「新谷登」を読む

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 小林信彦『日本の喜劇人』には、日劇ミュージックホールと関わりの深かったコメディアンとしてトニー谷と泉和助の名が挙がっている。
 同書新潮文庫でトニー谷の記述は十三頁にわたる。その理由として著者は「他の人とのバランスを失してトニー谷について長く述べたのは、珍しい邪道芸人の生き方をつぶさに見てきた者として、書きとめておく義務ありと考えたからにほかならない」と述べている。いっぽう泉和助に割かれたのは二頁で「ここに書いておかないと、完全に忘れられるであろう、喜劇史の裏面の人物の一人として、その名を留めておきたい」とある。「邪道芸人」と「喜劇史の裏面の人物」というのはヌード劇場にふさわしいといえなくもない。
 小林さんは、泉和助についてギャグマンとしてミッキー・安川、E・H・エリック、岡田真澄、関敬六等の面倒をみたコメディアン兼教師だったとしたうえで、他の類書とおなじく、彼のふりつけたギャグを若手当時のの左とん平がやると、がぜん光るけれど、自分で演ずるとまるでダメという評価を下している。
 テレビ放送のはじまりとともに「そろそろ、おれみたいな基礎のあるのが、出る時代じゃないかね」とみずから期待するところもあったが「あなたは、カメラに写ると、本質的に暗いので敬遠されるのだ」とはさすがに言いかねたという。
 泉和助がミュージックホールにデビューしたときは新谷登を名乗っていた。わたしはこれを新谷登を「しんやのぼる」と読んでいた。深夜(女体へ)のぼるというわけだ。ところが滝大作『とんぼを切りたかったコメディアン』所収「殴られる男」には「あらたにのぼる」とルビが振られてあった。著者はあとがきで「私の場合、実名で書くと本人、あるいは周囲の人々の気持をどうしてもおもんばかってしまう」、そこで小説形式にしたと書いているが、小説だから「しんやのぼる」を「あらたにのぼる」としたとは考えられないので、ここは泉和助存命中には深い交わりもあった著者のルビを採らなければならない。ついでながらWikipediaにも当たってみたがここも「あらたにのぼる」だったから、どうもこれまで思い違いをしていたらしい。
それにしても新谷登のように「しんたにのぼる」「あらやのぼる」「にいやのぼる」等いろいろな読みのできる名前はおぼえてもらうに難がある。これも「喜劇史の裏面の人物」らしいところかもしれない。
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by yumenonokoriga | 2013-03-30 12:07 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

『舞台人走馬燈』

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 矢野誠一『舞台人走馬燈』(早川書房)には尾上多賀之丞、安藤鶴夫、宇野重吉からはじまって小鹿番、眞山美保、戸板康二まで七十三人の舞台人を追悼したエッセイが収められている。この点鬼簿のなかで日劇ミュージックホールの舞台に立ったのはマルセ太郎、水原まゆみ、トニー谷の三人と思われる。別格扱いとしてはこの劇場のこけら落とし公演「東京のイヴ」の主演スターだった越路吹雪とアンジェラ浅丘が師事していたと聞く日舞の吉村雄輝がいる。
 舞台に立った三人のうちマルセ太郎についてはミュージックホールとの関わりは記述されていない。
 トニー谷については一九七八年に久しぶりにミュージックホール出演した際に、あるスポーツ新聞の芸能記者にともなわれて訪問したときのことが回想されている。この年の一二月公演「新しきエロスへの誘い」にその名前はあるが五六月公演「コリーダの夜の熱い夢」にはないので、著者は楽屋を訪れたのは五月としているが記憶ちがいの可能性が強い。そのとき矢野と記者はしきたりどおり「トントン」と声をかけると「カムイン」と答がかえってきて暖簾のかけられた入口をくぐったが、入れ替わりに「私たちの姿を見てほっとした表情の踊り子」が「いろいろどうも有難うございました」と切口上の挨拶をして出て行ったという。楽屋の主が「いや、ちょっとダメを出していたの」とたずねもしないのに言いわけがましい話をしたのは無用の想像をめぐらされるのを避けたのか、あるいは妖しげな話でもしていたのか。来客にほっとした踊り子の表情が気になるところではある。
 最後に水原まゆみについては舞台で躍る姿とスナック夕雨子のママとしての彼女が回想されていて、著者には、じっさいの舞台よりも、ふだんの夕雨子のほうがずっと踊り子っぽく映ったそうだが、ここではあえて舞台の姿を止めておこう。
〈水原まゆみは少しく異色の存在であったように思う。松永てるほの美貌、アンジェラ浅丘の野性味、小浜奈々子の気品、朱雀さぎりの豪放さ、高見緋紗子の愛敬、明日香ミチの哀愁といった、踊り子それぞれ固有の持味が水原まゆみにはなにもなかった。それでいながら、どこか醒めていて、アンニュイな雰囲気をただよわせながら、やる気があるのかないのかわからない風情でつとめる舞台には、なんとも不思議な魅力があった。いったいあれはなんだったのかと、正直いまでも思わないではない。〉
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by yumenonokoriga | 2013-03-25 12:07 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

「洋酒天国」の周辺

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 壽屋(現在のサントリー)が一九五六年(昭和三十一年)四月から一九六三年一月にかけて出していた「洋酒天国」はトリスバーの常連客へのサービス誌、いまでいう広報誌のはしりだった。編集部に開高健、坂根進、柳原良平、山口瞳、山川方夫、佐々木侃司、酒井睦雄など有能な人材がつどったことでも知られる。
 最近は見かけないので、以前ときどき古書店で見つけた際に買っておかなかったのが悔やまれる。なかにしゃれたグラビアページがあり、日劇ミュージックホールのヌードも起用されていたと記憶する。
 初代の編集兼発行人は開高健だった。開高はのちに「洋酒天国」の後身「サントリークォータリー」第十八号(一九八四年七月)誌上にある吉行淳之介との対談「浅草綺譚」で「洋酒天国」がミュージックホールに着目していたことを語っている。
はじめに吉行が、浅草は大衆の街とされているが川端康成、高見順のころにはハイカラな街でもあったといえば、開高が、ペラゴロ、左翼くずれ、インテリ挫折組、青春無頼派等々、日本の近代化に抵抗して挫折した連中が全部落ち込んでくるところだった、だけどその魅力は失われたと応じる。
 〈開高 でも、ヌード、全ストをやるようになってから、浅草のモダニズムとインテリ趣味は消えちゃったな。で、次に私が移ったのが日劇ミュージックホール。これはなかなかよかったですよ。
吉行 これについては、僕はやたらに詳しい。
開高 あそこではずいぶんとヒントを得たな、雑誌編集の。当時、私は「洋酒天国」をやってましたからね。〉
 開高健がミュージックホールから得た「ヒント」の具体は不明ながら、「洋酒天国」編集を経て長年にわたり「サントリークォータリー」の編集長を務めた小玉武の『『洋酒天国』とその時代』に「『洋酒天国』には、軽妙洒脱な読物というだけではなく、ちょっと薄くて小さいけれど屈折したユーモアがあって時代への批評があるね、という読者の評価は編集部を喜ばせた」という箇所があり、ヒントのヒントを提供してくれている。
 ミュージックホールは開高健に対し、陰に陽に、有形無形に、軽妙洒脱、屈折したユーモア、ダンディズムを生むヒントをもたらしていたと思いたい。
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by yumenonokoriga | 2013-03-20 08:45 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

五月美沙、その対談

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 『陳平パンチ対談 実力人間登場』(日本文華社)という本に五月美沙と野末陳平との対談が収められている。はじめ「平凡パンチ」誌上で行われていて「ヌード商売2年半」と題された対談には昭和四十年三月の日付がある。ちなみに単行本の刊行は昭和和四十一年十一月三十日第一刷とある。
 ここで彼女は彼女は初舞台のころの心境を語っている。
 〈あたし、意外とオシがふといんですけど、初めてのときはそりゃもう足はガタガタしちゃうし、目の前が真っ暗になっちゃって・・・・・・〉
 日劇ミュージックホールのデビューは一九六四年(昭和三十九年)五月だから「ヌード商売2年半」というのはテアトルSS時代も含めての話で、この発言もテアトルSSでの体験を語ったものだろう。そして、それがいまでは「知りあいの方がどこで見てるか、だいたいわかります」と述べている。
 そのファンについて「あたしのファンは、学生さんとか普通のサラリーマン、学校の先生なんてのが多いんです」と語っていて、野末陳平は「インテリ殺しのミサだね」と応じている。
 さらに彼女は創価学会の信者であり、両親が学会員で彼女も小学校六年生のとき入信したという。「むずかしいことはわからないけど、人間にはだれしも人にいえない悩みがありますね。そういうときにくじけそうになるでしょう、そのときご本尊さまにたよれば、精神的に違ってくるわけです。べつに事態がかわるわけじゃないんですけど」というのが彼女の説く効用である。
 ここでの野末陳平の発言に「この楽屋には学界のヒトが七人いるって話だけど」とあるようにミュージックホールには創価学会の信者がたくさんいたという。何らかの社会的事情があるのか、たんなる偶然かは知らないが、その代表が小浜奈々子で「あなたの望みは?」と訊ねられて「一人でも多くの創価学会の信者になるように折伏したいことです」と答えていた。
 失踪して行方知れずになった彼女に宗教が精神上の平安をもたらしてくれているよう願っておきたい。
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by yumenonokoriga | 2013-03-15 11:59 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

五月美沙、その失踪

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 五月美沙が日劇ミュージックホールに復帰したのは一九七一年(昭和四十六年)十月末からの「女は黙ってガンバラなくっちゃ」の舞台だった。そうして彼女は昭和四十八年十一月一日からの「白い肌に赤い花が散った」のあと誰にも行方を告げずに去ってしまった。九年後に刊行された『裸の女神たち』に石崎勝久は「彼女の消息は、いま関係者の誰も知らない」と書いた。
 かつて彼女をテアトルSSから引き抜いたのはこの劇場のプロデューサー橋本荘輔だった。橋本は彼女のカムバックにも尽力した。その五月美沙の失踪は彼に衝撃をもたらした。もともとの酒好きがさらに昂じて健康を損ねるまでを飲み続け、失踪の翌昭和四十九年肝炎により三十代の若さで不帰の客となった。
 滝大作「消えたチューリップ」で結婚が破綻しトルコではたらいていた五木マヤを連れ帰ったのは泉和助の弟子の和太郎とされていた。本コラムの筆者はこの和太郎のモデルを特定できない。どなたか御教示いただければありがたい。それとは別にひょっとしてこの和太郎にはこの橋本荘輔プロデューサーの姿が投影されているのかもしれないと想像する。五月美沙が失踪してからの橋本の人生がそんなふうに思わせる。
 想像ついでにもうひとつ。泉和助が亡くなったのは昭和四十五年、享年五十歳だった。滝大作の小説にある結婚を控えた五月美沙が泉和助に「この世界に二度と戻ってきません」と誓ったシーンがフィクションでないとすれば、その死が彼女のカムバックになんらかの影響を与えているのかもしれない。和助の死は結果的に五月美沙のカムバックの重石を取り除いたわけで、もし泉和助が存命だったなら彼女のミュージックホール復帰はなかったかもしれない。
わたしは五月美沙が復帰を飾った「女は黙ってガンバラなくっちゃ」と最後の舞台となった「白い肌に赤い花が散った」をともに見ていて、ほかにも何度かその姿に接した。スタイルのいい身体にちょこんと愛らしい顔がのっかっているようなその姿態はいまも思い浮かぶ。せめて出演した映画で再会できたらよいのになとひそかに期待しているけれどいまだに叶えられない。『陳平パンチ対談 実力人間登場』という本の彼女の紹介欄には「楽園をもとめて」(イタリア映画との由)「紅閨夢」などの映画に出演とある。
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by yumenonokoriga | 2013-03-10 11:27 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

五月美沙、その結婚

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石崎勝久は『裸の女神たち』で五月美沙について次のようにしるしている。
〈彼女は、ミュージックに「五月美沙時代」をつくる人気を得ている最中に実業家と結婚して舞台を去り、離婚してカムバックし、そしていつの間にかまた舞台を去って行った。彼女の消息は、いま関係者の誰も知らない。〉
 本書の刊行は一九八二年(昭和五十七年)だから日劇ミュージックホールは開場して三十年、まだ健在である。そのときにはや彼女の行方は関係者の誰も知るところではなくなっていた。
 ここで石崎は五月美沙の結婚相手を実業家としている。滝大作「チューリップは消えた」では岐阜の造り酒屋の息子になっている。べつに矛盾するものではないが、念のため『the Nichigeki Music Hall』を開いてみたところ記述はあったけれど執筆しているのが石崎勝久なのでやはり実業家としてあった。
 滝大作と石崎勝久が語る彼女の結婚生活の様相はだいぶん異なっている。石崎によれば彼女は昭和四十一年に結婚して青山のマンションで幸せな生活を送っていたが、昭和四十六年に夫の事業の失敗が原因で離婚しミュージックホールに復帰している。カムバックの直前、彼女は涙をこぼしながら石崎に「私は、離婚なんかしたくなかったの。でも夫はもうお前に贅沢をさせてやれなくなったから別れるといったの。困ったときに助けあってこそ夫婦なのに。あの人にとっては、私はたんなる可愛い人形さんだったんだわ」と語ったという。
 いっぽう滝大作の「チューリップは消えた」では五月美沙の結婚生活は一週間で破綻し、すぐに離婚してトルコを流れ歩いたとある。
 トルコうんぬんの話は『裸の女神たち』にも出ているが、離婚後ではなくて昭和四十六年にカムバックした彼女が四十八年暮れの公演を終えて、再度行方知れずになってからの、誰も確かめた者のいない無責任な噂話として語られている。
 どちらが事実に近いかを問えば、石崎は体験をもとに書いているぶんより事実が多く語られているのではないかと思うものの、彼にはミュージックホール礼賛の意図があり、そのために滝のいう「影の部分」にはできるだけ触れないように配慮を加えているようにも思える。その点で、滝大作の小説は、事実の成分の度合としては不利だが、石崎が書き得なかった「影の部分」が吐露されている可能性がある。
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by yumenonokoriga | 2013-03-05 11:09 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)