『舞台裏の喜劇人たち』は日劇ミュージックホールを扱った専著ではないが、長年にわたり東宝系の芝居、ミュージカルを手がけた演出家の書いた本だからおのずとミュージックホールの舞台に立った喜劇人の面影が語られている。
 いろいろな文献の記述とおなじくここでも泉和助という人は「才能の溢れかえる男」である。そんな和助を慕う一人に岡田真澄(写真)がいた。当時ファンファン・ラ・レックと名乗っていたこの若者は「一から十まで和助の言いなりだった。そして成長した」。パン・猪狩も和助を信奉する一人で、日劇の大道具からコメディアンに転向し「不器用さを熱と粘りで克服して誇り高き大道具ならぬ大道芸人として成功」した。
 こんなふうに楽屋では尊敬されているのだが客席の受けはそれほどでもない。これまた類書に見られる通りで林も同様の指摘をしている。
〈才能が先走って自分の演技はうまくない。器用なんだけど、欠点は動きが小さいことだ。〉
〈カウボーイに扮して、投げ縄を扱いながら結局自分もグルグル巻になってしまうギャグなんか、自分でやらず、他の者にやらせたらもっとおかしかったに違いない。〉
 話題を戻すと後年ライブハウスでの一人芸が注目を集めたパントマイムのマルセ太郎が書いた『芸人魂』には「ハードボイルドだど!」のギャグが大当たりしたトリオ・ザ・パンチの内藤陳が披露した拳銃さばきも泉和助、和っちゃん先生の伝授によるものだったとある。マルセ太郎自身もはじめてミュージックホールに出演したとき、自分の出番が終わり舞台の袖からショーを見学していると「どうだい。たまには楽屋に遊びにおいで」と和っちゃん先生から肩をたたかれたときは天にも昇る気持だったという。
 林圭一は東宝の舞台に立った人々のなかで気どらない性格でファンからも仲間のだれからも好かれた芸人として越路吹雪の名を挙げ、その反対がトニー谷だったと回想している。芸人には自信もアクも必要だが、あまりに強すぎたとか。そのトニー谷が絶頂期にあったころ「タニあんざんす」と泉和助の楽屋に入って来た光景をマルセ太郎が書きとめている。人気のほどでは比較にならない同輩の機嫌をとるトニー谷の姿がよほど印象に残ったのであろう。
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by yumenonokoriga | 2012-07-10 06:53 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

マルセ太郎の形態模写

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 マルセ太郎(1933-2001)ははじめ寄席やキャバレーの舞台で漫談とパントマイムを演じ、なかでもサルの形態模写が評判を呼んだ。一九八0年代以降では渋谷ジァン・ジァンでの映画再現芸「スクリーンのない映画館」、一本の映画を一人で演じ語り下ろすパフォーマンスが高い評価を受けた。晩年には人生の深い洞察にもとづきながらそれを喜劇として表現した「マルセ喜劇」が好評を博した。
 この人はデビューが日劇ミュージックホールで、ここでの回想を『芸人魂』に残してくれている。初舞台は一九五七年(昭和三十二年)の「メケメケよろめけ」で、そのとき東宝芸能社から「マルセル・タロー」の名前を頂戴した。全部カタカナの名前はいやだったが、それよりミュージックホールに出られることの感激が大きかったという。このときの看板ヌードスターは小浜奈々子で、彼女についてこんなふうに述べている。
〈僕はひそかに彼女のことを、「せり上がりの名人」と呼んでいた。やや太り気味で、踊りも上手いひとではなかったが、ポーズをとって、せりから上がってくるときの微笑は絶品だった。あたかも女神の登場を思わせ、丸の内界隈のサラリーマンたちの間で、圧倒的な人気を呼んでいた。〉
 『芸人魂』におけるミュージックホール回想の多くは泉和助のことについやされており、いかに優れたコメディアンであったか、タップダンサー、殺陣師、マジック、コント、ドラム、拳銃さばきなど驚くべき多芸の持ち主であったかが語られている。コントでは女性専用のトイレに入っていた男が、女性に見つかって咎められ、そこへ警官が通りかかるという設定での押し問答、あるいは禁煙の場所で煙草を吸っている男とそれを注意する警官とのやりとりが具体的に述べられている。泉和助のコントは映像に残されていないだろうから、これらはその舞台を知るせめてものよすがとなろう。
 デビューから十年近く経ってマルセ太郎はミュージックホールでサルを演じていたところ、ある日、泉和助が楽屋を訪れた。恐縮するマルセを制して、和っちゃん先生は「まず脱帽しておく」とハンチングを取り、頭を下げ、さらに「君のサルは凄い。榎本のおやじも及ばない。絶品だ」といった。榎本のおやじはもちろん泉和助の師匠である榎本健一、サルのものまねを得意芸のひとつとしていた。
僕はラッキーな芸人だ、誰が和っちゃん先生からこれほどの讃辞をかち得たか・・・・・・マルセ太郎の自負であり、その芸は泉和助折り紙つきの絶品だった。
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by yumenonokoriga | 2012-07-05 10:03 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)