五月美沙、そのデビュー

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 「先生、ぼく、来月からここに出るの」
 「ぼくでも大丈夫だろうね」
 「決まってらぁ。アンジェラ(浅丘)の次にはいけるさ」
 「うれしい!ぼく、ゆうべ眠れなかったんだ」
 滝大作「チューリップは消えた」で、五木マヤは日劇ミュージックホールに泉和助を訪ね上の会話を交わす。ここのところで五木マヤのモデルが知れる。
 自分を「ぼく」という女の子については石崎勝久『裸の女神たち』で以下のとおり記述されている。
 〈「ボクね、踊ってるのが、楽しくて楽しくて仕方がないの」
 美沙は、自分のことを、男の子のようにボクといった。それが清潔な感じで、いかにも美沙に似合った。あだなは「ボク」または「ボクちゃん」とつけられて、楽屋でも人気者の一人になった。〉
 美沙すなわち五月美沙である。
 はじめ渋谷のテアトルSSというストリップ劇場で踊っていた彼女をミュージックホールに引き抜いてきたのは橋本荘輔プロデューサーだった。ここのストリップ劇場、あそこの演芸場とスター候補を探すのに躍起になっていた橋本がとうとう見いだした童顔、可憐なヌードだった。
 引き抜きに遭ったテアトルSS側は反発し、一時はもしかすると血の雨も降るかといった不穏な事態だったという。引き抜きは橋本プロデューサーが独断で行っており責任者の丸尾長顕は外国にいて知らなかった。
 帰国した丸尾は事態収拾に走った。その結果、金銭トレードのうえ、はじめの二か月はミュージックホールが借り受け、そのあと専属にするというかたちで話がついた。
 ミュージックホールへのデビューは一九六四年(昭和三十九年)五月九日から六月二十九日にかけての「かわいい唇は嘘をつく」だった。『the Nichigeki Music Hall』公演リストではトップにアンジェラ・浅丘、次いでK.みなみと島淳子、そのあと当時十九歳だった五月美沙の名前が見えている。
 「チューリップは消えた」で滝大作は彼女が泉和助に挨拶にきたのを「記憶によれば、たしか昭和四十年の夏ではなかったろうか」としているが、記憶は一年ほどずれていたことになる。
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by yumenonokoriga | 2013-02-25 11:02 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

その後の「五木マヤ」

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 滝大作『とんぼを切りたかったコメディアン』所収「チューリップは消えた」で日劇ミュージックホールのスターダンサー、五木マヤは泉和助から「この世界に二度と戻ってくるんじゃないぞ」といわれ、「この世界に二度と戻ってきません」と涙声で誓って造り酒屋の息子に嫁した。
 二年後、「私」はその後のマヤの消息を泉和助から聞く。
 話によると、マヤの結婚生活はきわめて短期間で終わっていた。やむなく彼女はトルコ風呂(ソープランドというべきなのだろうが当時の用語を用いる)で働いているという。戻って来るななんて余計な約束をさせなきゃよかったと和助は語り、マヤのいるトルコを含め詳しいことは和太郎が知っていると付けくわえた。 そのとき泉和助の一字をもらったただ一人の弟子和太郎は和助からクビを申し渡され、すでに舞台を去っていたが私生活での接触はつづいており、和助は和太郎のアパートの地図を描いた一枚の紙を「私」に渡してくれた。
 アパートを訪ねたところ和太郎は「きのうまでここにいたんですよ!ゆうべ帰ったらいなくなっちまっていたんですよ!」と泣き伏した。和太郎の話では、マヤはヌードをやっていたことをひたかくしにしていたが、すぐに先方の両親にバレてしまい、結婚生活は一週間しか続かず、身一つで放り出され、トルコを流れあるいていたところを、ある日、客として入った和太郎が偶然見つけという。
 拝み倒すようにしてアパートへつれてきた。それから彼は芸人をやめてカネになる仕事なら危険なことでも何でもやった。すべては彼女をトルコにもどらせたくないためだった。
 泣き伏す和太郎の部屋を「見ると小さな卓袱台の上に、マヤの写真が飾られていて、この索漠とした部屋にはおよそ不似合いな表情で笑っていた。その顔は、やはりチューリップの花のように愛くるしかった」。こうして「チューリップは消えた」は結ばれる。
 作者はあとがきに、芸人たちの狡さやいい加減さ、また訊ねても答えてくれない影の部分も想像して書ける利点ゆえに「小説」として書いたという。また、実名で書くと本人や周囲の人たちの気持ちをどうしてもおもんばかってしまい、本人の実像に迫れないとも述べている。五木マヤと和太郎が仮名とされた所以である。
(写真は五木マヤのモデル五月美沙、橋本与志夫『おお!ストリップ』より)
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by yumenonokoriga | 2013-02-20 10:45 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「五木マヤ」

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 滝大作『とんぼを切りたかったコメディアン』は人情話の趣向のある芸人たちのバックステージもの短編集で、冒頭の一篇「チューリップは消えた」に五木マヤという日劇ミュージックホールのダンサーが登場する。
マヤがデビューしたてのころ「私」はこの劇場のコメディアン泉和助とその弟子の和太郎、彼女の四人でよく飲みに行ったものだった。そのマヤの姿を作者はこんなふうに描いている。
〈日本人の趣味にぴったりくる色白の中肉中背で、ヒップとバストはもぎたての水蜜のようにピンと張っている。おまけに顔はチューリップだ。これで人気が上がらないはずがない。半年も経つと、マヤはここの看板ヌードの一人になっていた。〉
 五木マヤは仮名だが、泉和助は実在であり、あとでも述べるように和助こと「和っちゃん先生」は「私」を「滝さん」と呼んでいる。こうしてこの本は作者滝大作の私小説集と解してよい。一九三三年東京生まれ。早稲田大学文学部演劇科中退。五九年NHK入局。演芸番組のディレクターを担当。八四年退局。以降は各局のバラエティ番組の構成、脚本、舞台の作・演出を務める、といったところが作者の略歴で、また大部の四冊本からなる『古川ロッパ昭和日記』はこの人の編集による貴重な労作だ。
 マヤの人気が上がるとともに「私」はまれにしか彼女に会えなくなった。人気をよろこばないわけではないけれど、宝物が人手に渡ってしまった気分は否定できなかった。そんなある日、「私」は和太郎からマヤが岐阜の造り酒屋の息子と結婚すると聞かされる。
 マヤの最後の舞台の日に楽屋を訪ねた「私」に泉和助が、マヤが、滝さんが好きって相談に来たことがあるが、身分が違うといってあきらめさせたと打ち明ける。そこへ舞台衣装のままマヤが和助に挨拶にやってくる。
 「この世界に二度と戻ってくるんじゃないぞ。さあ、復唱してみろ」と和助がいうと、マヤは涙声でやっと「この世界に二度と戻ってきません」といい終えて去って行った。
 もちろん五木マヤにはモデルがある。
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by yumenonokoriga | 2013-02-15 08:47 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

高峰秀子の見た客席

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 さきごろ亡くなられた小沢昭一氏に「浅草ストリップと私」というエッセイがあり、浅草のストリップ劇場と日劇小劇場及びミュージックホールとの雰囲気のちがいを語っている。
 たとえば浅草座では踊り子が総出で徳利と盃を持って客についで廻っていた。美人座のフィナーレは、中央部が布で巻かれた長い紐の一方を踊り子が持ち、片方を希望する客が持ってヨーイドンで客が引っ張ると、一本を除いては中央部で切られているから踊り子とはつながらない空くじで、当たりの一本を引いた客はのちほど一時間ばかりコーヒーを飲みにデートができるという趣向だった。
 日劇の客席は永井荷風やヒロセ元美が不満を漏らしていて、むずかしそうな顔をした客が多かったから観客参加のステージはやりにくかっただろうし、仮にやっても盛り上がりを欠いただろう。荷風は自作の艶笑劇「春情鳩の街」では大都劇場の、「渡鳥いつかへる」ではロック座の舞台に通行人として出演して興を添えたが、これも浅草好みゆえである。秋庭太郎『永井荷風傳』にロック座では荷風の演ずる老紳士の一挙一動に客席と舞台裏と両方から拍手の雨だったという記述が見えている。この舞台裏からの拍手がいかにも浅草らしくてほほえましい。
 浅草には日参するほど通った荷風だが、有楽町の日劇ミュージックホールには足が向かなかった。この劇場の運営に当たっていた丸尾長顕によると、荷風は上品すぎて、といって、たった一度見えたきりだったという。芝居やレビューを見るにしても「丸の内にて不快に思はるゝものも浅草に来りて無智の群集と共にこれを見れば一味の哀愁をおぼへてよし」(『断腸亭日乗』昭和十二年十一月十六日)と記した荷風であり、この感情は戦後においても引き続いていた。
 日劇の客については意外にも高峰秀子が触れていて、一九五一年(昭和二十六年)の木下恵介作品で、日本映画史上おそらくストリッパーを主人公にした映画としては初の作品である「カルメン故郷に帰る」に出演するため日劇小劇場を訪れた彼女はそのときの感想を『巴里ひとりある記』に収める徳川夢声との対談で、観客の男たちがみんなまじめな顔して見ていて、いいとこあるなと思ったと語っている。パリのキャバレーでは男たちはストリッパーといっしょに騒いでいたのに日劇の男たちはまじめに舞台を見つめていた。荷風の眼に不満に映っていた日劇小劇場の男性客が高峰秀子には「いいとこあるなあ」と見えていたのだった。
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by yumenonokoriga | 2013-02-10 12:09 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

永井荷風の見た客席

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 日劇ミュージックホールがスタートしてまだそれほど経っていない頃、劇場改装のお披露目があって、招待された吉行淳之介が足を運んだところ、エレベーターの前で顔見知りの大学助教授が飛び出してきて、肩を抱くようにして笑顔で挨拶してくれた。浅いつきあいだったからその親愛ぶりが異常に思えたが、うしろめたい気分でミュージックホールにいたときに知り合いを見つけて安堵したというのが真相だったらしい。
 吉行は『私の東京物語』で「当時、私たち小説家はおおむね無頼であって、ストリップ見物などは日常的な事柄であったが、一般市民にとってはかなりの冒険だったようだ」と振り返っている。
 一九五0年(昭和二十五年)八月号の「オール読物」誌上に「荷風先生とストリップ」という座談会が載っている。浅草のストリップ劇場の楽屋で行われたもので、荷風とヒロセ元美、ベッティ丸山、ナミジ笑、オッパイ小僧こと犬丸弓子のストリッパー諸嬢が参加して、司会は仲沢清太郎が務めている。
 ここでは日劇小劇場当時の客席の表情が語られていて、吉行淳之介の回想を裏付けるものとなっている。
 まずは荷風の観察。
 〈日劇小劇場の客は忙がしい用事の間にちょつと見るといふ人が多いね。浅草あたりはさういふのは少いと思ふな。日小の人はむづかしい顔をしたのがゐますよ。一番堅い人がゆくんぢやないかな。〉
 ついでヒロセ元美が語る。
 〈日小のお客さんは落着いて見ていない人が多いんです。用事のために途中で帰つちやふ人も多いらしいんですよ。〉
 心から楽しんでくださっていると思えばこそ一所懸命になれるのに。ブスッとした顔で見られていると踊っていてもつまらない。日本の人はあんまり固くなって見てるからやりにくい。
 いずれもストリッパー諸嬢の意見であり、ここからはストリップの舞台にどんなふうに接したらよいかとまどっている日本の男たちの姿が見えてくる。とりわけビジネス街に近い有楽町の劇場では仕事を気にしながら、固く、まじめくさった表情で見ている客が多かったようだ。
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by yumenonokoriga | 2013-02-05 12:02 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)