日劇ミュージックホールと朝鮮戦争

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 日劇小劇場のストリップ興行は好成績を挙げていたがこれを苦々しく見ていた人物がいた。小林一三、そう阪急、東宝グループの総帥だから日劇のオーナーでもある。いわく「俺は丸の内で女郎屋をやる気持はない」。
 その結果日劇小劇場は閉場し紆余曲折あって誕生したのが日劇ミュージックホールだった。その戦略は他のストリップ劇場との差異化すなわち高級感をアピールし競争に勝ち抜くことだった。小林は作家志望で谷崎潤一郎に弟子入りを願っていた丸尾長顕に、下手な小説を書くのはやめてミュージックホールに専心しろといったというからハダカ商売は絶対だめというのではなかったわけだ。
 日劇ダンシングチーム、越路吹雪を中心とする東宝ミュージカルが秦豊吉、演劇部門が菊田一夫、映画部門が森岩雄、藤本真澄、そうしてハダカ部門が丸尾長顕というのが当時の芸能方面における小林の人材配置だった。関西が本拠だった彼は月に一度は上京して一週間滞在するのを常としており、そのかんに勤務評定を兼ねてであろう必ずミュージックホール観劇が予定に組まれていたという。
 一九五二年の日劇ミュージックホールについで翌年には関西版のOSミュージックホールがスタートした。これについては一九五0年に起きた朝鮮戦争と関連しているとの指摘がある。演劇評論家の尾崎宏次は「国破れてハダカあり」(『文藝春秋」にみる昭和史』所収)においてミュージックホールの開場は朝鮮戦争と無縁な現象ではなく、在日米軍の兵士を客に取り込もうとする戦略があり、OSミュージックホールの発足もその一環だったと述べている。
 とすれば小林一三がストリップは追放しても外人受けする高級ヌードショーには文句をつけなかったのも理解できる。新劇場隆盛には在日駐留米軍の兵士は欠かせなかった。丸尾長顕によれば一時は観客の三分の一がアメリカ駐留軍兵士もしくはその関係者だった。
 マーケット・リサーチはしっかりされていたのだ。ストリップ追放作戦の真意は日本人にくわえ外人客をも呼び込もうとするものだった。そこで初期には観客層に照準を合わせて多数の外人ヌードを出演させた。やがて外人ヌードは売り物ではなくなり、米軍兵士中心の客層も変わったが、それを受け継いでここは欧米さらに台湾や東南アジアからの観光客が多く訪れる劇場となった。
(写真は『日劇ミュージックホールのすべて』第三景「ブロンドの淑女」より)
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by yumenonokoriga | 2013-01-30 10:11 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ヌードダンサーとファッションモデル

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 丸谷才一『たった一人の反乱』は二十世紀の六十年代から七十年代にかけての知的、精神的なものを含めての風俗を描いた記念碑的作品で、その冒頭に、二人のファッションモデルが日劇ミュージックホールのダンサーに見立てられる場面がある。一九七二年に書き下ろし作品として発表された本作が谷崎潤一郎賞というミュージックホールと浅からぬ関係のあった作家の名前を冠した賞に輝いたのも何かの因縁であろう。
 元通産官僚の馬淵英介とモデルのユカリが親しくなる。ユカリは彼女を乗せたタクシーの運転手が踊り子と推し量った、そんなたたずまいのあるモデルだ。彼女の友人でおなじくモデルのマヨも親しい男からミュージックホールからオファーがあるんじゃないかなどとからかわれている。
 やがて馬淵はユカリの部屋を訪れて・・・・・・馬淵は彼女が外出の支度をする光景を一人称で綴る。
〈低いストゥールに腰かけて化粧をする彼女の顔は、三面鏡の左の部分の裏側で視界からさえぎられている。長い脚は、はじめは見られることを意識してきちんと揃えてあったが、化粧に身がはいってくるとまず左脚が横に投げ出され、やがて右脚もストゥールのかげに隠れる〉
 化粧が済むと盛装するため別室に行き着替えをする。馬淵は衣類を脱ぐ音の一つ一つをなまなましく聞き取った。あるいはストッキングを脱ぐかすかな音まで耳にしたのは気の迷いで、つまり聴覚の足りないところを想像力が補っていたのかもしれないと疑いながらもたしかに聞いたと感じられた。そうしながら馬淵の想像力は一瞬ごとに着衣のユカリを裸体のユカリへと近づけていった。
 踊り子は脱いで見せなくてはいけないけれどモデルは着て見せるのが商売で、モデルをしている女が衣装を着けてゆくのに反して馬淵は衣装を付けない女の姿を思う。ここは一種の妖しい倒錯で、わたしにも、ヌードの踊り子が盛装すればどれほどの美しさを誇るのかしらと想像しながら舞台を眺めたおぼえがある。
 外出するはずの馬淵とユカリだったが、ふとしたことでそのまま同衾に及ぶ。作者はここまで書けばあとは読者が想像をめぐらすに如くはないと考えたのだろうベッドシーンの記述はなくあっさりと済ませている。華やかで優雅でエロティックな場面はご想像におまかせします。
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by yumenonokoriga | 2013-01-25 09:27 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

紳士は・・・がお好き

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 丸尾長顕がしばしば上せる話題に、日本の男どもはグラマー型を好む者が多いのか、それともスレンダー型や中間型かといった問題がある。日劇ミュージックホール初期のスターのうち丸尾がグラマー型として挙げるのが伊吹まりとジプシー・ローズで「やや脂肪質の、極度に曲線的で、ヴォリュームがあって、性的なエネルギーを発散している多産型の肉体」と述べいる。二人とは異なるタイプとして小川久美がいて、その中間に小浜奈々子がいるというのが丸尾の描く図式である。(『女体美』)
 もっともおなじスレンダー型といってもヌードダンサーとファッションモデルとは異なる。踊り子は脱いで見せなくてはいけないけれどモデルは着て見せるのが商売だからあたりまえの話で、そこのところについてさきごろ亡くなられた丸谷才一さんの『たった一人の反乱』に男心の琴線に触れる叙述がある。
 馬淵英介という元通産官僚で、家電メーカーに天下った四十代半ばの男が大学の同級生で、ビール会社のコマーシャル誌の編集長をしている小栗と偶然出会ったところへ、コマーシャルの仕事を終えたモデルのマヨと彼女の仲間のユカリがやってきて四人で飲みに出かけることとなる。
 酒席で冗談を言い合っているうちに編集長がマヨを「マヨ、お前また太ったようだぞ。この調子で育ってゆけば、もうすぐミュージック・ホールから声がかかる」とからかう。すると当のモデルは「いやねえ、小栗さんたら。いつも同じ冗談ばかり」と応じる。非の打ち所がないような躰つきのモデルに比較してヌードダンサーはより肉感があったほうがよい、という編集長の冗談めかした発言は多くの男が共有する感じ方であろう。
 四人の会食がお開きになって編集長はマヨを、馬淵はユカリをそれぞれ送っていくことになり、馬淵はユカリを彼女のアパートまで送り届け、もちろん到着前に電話番号を聞き出している。そのあと馬淵とタクシーの運転手のやりとり。
 「お客さん、今の女の子、なかなかきれいですね」
 「そうかい」
 「そうですよ。ちゃーんと見てるんだから。踊り子ですか?」
 ここでマヨをミュージックホールのダンサー候補に仕立てた編集長の言葉がユカリにまで及んできてミュージックホールのファン心理をくすぐる。
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by yumenonokoriga | 2013-01-20 09:17 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

雪村いづみ

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 日劇ミュージックホール開場公演「東京のイブ」には越路吹雪がゲスト出演している。以後たくさんの歌手がこの劇場の舞台に立った。ちょっと名前を拾ってみると、高英男、浜口庫之助、笈田敏夫、田谷力三、沢たまき、松尾和子、淡谷のり子、豆千代、坂本スミ子、水森亜土、三島敏夫、岸洋子、安田南、浅川マキ、新谷のり子といった錚々たる、またなつかしい名前がならんでいる。
 閉場まぎわにはトップスターの岬マコが歌手を務めていた。合理化策の一環だったのだろう。上手な歌だとしてもダンサーに歌手を兼ねさせるのはいくらなんでも気の毒というもので、振り返るとこんなところにも劇場の追いつめられた姿が表れていた。
 ところで美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘では雪村いづみがゲスト出演したことがある。しかもその芸名の由来には丸尾長顕が関係していたとの証言が音楽評論家で劇団四季の取締役の任にもあった安倍寧の著書『ショウ・ビジネスに恋して』に述べられている。
 それによれば彼女はミュージックホールのオーディションを受けたことがあり、試験官は丸尾長顕だった。昭和二十年代、まだオーディションという言葉は使われていなかったころの話だ。もちろん歌手としての採否であってヌードダンサーのそれではなかったのでしょうね。
 このときひと目で気に入った丸尾は草染いづみという芸名を用意した。なぜ草染だったか。宝塚歌劇団文芸部にいた丸尾らしい字面、言葉の響きが感じられると安倍氏は推測している。
 ただし丸尾も草染で納得したわけではなく、ある日、この件を小林一三に相談しようとしたが、間が悪く、ちょうど夜の宴席に出かけようとしていて、小林からは「今、築地の雪村で客が待っている。次回にしてくれ」とにべもない返事。ところが丸尾は「それじゃあ、その雪村という屋号をいただこうじゃないか」とここに雪村いづみが誕生した。
 雪村いづみが出演したのは劇場が開場した一九五二年(昭和二十七年)の七八月公演「サマースキャンダル」で、ここで伊吹まり、メリー松原、ヒロセ元美の三大スターがはじめて勢揃いしたのだった。
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by yumenonokoriga | 2013-01-15 12:05 | Comments(0)

『新宿の夜はキャラ色』

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 居住する区の図書館で森泉笙子『新宿の夜はキャラ色』を検索したところうまい具合に架蔵されていたのでさっそく借りてきた。「藝術家バー・カヌー」との副題があり、埴谷雄高が跋文を書いている。一九八六年九月三十日第一版第一刷、版元は三一書房。『私は宿命に唾をかけたい』の関根庸子は森泉笙子として作家再デビューしていたのだった。
 本書は副題が示しているように新宿のバー、カヌーに集った文学界、映画界の多士済々の回想を主たる内容としている。表紙には主な登場人物として田村隆一から武田泰淳まで五十人の名士がならび、日劇ミュージックホールの関係者としては丸尾長顕の名前がみえている。
 〈「ママはたしかNミュージックホールの踊り子さん出身だよね。ヌードだったの?」
 客の誰かがそう言っているのへ庸子はこの際言っておこうと思った。
 「ヌードじゃなかったのよ。ヌード群とは別に編成された七人のチームの中の一人だったの。ミュージックホールの円型のセリ台の上で、ソロもやったわ。フィリピン人のビンボー・ダナオばりのセクシーな中年のおじさんの唄い手と組まされて、その人の唄に合わせて、私が踊り、『テンプテーション』という曲だったわ。(以下略)」〉
 本書の一節だが、本コラム「カヌーというバー」の冒頭に「現役の日劇ミュージックホールのヌードダンサーが書いた自伝小説『私は宿命に唾をかけたい』。ここには著者関根庸子の「血まみれの真実」が書かれていた」と書いたけれど、筆者としてもこの箇所については「この際」訂正しておかなければならない。
 丸尾長顕については「原稿用紙の書き方も知らぬ庸子を二年間、熱心に指導し、育てた」と書いて謝意を表している。
 おなじく丸尾について、ある女性が大阪松竹少女歌劇団を退団後、新しく芸能界で身を立てようとして、父親の友人、河上丈太郎を保証人に、関西大学の教授だった河上の教え子の丸尾を頼って上京したという記述がる。ミュージックホールの演出家と社会党委員長の取り合わせがなんとはなしにほほえましい。もっとも河上は関西学院大学の教授であり、丸尾もここを卒業しているから関西大学の教授というのは著者の記憶違い。
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by yumenonokoriga | 2013-01-10 10:41 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

『欲望の迷宮』における関根庸子

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 橋本克彦『欲望の迷宮』というルポルタージュがある。手許にあるのは一九九二年十月刊の講談社文庫版。これには「新宿歌舞伎町」という副題が附いていて、正題と副題を合わせると歌舞伎町という迷宮に展開する欲望のドラマであると知れる。本書第六章「文学バーの夜ごとの宴」は著者による関根庸子へのインタビューをもとにした内容となっている。
 バー、カヌーの開店は一九五九年(昭和三十四年)、閉店は六五年(昭和四十年)、開店時、若きマダム関根庸子は二十六歳だった。カヌーを経営する前は日劇ミュージックホールのトップダンサーとあるが、これは過剰なリップサービスだろう。『theNichigeki Music Hall』の公演リストにその名前はないから、中堅スターといったところではなかったか。
 その前は朱里みさをが率いる旅の舞踊団の座員だった。敗戦後の混乱のなか家計は貧しく、自分が一家を養わなければという思いが募ったはての選択だった。ちなみに朱里みさをは七十年代はじめ「北国行きで」で大ヒットした歌手の朱里エイコの母親である。関根庸子はこの舞踊団を振り出しにやがて日劇ダンシングチームに入団、ここで十人ほどの特別チーム「ビューティーズ」が編成され、メンバーの一人としてミュージックホールへ出演した。ここまでは松永てるほのばあいと似ている。
 ライトを浴びた踊り子が週刊誌「女性自身」に連載したのが『私は宿命に唾をかけたい』だった。著者は「あれは、当時、王さまのようにミュージックホールに君臨していた丸尾長顕さんがプロデュースしてくださったんですね。その印税がカヌーの開店資金になった、というわけなんです」と語っている。
 多くの男がカヌーのマダムに言い寄った。そのなかには紀伊國屋社長田辺茂一もいる。野坂昭如もいる。けれど野坂が誘いをかけてきたときには彼女は密かに結婚し、妊娠もしていた。こうしたなか彼女が頼りとし、相談相手となってもらったのが埴谷雄高で、埴谷自身「バー時代、しばしば、私は彼女の同行者であるが、バーをやめたあとも、男の子と女の子の教育、夫君の店の拡張、父と母の入院、そしてまた、彼女の執筆に及ぶすべての相談役をつづけ」たと書いている。
 『欲望の迷宮』のインタビューがなされた時点で関根庸子は二人の大学生の母親、インタビューには埴谷雄高も顔を見せている。
ちなみに関根庸子は本名っぽい名前だが芸名との由。
(写真は『私は宿命に唾をかけたい』より)
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by yumenonokoriga | 2013-01-05 06:19 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)