色川武大の見たヘレン滝の店

a0248606_1141620.jpg 色川武大『あちゃらかぱいッ』にヘレン滝が有楽町に出店していたバー「長崎」の様子を語ったところがある。
 そこはカウンターだけの店で、ヘレンがママ、夫の土屋伍一がカウンターのなかでバーテンを務めていた。もっともこの二人、色川によれば女は「松竹歌劇出身で身体は大柄で艶っぽかったが、大酒呑みで、さっぱり欲がなく」男も好一対でかつての美男歌手であり、その気になれば天下に名を轟かすチャンスがあったのに「ひたすら女一筋、それもヒモ志望で、自分は何もせずに、ただセックスをして酒を飲んでいたい」うえにヒロポン中毒というのだから店が上手くいくはずもなかった。
 色川によると大酒呑みで金銭感覚を欠く二人の「どうにもならない有様」を見てみようとでもするかのようにけっこう客は入っていたというから、店は賑わっているように見えてもいわくつきで、きわめて短いあいだのバブルのようなものだった。
 案の定、ママのヘレン滝が早いうちは一人で呑み、そのうち客に合わせてチャンポンでやりだす。バーテンの伍一もいいかげんでろくすっぽ酒の分量を量りもしない。二人が酔い、勘定がわからなくなり、誰が来たのかすら覚えていない。そんなふうだからうわべは繁昌していても売り上げはほとんどなかった。
 小野佐世男「ヘレン滝の店」には「ここはいつもにぎわって、浅草のレビュー子がにぎやかに飲んでいる。ヘレンさんの関係で、舞台の人が多い」とあるが、楽屋裏は火の車でわすか三か月で店は閉じた。
 そこへ声をかけたのが日劇ミュージックホールだった。おそらく一九五二年(昭和二十七年)七月のミュージックホール開場直後あたりだろう。ただしヘレン滝は条件として土屋伍一との手切れを課せられた。『あちゃらかぱいッ』には「そうかい、まァ、どうでもいいやな、きれてやるよ」「悪いね。後足で砂をかけるようで」「いいってことよ。人それぞれだ。せいぜいがんばりな」「それじゃァね。伍ゥちゃん」とのやりとりと涙ぐむヘレン滝の姿がしるされているが聞き書きなのか作家の創作なのかはわからない。
 こうしてミュージックホールと契約したヘレン滝だったがアル中状態のうえに急速な肥満がくわわり舞台生活はわずかで終わってしまう。
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by yumenonokoriga | 2012-09-30 07:33 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

小浜奈々子と古今亭志ん生

a0248606_10574883.jpg 三浦哲郎の小説『夕雨子』のモデルだった水原まゆみが日劇ミュージックホールにデビューしたのは一九七一年(昭和四十六年)一・二月公演「甘美なるウーマンリブ」の舞台だった。そのときのトップは小浜奈々子が務めていて、水原まゆみは自著『男たちへの花束』で楽屋における小浜の姿を書きとめている。
 ある踊り子が衣装のままトイレに入ったのを知った小浜奈々子が「ダメです」と叱るとトイレから「すいません」と小さな声がした。水原まゆみはその剣幕に、自分が叱られたような気がして楽屋の隅にうずくまってしまったという。
〈「あなた、お客さまの前で晴れ着を見てもらうのですよ。晴れ着のままトイレに入るなんていけません。前もって楽屋着のときすませておくのが常識です。
「気をつけます」〉
先輩の教えは絶対で、言っていることも理に叶っているのだから、叱られる側はぐうの音も出ない。衣装からトイレの臭いでもすれば艶消しもいいところだ。
 小浜奈々子のエピソードを読むと古今亭志ん生の話を思い出す。
 古今亭志ん生は高座を前にしていったん白足袋をはくと絶対にトイレに行かなかったし、高座の扇子は噺のなかで必要に応じて仕種として広げたりあおいだりしても、楽屋ではどんなに暑いときでも広げたりあおいだりはしなかったという。語るのは息子で弟子の古今亭志ん朝師匠。その対談集『世の中ついでに生きてたい』に収める江國滋との対談「落語も人物を描かなきゃ・・・・・・」に見えている。ついでながらここで志ん朝さんはトイレを「はばかり」と言っている。
 もっとも志ん朝さんがこれを語った一九九四年の時点で雰囲気はずいぶんと変化している。白足袋のままでのトイレ、高座の扇子を楽屋で使うといったことは「いまはほかの人を見てると、かなり偉い人でもみんなやってんです」といった具合だ。
 ミュージックホールでも小浜奈々子の引退とともに、先輩がガミガミいうと、ここだけが仕事場じゃないわとかんたんにやめてしまったりするものだから、いつしか誰もうるさいことは口にしなくなってしまったという。
 ミュージックホール史上最高のスターダンサーの舞台への、そして稀代の噺家の高座への姿勢は通じ合っている。昔気質の芸人の心意気がうれしく、寿ぐに足る。
(小浜奈々子の写真は『日劇ミュージックホールのすべて』より)
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by yumenonokoriga | 2012-09-25 10:00 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「楽屋のぞ記」

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 表通りのきれいなところほど裏へ廻るといろいろごたごたがあるという。そんな一般的法則は承知はしていても日劇ミュージックホールのファンとしては一度は楽屋をのぞいてみたかった。
 そのむかしメリー松原が楽屋風呂に入っているとき何かまちがえて男が入ってしまい、気がついた彼女はすぐにパッと両手で乳房を隠したのだそうな。舞台では堂々とオッパイを出している彼女のしぐさに男は感激したという。
 楽屋なんかで着替えをしてるところへ誰か来るとあわてて隠しますよ、舞台へ出れば出すんですけどね、やっぱり・・・・・・とはヒロセ元美の言。
 舞台とは異なる踊り子の表情を一見したいと思うのは人情でしょう。
 一九五六年(昭和三十一年)に新潮社から刊行された佐藤弘人『いろ鉛筆』という本に「楽屋のぞ記」なる一文がありミュージックホールの楽屋風景が書かれてある。著者は理学博士で一橋大学教授、当時のいわゆる「粋人」のひとりで『いろ鉛筆』の前著『はだか随筆』は昭和三十年の大ベストセラーだった。
 昭和二十九年の暮れの二十九日、一橋大学の佐藤教授は関根松夫という方といっしょにミュージックホールの舞台を見たあと日劇の長谷川十四郎支配人の案内で楽屋に廻った。支配人は一橋大学の出身で、佐藤先生の教え子である。
 各部屋のドアには
 Attention! Gentlemen does not enter to this room.(It's a regulation.)
(その筋の御注意により、出演者の外、内外人共、この室への出入を禁止しますー支配人ー)
 という札がさがっていて、その下に踊り子の名前が書かれている。
 ここで佐藤教授は出入り禁止の札に臆せず、支配人に「部屋のなかをちょっと見せてくれませんか」といえば、支配人も仕方がないといったふうで、ある部屋のドアを叩いた。六号室、ノックの音がするとハーイと「妖声」の返事があって、ドアを半分あけにして出てきた女性がいる。見ると竹野美子だった。支配人は教授と同行の関根氏を紹介する。この関根氏を紹介しているあいだに佐藤先生は半開きのドアから中をのぞきこんだ。この瞬間を教授はつぎのようにしるしている。
〈二人のヌード嬢が鏡の前で、話をしながら「肉化粧」をしていた。中は狭いので雑然としていたが、赤色の衣装や、活花がパッと目を射て、陶酔のあとの翳が、いや妖気が甘く立ちこめて、私は軽い興奮を禁じ得なかった。〉
(写真は竹野美子、橋本与志夫『おお!ストリップ』より)
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by yumenonokoriga | 2012-09-20 10:00 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

小野佐世男

a0248606_9493067.jpg 日劇ミュージックホールのポスター、看板を描いた画家に小野佐世男がいた。一九0五年(明治三十八年)二月横浜に生まれ、赤坂中学を終えたのち上野美術学校、現在の東京芸術大学に学んだ。在学中から雑誌の表紙にあでやかなモダンガールの肖像を描いていたという。
 たとえば中川一政や和田誠、東海林さだおが、そうであるように小野も絵とともに文筆をよくした。女の絵姿を描くしあわせをいつも感じていると言うこの粋人はしばしばエロティックな絵に女のことを文章にして添えた。豊満な肉体を和服につつんだマダムがカウンターの前に立っている姿の絵には、とある銀座のバーのマダムは昨夜の飲み過ぎで朝には頭が重かったけれど、すがすがしい太陽の光に、朝風呂で肌を綺麗にぬぐって生まれかわったようにいきいきとなり、たそがれ時には店の掃除も終え「マダムのきめの細かい豊満な肉体が、ネオンの光とともにさえわたってきた」といった文章を添える、といった具合だ。
 永井龍男は『へっぽこ先生その他』にある「小野佐世男」に、売り出した当時の画風は、竹久夢二の次は小野の描く女だと思わせる特徴があり、着物を着た豊満な女にエロではない一種のエキゾティックな色気があって、粋な風情すらあったと書いている。同書には「晩年はジャーナリズムの急襲をうけて、女の肢体を過度に露出させるような仕事もした」とあり、この「過度に露出」というのがミュージックホール関係の仕事を指しているのだろう。
 小野は一九五四年(昭和二十九年)に五十前の若さで亡くなった。この年二月一日、マリリン・モンローが夫のジョー・ディマジオとともに来日した。この日、小野はある週刊誌の依頼で羽田空港に到着するモンローを訪ね、会見記を書くことになっていた。モンロー夫妻を乗せたパンアメリカン機が羽田に着いたのは午後八時三分。もっと早く着く予定だったが、到着が遅れた。小野はパンナム機の延着を知って時間をつぶすためにミュージックホールへ立ち寄り楽屋を訪ねようとして階段を上る途中心臓の発作を起こし、救急車で近くの病院へ運ばれたがそれきりになってしまったのだった。命日は二月一日。
 マリリン・モンローとの会見を前にしてのミュージックホール、この取り合わせは絢爛にして豪華だが、その高ぶりが発作を呼んだのだろうか。若すぎた死が悔やまれる。
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by yumenonokoriga | 2012-09-15 09:50 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

「ヘレン滝の店」

a0248606_10351523.jpg 日劇ミュージックホールの艶めいたポスターや看板を手がけた画家としては小野佐世男や落合登の名前がよく知られている。そのひとり小野佐世男に『女・ところどころ』という絵入り随筆集がある。新書版で百五十円、文陽社というところから上梓されていて「フクちゃん」の横山隆一が「美人画」の名手であり「日本漫画史上の昭和篇で一番光っているのは」小野佐世男と推薦文を寄せている。奥付にもカバーにも刊行の日付がない。おそらく昭和二十七、八年ころの刊行だろう。
 ところどころにキャバレーやダンスホールの楽屋のスケッチや踊り子の姿が描かれているが劇場名やモデルの名前は挙げていない。なかで例外なのが「ヘレン滝の店」と題した短文。ヘレン滝は戦後一世を風靡したストリッパーの一人で、日劇小劇場、日劇ミュージックホールともに出演している。ただしミュージックホールのほうはダンサーとしての終焉期で短期間に終わった。
 小野佐世男の一文にはヘレン滝が有楽町界隈に開いた店とそこの賑わいぶりが紹介されている。その店は「有楽町の橋のたもとから教会の方に行き、その裏の柳小路」にあった。ついでながら色川武大『あちゃらかぱいッ』にもこの店が見えていて、銀座教会のすぐ裏、店の名は「長崎」とある。
〈ここはいつもにぎわって、浅草のレビュー子がにぎやかに飲んでいる。ヘレンさんの関係で、舞台の人が多い。脚のキュッーと美しいのが椅子に、いつもはちきれそうなイットを発散させている。舞台で見る踊り子さんも、こヽへくると、たヾビールを飲み、トンカツを食べ、なかなか別な魅力が発散してくる。〉
〈ヘレンさんは一ぱいのんだ御機嫌で、いつもお店をにぎわしている。こヽでは裸にならない。裸でサービスされてはこちらがこまる。二階からトントンとおりてきて「マアーいらっしゃい」とあの素晴らしい肉体美を、まじかに見せるのだから、おみせはすごくはやっている。〉
 いわずもがなの注釈を付けると「イット」はずばりお色気のことで、一九二七年製作クララ・ボウ主演のパラマウント映画に由来する。エリナ・グリーンの同名小説を原作とするこの映画は日本では「あれ」と題して封切られ、その名訳は世の喝采を博した。
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by yumenonokoriga | 2012-09-10 10:37 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ヘレン滝

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 日劇ミュージックホール開場当時のスターだったメリー松原ははじめ浅草のロック座でデビューして人気を得たが、おなじころ浅草の常盤座で人気を博したスターがヘレン滝だった。戦前は松竹楽劇団のレビューの踊り子だったのをのちにジプシー・ローズのマネージャーとなる正邦乙彦が口説き落として常盤座の舞台へ上げた。滝洋子改めヘレン滝の誕生だった。歌手の土屋伍一の細君として不遇をかこっていたのを正邦は見抜いていた。土屋伍一については色川武大が『あちゃらかぱいッ』でその人物像を描いている。
 ヘレン滝は一九四八年(昭和二十三年)三月常盤座で正邦乙彦演出のデカメロンショーの舞台でブランコに乗って登場して人気が沸騰した。ここで正邦はそれまでリベラルショーやバーレスク、裸ショーなど呼称も統一されていなかったのを、いまこそチャンスと判断して今後この種のショーをストリップショーと名付けたいと訴えている。
 橋本与志夫によると慧眼の正邦がわざわざ口説いただけあって、美しい肢体とみごとな踊りのテクニックの持ち主はあっというまに花形となったけれどアルコールなしで舞台に出られないほど気が小さかった。
 あるときアルバイト先のクラブで、幕間に一杯ひっかけて一眠りし、出演まぎわに目をさましたのはよかったが、唯一の衣装であるバタフライが見当たらない。乱雑な楽屋で行方不明になったらしい。出番の時間が迫っても見つからず、酔いの勢いも借りて、化粧台の前にあった一輪挿しから薔薇の花を取って股間にはさみ、巧みなテクニックで踊り抜いたというエピソードがある。
 しかしつぎつぎに登場する若いストリッパーにおされて、いわゆるドサ回りに転じざるをえなくなる。色川武大前掲書によると彼女自身に欲がなく、こんどソロで踊らしてやるから振付を覚えなよといわれても、いいよ、疲れるからと応ずるタイプのダンサーだった。引退後は変転の激しい人生を送ったようで、最期は見守る人もないままに若くして世を去ったという。
 橋本与志夫『おお!ストリップ』には引退後SKD出身の男役だったY・Uという踊り子と共同で花屋を開業していたのが数年後には一人で細々と廃品回収に回っていたという消息が記されている。
(写真は橋本与志夫『ヌードさん』より)
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by yumenonokoriga | 2012-09-05 09:05 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)