『いまむかし東京町歩き』

a0248606_9444190.jpg
 さきごろ刊行された川本三郎さんの『いまむかし東京町歩き』(毎日新聞社、二0一二年八月)は文学作品や絵画、映画のなかで語られ、描かれた往時の東京をたどりながら、かつての都市風景を跡付けたエッセイで、恋文横町から毎日新聞社まで九十あまりの土地や建物が採り上げられており、なかに日劇ミュージックホールの項目があるのがうれしい。
せっかくだから資料の補充あるいは註釈めいたものを書いておこう。
〈当初、小林一三は天下の東宝がヌードとは、と大反対したが、結局は時代の流れに逆らえなかった。〉
 日劇小劇場のストリップ興行は好成績を挙げていたが東宝阪急グループの総帥小林一三はこの事態を苦々しく見ていた。いわく「俺は丸の内で女郎屋をやる気持はない」。この意向を体して日小問題に対応したのが小林の長男富佐雄で、劇場はけっこう儲かっているから閉鎖するにはしのびない、そこで彼はショーと劇場のリニューアルに着手する。相談相手としたのが父一三の弟子で子分で旧友でもある丸尾長顕だった。こうして日劇小劇場は閉鎖されミュージックホール誕生に至った。日劇小劇場最後の日となったのは一九五二年(昭和二十七年)一月三十一日、新聞には「裸の歴史に涙の別れ・日劇小劇場最後の夜」「丸の内の涙・さよならハダカ」といった見出しがあり、千穐楽にはヒロセ元美、マヤ鮎川などが時折り涙を拭っていたという。
〈運営委員を務めた演出家の丸尾長顕編の『日劇ミュージックホールのすべて』によれば、こけら落としの舞台では小林一三に気を使ってヌードは出さなかったため客席は閑古鳥が鳴いてしまった。そこで丸尾は急遽ヌードを復活させ、これが成功した。〉
 昭和二十七年三月十五日にはじまるこけら落とし公演は「東京のイヴ」。越路吹雪を主演に迎え、ほかにジャズの水島早苗、バレエの松山樹子、NDTの福田富子など錚々たるメンバーが顔をそろえた。美術スタッフには岡本太郎の名もある。
 四百人定員の劇場で一日三回公演だから千二百人の動員が目標のところへ二百人しか入らなかった。ハダカのない娯楽の殿堂は商売にならず、ひと月公演の予定を半月で打ち切り、再度閉場して二回目の公演で再起を期すこととなった。
 四月二十五日ミュージックホールは「ラブ・ハーバー」で再出発した。「ヌードの殿堂」の実質的なはじまりだった。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-11-30 09:43 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

日比谷の地政学

a0248606_932497.jpg 日本劇場の跡地にはいまマリオンが建つ。松永てるほがマリオンなんか見たくない、こんなものがあるよりも日劇が建て替えられたらどんなによかったことかと語っていたがその気持は痛いほどよくわかる。
 いっぽう日劇ミュージックホールの移転先である東京宝塚劇場内の東宝演芸場の関係者にとってははなはだ迷惑な話であり、ゆゆしい事態だった。当時東宝演芸場のプロデューサーだった道江達夫『昭和芸能秘録』は演芸場の側から見たこの問題の貴重な記録となっている。
 ここで著者は日比谷、東京宝塚劇場とミュージックホールの相性というか適合性を一興業者として判断すれば、この移転は「考えられないこと」だったと書いている。その論拠を見てみよう。
 第一に、東宝劇場の大劇場では年間のおよそ半分が宝塚歌劇団の公演、あとの半分が長谷川一夫、山田五十鈴、森繁久彌、森光子、浜木綿子らを中心とする芝居で、どちらの客層ともミュージックホールの客層とは相容れない。とりわけ宝塚のファンには女子中学生、高校生も多い。こうした客層のあいだをぬって、ミュージックホールの切符を買いエレベーターに乗り込もうという客は「相当に無神経な人間か、会社や家に居られない連中ばかりであろうと思われる」とまで書いている。まあここのところはミュージックホールのファンとしては大いに異論のあるところでありますが・・・・・・。
 第二に、日劇前の人の流れと東宝劇場前のそれとはまったくその数が異なるという事情がある。有楽町から銀座、築地、晴海方面へ往復する人の流れに対し日比谷は帝国ホテルで行き止まりになるからその数は比較にならない。
〈ヌードを観る人は、通り掛かってブラリと入る。前売券を買っておいて、一カ月も前から予定日をたてて出かけてくる客はない。亦は地方から東京へ商用で出張した人が、東京駅か上野駅への列車の時間待ちに覗いてみようかということが多い。有楽町駅から日本一交通量の多い晴海通りを渡って、わざわざ足を運ぶのが、つい面倒になるので敬遠することになる。上得意の客だった駐留軍人の数も減っている〉。
 たしかに日比谷のミュージックホールは固定的なファンはともかく通りがかりの客を呼び込むにはまことに具合が悪い立地条件にあったのはまちがいない。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-11-25 09:30 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

『昭和芸能秘録』

a0248606_12265797.jpg 有楽町の再開発で日劇が取り壊されるという報道があったのは一九八0年(昭和五十五年)の秋だったと記憶している。同時に「東宝のドル箱」日劇ミュージックホールは東京宝塚劇場の小劇場に新装開場するというニュースもあった。
 移転先の東京宝塚劇場の小劇場はこれまで東宝演芸場として東宝名人会が行われてきたところだから関係者にとって衝撃は大きかった。当時の名人会の道江達夫プロデューサーがこのときのことを回想録『昭和芸能秘録 東宝宣伝マンの歩んだ道』に記している。
 一九二二年(大正十一年)生まれの道江が東宝に入社したのは日劇小劇場に東宝名人会が移ってひとつきあとの昭和二十一年二月。以後、宣伝畑の仕事を主に、昭和五十年には東宝演芸場の支配人となり東宝名人会の番組制作プロデューサーを兼任した。昭和五十二年には定年退職したが名人会のプロデューサーについては東宝と契約をつづけており、そのためミュージックホールの移転による名人会の終わりを見届けなければならなかった。
 回想録ははじめ二000年に『芸能サラリーマン双六』として自費出版され、翌年再構成され『昭和芸能秘録』(中公文庫)として市販された。ここで著者は東宝名人会の側から日劇ミュージックホールの問題を見ており、その記述は貴重な記録となっている。
 同書によれば、朝日新聞社と日本劇場が取り壊され有楽町駅前が再開発されるのはすでに周知の事実であったが、それにともないミュージックホールが東宝演芸場に移ってくるという噂を耳にしたのは昭和五十五年の春先で、五月になると噂がではなくて現実となってあらわれてきた。
 当時ミュージックホールは年間およそ八億円の興行収入があり、純益でも一億円を超す実績があった。いっぽうの東宝演芸場は年間およそ二億円、利益は二千万円ほど。ミュージックホールは平日で三回、土、日、祝祭日は四回の公演、入場料は二千二百円、演芸場は平日は一回、土、日、祝祭日が二回の公演、入場料は千八百円だった。寄席の灯を消さないようにといった思いがあればまだしも、現状のソロバン勘定で判断すれば東宝がどちらを選ぶのかはあきらかだった。
 しかしと道江は言う、ミュージックホールが日比谷でやっていけるかどうかを興業者として考えるとそれはまた別の問題になる、と。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-11-20 09:33 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

高見緋紗子のストリップティーズ余話

a0248606_11445923.jpg 日劇ミュージックホールはヌード・ダンサーによるレビューという趣の劇場だったから、古典的というか、観客をじらしながら一枚一枚衣装を脱いでゆくストリップは接した限りの舞台ではほとんど演じられることはなかった。それもあっていつか見た高見緋紗子のストリップは強い印象を残している。
 浅草でデビューしてミュージックホールの舞台に上がった人と聞く。浅草での舞台を最高に洗練させてミュージックホールにかけたのがあのときの踊りではなかったかと思う。
 浅草時代がどれほどの期間だったかは知らないが、美しくやわらかな表情は年齢やキャリアを忘れさせた。「一昔前の『踊り子的』ムードと、きびしさの中から身につけた舞台、楽屋を通じてのマナーの良さは、やはり私どもには大きな魅力である」(橋本与志夫)といった事情もあった。
 三浦哲郎『踊子ノラ』で主人公の桐子は思う「どうせ裸の踊子は、そういつまでも踊っていられるというものではないのだ。いつかは、楽屋の鏡に映った自分の裸に思わず目をつぶってしまうときがくる」と。それはたしかだが、息の長い短いは人により異なる。高見緋紗子はとても息の長いタイプだった気がする。
 ネット上に「高見緋紗子は浅草出身のダンサーで、コントをやらせたらバツグンなんです。近いうちにヌード出身のコメディアンが生まれるかもしれませんよ」という言葉を見つけた。語っているのはプロデューサー橋本壮輔、出典は「週刊大衆」一九七二年六月二十二日号とある。じじつ彼女はコントに起用されることが多くなり、いつしか舞台にその姿を見なくなった。
 『theNichigeki Music Hall』の公演リストでさいしょに高見緋紗子の名があるのは一九六二年(昭和三十七年)の十一・十二月公演「スカートの中の噂」、このときのトップはマリ真珠、つぎに島淳子がつづき、彼女は六番目に来ている。
 最後にその名前が載るのは一九七七年(昭和五十二年)の初春公演「'77乳房の祭典」で朱雀さぎり、舞悦子につづいての三番目、そのあとに岬マコがつづいている。
(写真は石崎勝久『裸の女神たち』より)
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-11-15 10:21 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

高見緋紗子のストリップティーズ

a0248606_1128510.jpg
 本当の意味でのストリップは戦後の一時期、楽屋で目の色を変えてスパンコールを縫いつけていたころのそれだと橋本与志夫は述べている。このころ踊り子たちは一枚一枚脱ぎながら、客をじらしていく、古典的なストリップを演じていた。
 そんな橋本が愛してやまないストリップを日劇ミュージックホールで見た記憶がある。踊っていたのは高見緋紗子。トップスターではなく二番手のスターとして気品のある美しさを保ち、やさしい微笑みを絶やさず舞台を支えていた。一度だけその古典的なストリップに接したことがある。見事なものだった。
 もともとこの劇場には舞台に向かって右側に小編成のバンドが演奏するボックスがあったが、記憶では一九七0年代のはじめ合理化により生演奏からテープに代わった。そのためボックスは不要になり、ここも舞台の一部として使われることがあった。
 高見緋紗子が演じたのはこの狭い空間だった。優雅に、エロティックに衣装を脱いでゆく、肉体の動きにライトがあたって肌はピンク色に近いほどに映る。いずれの公演だったか特定できないが、生演奏からテープに切り替わったころだった。
 高見緋紗子はグラマーというほどではない、かといってスレンダーでもない、とてもバランスのよいタイプだった。美しくやわらかな表情も印象的だ。はじめ浅草のロック座やフランス座で踊っており、やがてミュージックホールの専属になったという。七十年代はじめはもうベテランの域にあったと思われるが、とてもそんなふうには見えなかった。
 プロとしての節制努力もなみなみならぬものがあっただろう。顔にも身体にも年齢が表れにくいタイプだったようにも思う。そして印象に残るのは男をやさしくつつんでくれるような雰囲気だ。
 「G・U」なるイニシャルの人がパンフレットに彼女のことをこんなふうに書いている。
〈ベテランとはいえ、まだまだ年齢は若いのだが、高見にあこがれた青年が、もし楽屋を訪れたとしたら、このひとは決して恥をかかせたりせず、だれよりもやさしく扱ってくれるのではないだろうか。青年は、高見の胸に抱かれて「母」を感じるに違いない〉
(写真は石崎勝久『裸の女神たち』より)
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-11-10 08:32 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

舶来肉襦袢

a0248606_8572896.jpg
 佐藤弘人『いろ鉛筆』所収「楽屋のぞ記」に、一九五四年(昭和二十九年)の暮れに日劇ミュージックホールの舞台を見たあと、劇場支配人に楽屋へと案内されたところ、二人のヌード嬢が鏡の前で話をしながら「肉化粧」をしていたという箇所がある。
 「肉化粧」なる用語は特殊過ぎるからか手許の辞書には立項されていない。辞書になくても意味は理解できるが、じゃあ具体にどうするのとなるとわからない。ちなみに団鬼六先生に『肉化粧』なる小説があるけれど筆者は未見。
 ふつうには肉体を美しく見せるための化粧でよいのだろうが、すこし微に入ってこの言葉の周辺を散策してみよう。
 ハダカひとつで勝負する世界にもいろいろと手練手管はあるようで、たとえば肌色の伴創膏で二時間もオッパイを上向きに吊り上げて舞台に出た人もいたとか。乳房の垂れを目立たせないようするために出演者総出のフィナーレでは両手を意図的に高く上げるとよいらしい。
 ジプシー・ローズと先輩の踊り子がいさかいを起こしたとき、鉄火肌のジプシーは「ストリッパーには骨董品はいらないよ」という啖呵を切ったという。こんな強烈な反撃を喰らっては肌色の伴創膏もかたなしだが、舞台ではそうもいってはいられないからできるだけアラを隠さなければならなかった。
 舞台の景によってはレオタードでスタイルを整えることもあっただろう。そのレオタードが都筑道夫のエッセイ集『昨日のツヅキです』に登場する。同書は一九七七年(昭和五十二年)から翌々年にかけて「漫画アクション」に連載されたものをまとめたもので、そこに著者が、田中小実昌と「リオタードすがた」の踊り子が性交態位の解説をする舞台を見たとのくだりがある。
 いまではレオタードは小学生でも知っているから辞書を引くのは不要だろうけれど、このころはまだ一般的ではなく都筑道夫は「リオタード」と表記し、さらに「体操選手やバレー・ダンサーが着るあの舶来肉襦袢のこと」と註釈を附けている。いまの若い人にはレオタードはわかっても舶来肉襦袢はちんぷんかんぷんでしょうね。話題を戻せば、人によっては舶来肉襦袢も肉化粧に役立ったことだろう。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-11-05 09:56 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)