『新宿海溝』

a0248606_10254320.jpg
 日劇ミュージックホールのダンサーだった関根庸子が新宿に開いたバー、カヌー、そこに毎夜来ていたのが野坂昭如だったと種村季弘が回想している。この店と女主人については野坂自身も自伝小説『新宿海溝』で触れている。
 野坂に店を紹介したのはエッセイストで、当時「婦人画報」の編集長だった矢口純だった。厚生年金会館と成覚寺に近い、以前の特飲街仲乃町の中央道に面したところにあり、いまでは新宿でも珍しくなったバラック建て、入口こそ戸障子ではなくドアだが、ほとんど戦後すぐのたたずまいの店、そこに埴谷雄高、水上勉、田村隆一、中島健蔵、野間宏、井上光晴、吉行淳之介などの文士たちが夜ごと集って泥酔していた。それら文士たちの姿を見てみたい気持から野坂はカヌーを訪れた。まだ彼が、ひょっとすると小説だって書けるかもしれないとひそかに考えていたころだ。
 秋のさなかの一日、陽が落ちてすぐカヌーに入ってみると、赤いタイツをはいた大柄な女が、カウンターに沿ってならべられた椅子に乗り、天井の切れた電球を取り替えていた。客はいない。一見の、しかも気の早い客をいぶかしがりもせず、庸子が「いらっしゃいまし」といい、椅子を降りようとして、タイツのふとももの部分に小さな穴を見つけ、「あら、恥ずかしい」と掌でおさえカウンターの中に入った。
 種村季弘は、関根庸子は美人だったと語っている。『新宿海溝』にはミュージックホール楽屋での姿を語った矢口純の言葉がある。
 〈とってもきれいな肌でね、丁度、ステージを済ませたばかりらしく、こう手を胸で交叉させて、オッパイをかくしながら、こんなかっこうでごめんなさいといいながら、すっと寄ってこられちゃってさ、あたいはもうインタビューどころじゃなかった〉。
 今回、この記事を書くために関根庸子について調べているうちに金子遊氏の「シネマと批評の密やかな愉しみ」というブログで彼女が森泉笙子の筆名で作家再デビューをしていたのを知った。名付けは埴谷雄高である。著書に『危険な共存』(河出書房新社一九七0年)『天国の一歩手前』(三一書房一九八四年)『新宿の夜はキャラ色―芸術家バー・カヌー』(三一書房一九八六年)『青鈍色の川』(深夜叢書社二00九年)などがある。また九十年代から油絵をはじめて二000年には太陽美術展会友となっている。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-12-30 10:24 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

カヌーというバー

a0248606_9365913.jpg
 現役の日劇ミュージックホールのヌードダンサーが書いた自伝小説『私は宿命に唾をかけたい』。著者関根庸子はここに「血まみれの真実」を書いた。 
 彼女は「生きてゆくことがどんなに苦しいものか、私は女学生の頃から、それを身に沁みて味わいました。この小説に書かれていることは、私が目にし、耳にし、また経験したことです」と述べている。
 売れ行きは好調だったが関根庸子は作家にはならず、印税を元手に新宿でカヌーというバーを開き、やがてここは新宿の文壇バーのひとつとなった。
 光文社で彼女の著書を担当した種村季弘の証言を見てみよう。
 〈その子は、もう小説を書くつもりはない。新宿でバーをやるというんだ。「キーヨ」という有名なジャズのお店のそばだったな。初日に行ったら、後にヘンリー・ミラーのカミさんになったホキ徳田がピアノを弾いていた。深沢さんはお酒飲まないから来なかったけど仲間内のような客が多くてね。食い合いで潰れるよといったら、文壇の人を連れてきてくれと。それでつきあいのある作家を連れて行ったんだ。みんなわりとすぐ常連になった。彼女、美人だったからね。野坂は毎晩来ていたな(笑)。〉
 カヌーの店開きはおそらく著書出版からほどなくのころだっただろう。この『私は宿命に唾をかけたい』とおなじ一九五九年六月にマルキ・ド・サド『悪徳の栄え』が澁澤龍彦の訳で現代思潮社から刊行されている。同年十二月には続編も上梓された。ところがこれが翌年四月に差し押さえられ、出版社の石井恭二と訳者の澁澤龍彦が猥褻文書販売同所持の罪状で起訴される。いわゆる「サド裁判」で、第一回公判が東京地裁ではじまったのは一九六一年八月十日だった。
 「サド裁判」と「カヌー」について種村季弘の証言を見てみよう。
 〈文壇の連中が本格的に来るようになったのは「サド裁判」のときからだな。澁澤とか埴谷雄高とか。白井健三郎はどうだったかな。めったに外に出ない人たちが、裁判だから出て来ざるを得ない。文壇バーになりかけの頃だから、そう高くもなかったしね。そういう連中に引きずられて井伏さんが来てた。吉行さんもよく来てたな。それから十返肇・・・・・・〉
 『私は宿命に唾をかけたい』と『悪徳の栄え』が同年同月に刊行されたのは奇妙な御縁で、二冊の本は思いもよらない結果をもたらしたのだった。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-12-25 09:41 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

『私は宿命に唾をかけたい』

a0248606_9362740.jpg
 関根庸子『私は宿命に唾をかけたい』は丸尾長顕が光文社に売込み、同社の種村季弘が担当し、一九五九年六月に刊行された。日劇ミュージックホールのダンサーの書いた本は女版深沢七郎の効果もあってか全二十章二百三十頁余りの本の売れ行きはけっこうよく当時の金額で印税は百五十万円にのぼったとか。
 本書の著者紹介には「昭和八年東京の生まれ、武蔵野高校を中退ののち、伊藤道郎舞踊研究所へ通う。マネキン、ファッション・モデルなどを経て、朱里あけみ舞踊団にはいり各地を巡業、ハワイのナイト・クラブにも出演した。帰国後、駐留軍関係やキャバレーで踊るうち、みとめられて日劇ミュージックホールに出演」とある。
 本書はこうした著者のあゆみ、一人の若い女が戦後をどう生きてきたかを素材とした自伝小説だ。残念ながらミュージックホールの舞台に上がる前で筆は止めてあるから話題は劇場に及んでいない。
 「わたし」洋子は米軍朝霞キャンプにあるコインランドリーにアルバイトとして勤めている。兄をつぎつぎと病気で奪われ、最後に残った長兄も戦病死し、七十に近い父のたわしの行商で得るわずかな収入が生活の支えだ。絶望した母はせめて迷惑をかけずに死にたいと一円を惜しんで貯金している。はじめて稼いだアルバイト代の半分を家に入れたもののすべて質屋の利子や家賃の返済に充てられた。こんな苦しい生活環境のなかにあって「わたし」は「生き抜くことが、どんなにむずかしいか」「でもわたしは生きてゆかねばならないのだ」「惨めな生き方をしてはならないのだ」と思う。
 下着モデルをしてみないかとの誘いがあった。勧誘する男の好色な表情がいやでたまらない。けれど家では両親の金銭がらみの喧嘩が絶え間なく、苦境から抜け出るためにはやむをえない。ショーの稽古に行かされた先が舞踊研究所だった。
ショー当日の「わたし」のコルセットとブラジャーをつけただけの姿は観客をあっと驚かせ、新聞にも取り上げられた。こうして得た日当が四千円。
 やがて「わたし」はランドリーをやめてファッションモデルをめざすがなかなか埒があかず、つなぎに絵のヌードモデルとなる。
 このかん米軍所属のアメリカ人との関係はつづいていたが、やがて妊娠、そして中絶。
 「でも、わたしは生きているー」。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-12-20 09:35 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

関根庸子

a0248606_9354583.jpg
 深沢七郎が桃原青二の芸名で日劇ミュージックホールに出演したのが一九五三年(昭和二十八年)、姥捨山をテーマにした『楢山節考』が中央公論新人賞第一回受賞作となったのが三年後の五六年だった。
 その三年後、一九五九年に光文社から関根庸子『私は宿命に唾をかけたい』が刊行されている。奥付には六月二十五日初版とある。
著者はミュージックホールの踊り子だ。カヴァーと帯にミュージックホールの応援団長を自任する作家の村松梢風と丸尾長顕の推薦文が寄せられており、カヴァー折込みの丸尾の一文にはつぎのようにある。
 〈ある日、美しい目を大きくはった踊子が、私にその「日記」を見せた。私は、その日記を読んで驚き彼女の才能を信じた。そのころ、私は「楢山節考」の深沢七郎を世に送り出したあとなので、この踊子を作家に育ててみる気になった。それが関根庸子である。〉
 ミュージックホールからの中央公論新人賞作家輩出という話題をそのままにしておきたくなかった商売上手の丸尾は深沢七郎を売り出すかたわら、つぎには女版深沢七郎を作ろうとした。売込み先は神吉晴夫の光文社だった。これについては当時光文社に勤め、のちに多彩な評論活動を行ったドイツ文学者種村季弘の証言がある。
 〈身体をこわして週刊誌から小説に移ったんだけど、一番接触していたのは丸尾長顕だった。彼は当時、深沢七郎を売りだしていた。日劇ミュージックホールの演出家だっただろ。それで「女性自身」で女深沢七郎を作ろうじゃないかというんで長顕さんが売り込んできたのが・・・・・・まだ現役だから名前は出さないけど、貧乏で苦労していた日劇の踊り子だったんだな。僕が単行本をまとめるというんで毎日のようになってね。〉
 種村季弘『雨の日はソファで散歩』に収める「焼け跡酒豪伝」における証言だ。初出は「彷書月刊」二00三年十二月。なおここには、当時団鬼六が丸尾の助手をしていて、なかなか演出させてもらえないからと「縛り」に転向するといった話もある。
 種村は名前は明かしていないけれどこの踊り子が関根庸子であり、編集を担当したのが『私は宿命に唾をかけたい』としてまちがいない。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-12-15 09:34 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

日比谷のミュージックホール体験記

a0248606_9565137.jpg
 日本劇場でのミュージックホール最終公演「新たなる愛の旅立ち」の千穐楽は一九八一年(昭和五十六年)一月二十六日、東京宝塚劇場に移っての新装開場記念公演「華麗なる愛のプレリュード」の初日は三月六日だった。
 ファンとしてはミュージックホールの存続に安堵したが、新装なった劇場での初公演を見て、これはすこしまずいなと感じた。舞台はあいかわらず魅力的だった。このときのトップは朱雀さぎり、そして岬マコ、大山節子、ジャンボ久世、明日香ミチとつづき、ゲストとして夏木マリが錦上花を添えていた。ところが劇場の構造がまことにまずい。幕が開く前に一般席に腰を下ろしたところ、一瞬にしてこれでは舞台全体が眺められないと見て、すぐに入場口へ戻り、差額の金を出して指定席への「お直り」を申し出た。
 新旧を問わずミュージックホールはいわゆるデベソという円形の舞台が突き出ており、それを取り巻くように座席が設けられていた。両端に行くに従い椅子の角度は舞台中央に向くようになるから、どうしても舞台全体を眺めにくくなるのはやむをえない。問題はその角度で、有楽町のときは一般席であってもゆるやかなものだったので中央の指定席でなくても全体を見渡すのにさほど不自由はしなかった。ばあいによっては正面から立ち見というテもあった。それに対し日比谷の劇場の一般席は角度が付きすぎて、たとえば舞台に向かって左に坐ると視線は舞台の右側に行ったままで全体をとらえるのに難渋してしまう。立ち見のスペースもない。手狭であり、一般席からは舞台全体をとらえにくいという構造的な欠陥があった。
 有楽町当時、一度だけ指定席に坐ったおぼえがある。何かで金回りがよかったのだろう。ところが日比谷では毎度指定席で見ざるをえなかった。劇場のつくりと余計にお金がかかるという事情からくるまずさがあった。わたしのような固定客でもこれだから、やはりこの劇場の引っ越しには無理があったと判断せざるをえない。
 くわえて日比谷という地の利のなさが客離れにつながった。ファンは劇場がどこにあろうと見に出かけるとしても、通りすがりに入場する客も多く、その点でどうしても不利にならざるをえなかった。
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-12-10 09:58 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

東京宝塚劇場小劇場小史

a0248606_102157.jpg
 日劇ミュージックホールは東京宝塚劇場にあった五階の小劇場で終焉を迎えた。その小劇場の消長を道江達夫『昭和芸能秘録』を参考にしながら見てみよう。
 東宝劇場が帝国ホテルと道ひとつへだてて華やかに開場したのは一九三四年(昭和九年)一月二日、その五階ははじめダンスホールとして設計されていた。ところが警視庁はホールの新設を許可せず、そこで社長の小林一三が劇場支配人秦豊吉に提案したのが「高尚ナル娯楽」を提供する「名人座ヲ組織シ、広ク、江湖ノ御賛翼ニヨッテ、永久ニ栄エンコトヲ祈ル」というもので、小林は関東大震災まで数寄屋橋ぎわの有楽座で催されていた「東西名人会」の再興を願ったのだった。
 ダンスホールは突貫工事で大改装され、定員五百五十名の小劇場となった。日比谷の客層の多くはサラリーマンや学生だから桟敷では抵抗があるだろうと、寄席としてははじめての全部椅子席とした。
 昭和十九年に東宝劇場が日本軍に接収され、戦後になるとこんどは米軍に接収された。接収解除となったのが昭和三十四年四月。小劇場は東宝演芸場と命名され、ここで東宝名人会が再開したのがこの年の八月一日だった。
 やがて有楽町再開発計画の余波で日劇ミュージックホールの東宝演芸場への移転が決定。「消える東宝演芸場・名人芸よりヌード」「ハナシとハダカじゃ負けますナ」「”笑売”よりヌード”ショー売”」などの見出しで報じられた。おなじ建物ではスカラ座、宝塚劇場が興行しており改装工事はすべて興業が終わってからの夜間に行われた。
 工事を前にした昭和五十五年八月一日東宝演芸場でお名ごり公演がはじまった。上席のトリは古今亭志ん朝、仲入り雷門助六。風流住吉踊り連中総勢五十七名もいた。このときレギュラー出演した三遊亭円弥の歌ったかっぽれの戯作替え歌がある。
〈高座が暗いのに白い肌がサア見えるヨイトコラサ、あれは日劇ヤレコノコレワイサノサ、ヨイトサッサッサ、ヌードじゃえ。さて、ストリップ、ストリップがサア、乗り込んで、サテヨイトコラサ、あれは東宝演芸場のヤレコノコレワイサノサ、ヨイトサッサ、乗っ取りじゃえ〉
八月末日午後七時過ぎ、有楽町、日比谷とつづいた「お笑いフィーバー」の火は消えた。道江達夫の心の中に大きな空洞があいた一日だった。
(写真は小林一三)
[PR]

by yumenonokoriga | 2012-12-05 10:03 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)