神様のような肉体

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 版画家の棟方志功はジプシー・ローズを「神様のような肉体」と讃え、その肉体を板に彫りつけようと楽屋に通い詰めた。
 エキゾティックな美貌と雰囲気、百六十二センチ、五十八キロと当時の日本の女性としては大柄な肢体、バレーの基礎があり、くわえて芸熱心で努力の末に身に付けたグラインドの技術、これらの魅力は棟方志功ばかりでなく多くの人が語り伝えている。
 一九六七年(昭和四十二年)ジプシー・ローズ三十五歳の死はあまりにも早い。本コラムの筆者がはじめてミュージックホールの舞台を見たのが六九年だったから、言っても詮無いのだが、彼女が生きていたら三十七歳、まだ舞台に立っていたとしてもおかしくはない。その早すぎた死を思うとちょっとした行き違いで彼女の舞台に出会えなかったような気がしないでもない。
 田中小実昌は『楽屋ばなし』に「ともかく、とくべつなんだもの。ほかのストリッパーたちにくらべると、ジプシーはひかっていた、というのではない。くらべることを絶して、ジプシー・ローズはとくべつだった」と書いている。このジプシー讃歌は「ちょっとした行き違い」の口惜しさをますますつのらせる。
 もっともジプシーからすれば無理をして長く舞台に立つなんて彼女の矜持が許さなかったはずで、鉄火肌の彼女には芸歴を長くしようなんてせこいことであり、頭の片隅にもそんな考えはなかったと想像する。舞台に接し得なかったファンとしては、花の命を長引かせるより自身の肉体の伝説をつくるため生き急いだ感のあるその生涯を讃えてやるほかない。
 吉行淳之介が、松永てるほに、ミュージックホールの踊り子のほとんどが乳暈が小さいのを不思議に思い「それで、乳暈が大きいと、不都合があるのかな」と訊ねると彼女は「ええ、垂れる形になるのが、はやいんです」と答えている。
 乳房に限っても長く踊れるタイプとそうもいかないのがあるようで、このやりとりを意識してあらためてジプシー・ローズの写真を見れば・・・・・・読者諸賢でお確かめ下さい。          
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by yumenonokoriga | 2012-10-30 10:30 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

『モガ・オン・パレード 小野佐世男とその時代』

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 川崎市岡本太郎美術館で「小野佐世男 モガ・オン・パレード」展が開かれている(二0一二年十月二十日~二0一三年一月十四日)。これにあわせて岩波書店より『モガ・オン・パレード 小野佐世男とその時代』(小野佐世男展実行委員会・川崎市岡本太郎美術館編)が刊行された。
 本書には「小野佐世男(一九0五~五四)は、昭和を駈けぬけた漫画家である。女性の曲線美を描き、社会を風刺し、巧みな空談(ホラ話)を語って、広く愛された」と紹介がある。本コラムとしてはここに、日劇ミュージックホールと関わり深かった画家の一項をくわえさせていただこう。
 もとより本書に収める佐世男の長男小野耕世氏の「時代を駈けぬけた父・小野佐世男」や詳細な「小野佐世男年譜」(足立元編)にはミュージックホール関連の記事があり、なかで佐世男とトニー谷が親しい関係にあったのが目を引いた。
 トニー谷は一九七七年(昭和五十二年)の初春公演「'77乳房の祭典」にゲスト出演しており、そのときのエピソードを小野耕世氏が紹介している。
 ある日、佐世男の次男、耕世の弟、隆志氏が友人と劇場へ行ったところ、小野の次男が客席にいると事前に聞かされていたトニー谷は舞台で「かつて小野佐世男というすごい画家がいましてね・・・・・・」と、その思い出ばなしをすこし語ったのだった。
 命日となった一九五四年二月一日、佐世男はマリリン・モンローの帝国ホテルへの到着を待ってその訪問記を書く予定だったのが、飛行機が遅れたうえ空港は歓迎の人波でおのずとホテルでの仕事もずれ込み、そのかんミュージックホールに立ち寄り階段で倒れた。おなじく耕世氏の一文には、エレベーターを待っていたが、故障していたのかなかなか来ない、しびれを切らしてかなり急な階段を編集者とのぼっていて胸が苦しくなった、これが午後三時ころで、駿河台日大病院に搬送されたが同日午後六時七分心筋梗塞により息を引き取ったと、倒れたときの詳細が語られている。
 このころトニー谷の人気は絶頂期だった。しかし翌年六歳になる長男の正美ちゃんが誘拐され、無事に帰されはしたものの事件を機に人気は凋落した。親交があり、数少ない支えの一人だった小野の不在は、トニー谷にとって痛手は大きかったのではなかったか。
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by yumenonokoriga | 2012-10-25 09:03 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「楽屋のぞ記」番外編余話

a0248606_1144833.jpg 日劇ミュージックホールの楽屋を偲ぶよすがに番外編として国際劇場の楽屋に思いをはせてみたが、せっかくの機会なのでもう一度あの劇場の楽屋をのぞいてみよう。
 「男はつらいよ」第二十一作「寅次郎わが道をゆく」のマドンナは木の実ナナ。本編にはSKDが応援出演していて彼女はレビューの踊り子の役どころだ。舞台風景とともに国際劇場の楽屋や裏口が映されているのが、劇場がなくなったいまとなっては貴重な資料となっている。
 国際劇場が取り壊されたのは一九八二年(昭和五十七年)だからはや三十年になる。跡地にはホテルが建ち、わずかに国際通りという名に劇場の名残をとどめている。「男はつらいよ・寅次郎わが道をゆく」は夢の跡をかいま見せてくれたというわけだ。
 元読売新聞の記者だった橋本敏男『荷風のいた街』に、中学生のころ同級生と国際劇場の楽屋を訪ねるくだりがある。その友人のおじさんが松竹歌劇団の囃子方に属して三味線を弾いていたからで、中学生の目に映じた昭和二十五六年当時の劇場風景は「廊下に出ると、雑然とした通路を網タイツを履き、腰に大きな鳥の羽根を付けた踊り子が忙しげに往き来していた。肌も露に見えるその衣装に、私たちは目のやり場に戸惑うのであった」というものだった。
 むかし大和の国で仙人の修行をして空を飛べるようになった男が、ある日若い女の着物をかき上げ、白い脛を出して洗濯している姿を見て落っこちてしまったという。『今昔物語』にある久米の仙人のはなしで、『徒然草』にも採り上げられている。脛というのは膝から足首までの部分なので網タイツ姿の踊り子とは較ぶべくもないけれど仙人でもこうだから、劇場の客席ではじめて間近に観たラインダンスが中学生には「やけにまぶし」く、楽屋風景に「目のやり場に戸惑う」のは当然であった。大学を卒業して間もなくの山田太一でさえ楽屋につづく狭くて汚い階段を目もくらむような気持で、よろけるようにのぼって行ったというのだから。
 といったところで日劇ミュージックホールの楽屋に案内されたりしたら久米の仙人ならぬ当方はどうなっていただろう。 
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by yumenonokoriga | 2012-10-20 11:51 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「楽屋のぞ記」番外編

a0248606_102487.jpg 日劇ミュージックホールの楽屋についてのルポルタージュはないものかとあれこれ探してみたけれどこれといった文献にめぐり会わない。せめて楽屋の夢のよすがにと番外編を記してみた。
 昭和の二十年代を捉えた林忠彦の写真集『カストリ時代』に国際劇場の楽屋でのSKDの踊り子たちの写真が収められている。写真家は「国際劇場の楽屋には、当時、僕しか入れてくれなかったはずで、内部の写真は非常に珍しいものだ」と述べている。松竹の宣伝部の人と親しく、信用があったから楽屋に出入りできたという。
 林忠彦とおなじ幸福を味わったひとりに脚本家の山田太一がいる。一九三四年(昭和九年)浅草生まれ、それも国際劇場と大通りをへだてて向き合った一角で、敗戦の前年に強制疎開で家を取り壊され引っ越すまでここで暮らした。劇場前の広場が遊び場だった。疎開先で中学生となった氏は、戦後、焼跡のなかに国際劇場を見る。汚れてはいたものの壊れてはいなかった。ただしSKDのショーを見るのは数年後、大学生になってからだった。
 大学卒業をひかえても就職がままならず、そんなとき松竹の助監督の試験を受けて合格した。卒業して四月に会社へ行くと、人事課の人が、当社の主要な劇場を案内するといい、同期入社の六人の仲間と、新橋演舞場、歌舞伎座、ピカデリーと見てあるき、最後に国際劇場に案内された。そのときの浮き浮きした気持を語った氏の「故郷の劇場」(『路上のボールペン』所収)は読む者の気持をも高ぶらせずにはおかない。
〈楽屋から入り、舞台裏を案内される。「こんなところを見られるなんて」と、私は漸く自分の幸運に気づき、国際劇場が自分を呼び寄せてくれたような気がした。あれこれ大道具などを見ているうちに、次第に動悸も激しくなるような具合でいると「では、これから踊り子さんの部屋を案内します」というのである。「ウワッ、こんな幸福があっていいのか」と私は、目もくらむような気持で、楽屋の狭くて汚い階段を、よろけるようにのぼって行ったのであった。〉
 ところでこの「故郷の劇場」は取り壊された国際劇場へのオマージュとして書かれたもので、著者は「とりこわされた国際劇場の跡を見る勇気が、いまの私にはない」と書いている。
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by yumenonokoriga | 2012-10-15 10:05 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

わがふるほん人生の輝ける一日

a0248606_11131657.jpg 二十年あまり以前だから一九九0年代のはじめ、平成の二年か三年のころだった。旅先の岡山市、丸善の二階で催されていた古書展をのぞいていて、収穫はないのかなとあきらめかけていたとき、とつじょ映画のパンフレットのコーナーにずいぶんと派手な赤い色の冊子が眼を引いた。
 A4判の赤い表紙は映画のパンフレットにしては雰囲気的に妖しく、近づいて見ると、その赤地には素敵なプロポーションのヌードの絵が描かれている。ミュージックホールのパンフレットが粗末な紐で縛られていて、数えてみると十冊、定価は二千円!一冊四五千円してもおかしくないしろものだ。
 なかでいちばん早いのが一九五三年(昭和二十八年)二月の発行で、これだけがA4判の三分の二ほどの小型、新しいのが六八年二月の発行。昭和の二十年代が二冊、四十年代が一冊、あとはすべて三十年代の公演パンフレットだった。
 パンフレットはすでに日劇小劇場のころから発行されていた。井上ひさし『本の枕草紙』によれば昭和二十五年に孤児施設を飛び出て上京した著者は日劇ダンシングチームのレビューでラインダンスを見て何度も生唾をのみこんだあと五階の小劇場でヌードを見て、将来はこんなところで働きたいと決意し、そのときのパンフレットをずっと後生大事に手許に置いてあったという。
 日劇の取り壊しが決まった一九八一年さる古書店の主人にこのプログラムを見せたところ「あそこのプログラムはもともと出まわらない上に、このたびのように閉場なんてことになると急に欲しいとおっしゃるお客がふえて、もう値段のつけようがありません。ましてや・・・・・・日劇小劇場時代のプログラムともなれば古書業界にこれまで出てきたこともない。国会図書館にもないような貴重品」とのたまったが、買値を二千円と口にしたのは余計であった。
ともあれそうした事情であってみれば、小劇場時代のものをふくむパンフレットを十冊二千円で入手したのだからそのよろこびやいかばかりかとご想像願いたい。
 昭和二十八年二月一日から四月十五日にかけての公演「桃源の美女たち」のパンフレットを見ると、カラー写真はまだない。ヌードに伊吹まり、メリー松原、R・テンプル、奈良あけみといった伝説上のダンサーを配し、ゲストは高英男、出演者の一覧には新谷登(泉和助)桃原青二(深沢七郎)の名もある。
 このころの入場料は普通席が三百円、指定席が四百五十円だった。
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by yumenonokoriga | 2012-10-10 11:16 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ヘレン滝の最期

a0248606_844783.jpg 舞台で稼いだカネを注ぎ込んで有楽町にバーを出店したヘレン滝だったが、それもわずかのあいだで、土屋伍一と切れるのを条件に日劇ミュージックホールと契約したものの短期間で降ろされ、やがてヘレン滝の看板は東京のどのストリップ小屋でも見かけなくなった。
 一九四九年(昭和二十四年)の新宿セントラルの人気投票でヘレン滝は東の大関だからグレース松原、吾妻京子の東西横綱に次ぐ人気を得ている。しかし二年後の五一年、内外タイムス社のストリッパー人気投票では四十位にも顔を出していない。
 色川武大『あちゃらかぱいッ』には「昔の少女歌劇時代の仲間とレズのような関係があったらしく、その相手と共同で渋谷に花屋を出したというが、これも長続きしない」とある。橋本与志夫は『おお!ストリップ』に「SKD出身の男役だったY・Sという踊り子と共同で花屋を開業したという明るい話が伝えられたのも束の間、それから数年後にはこんどは都内下町の某所で、廃品回収業を細々とやっているというニュースを聞かされた」と書いている。
 橋本の「都内下町の某所」は色川によると「下谷の小島町あたりの裏通りをリヤカーをひっぱって歩いている」である。酒も薬もやめてさっぱりしたものという彼女はしかしすっかり老けこんで、御徒町のガード下で寝ていたという。
 やがて色川も橋本も彼女の死を伝え聞く。色川はその最期を「数年後、リヤカーにうよりかかるようにして死んでいった彼女のそばに、やっぱり焼酎瓶が転がっていた」と書き、世田谷のほうで行き倒れたという別の話を添えている。
 そのころ土屋伍一はサンドイッチマンをしたり、芸界のつてをたよってもぐりの指圧師として楽屋を渡り歩いていた。
 ヘレン滝の最期の哀話は花形ストリッパーのはかない末路というほかないが、あくまで傍目から見た話で、当事者としては別の思いもあるだろう。『あちゃらかぱいッ』には「好きに生きて好きに死んだんだ。他人(はた)がアヤをつけることはねえ。幕がおりておめでてえや」との土屋伍一の言葉が見えている。
 死んでから数年後、彼女が全盛時代にあった常盤座をはじめ他の劇場の関係者も多数つどって偲ぶ会を催した。参会者はその霊を慰め一夜を語り明かしたという。
 いまのところどの本を開いてもヘレン滝の享年や忌日はわからない。
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by yumenonokoriga | 2012-10-05 08:51 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)