ヒロセ元美のラブレター

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 他人のラブレターを読むことはめったにないが、作家によっては没後に編まれた書簡集や全集にその種の手紙が収められている。
 〈ふさ子さん!ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。どうか、大切にして、無理してはいけないとおもひます。玉を大切にするやうにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか。○写真も昨夕とつて来ました。とりどりに美しくてただうれしくてそはそはしてゐます。〉
 これは一九三六年(昭和十一年)十一月、当時五十代なかばだった斎藤茂吉が「アララギ」に属して短歌の指導を受けていた二十八歳下の弟子、永井ふさ子(本名フサ)に宛てた日本恋文史上屈指の名篇だ。このころ茂吉はスキャンダルの渦中にあった。ダンスホールの男教師がジゴロとして風俗壊乱、不行跡の廉で検挙され、それに関連して茂吉の妻てる子や吉井勇夫人徳子が事情聴取を受けた。茂吉は離婚こそしなかったものの夫婦関係には亀裂が入った。茂吉夫人はもともと男性遍歴多いモダンガール、そこへあらわれたのがふさ子だった。
 作家の書簡はともかく、ふつうプライベートな写真や手紙が表に流出するばあいはしばしばスキャンダルがともなう。シャーロック・ホームズの「ボヘミアの醜聞」で、ホームズは、ボヘミア国王が皇太子時代に恋仲だったワルシャワ帝室オペラのプリマドンナと撮った写真の流出を阻止するよう依頼を受けていた。写真がかつての恋人の手許にあるぶんには安全だが、いったん誰かの手に渡ると政治問題やスキャンダルを生みやすい。
 事情はやんごとない方面ばかりではない。日劇ミュージックホールでもヒロセ元美のある男性ダンサーに宛てたラブレターが伝説となっていた。丸尾長顕によればたいへんな珍品で、自分の肉体の構造がいかに男性をよろこばせるものであるかを説いて、彼の愛を求めたものという。辟易した男が伊吹まりに見せて相談して話は劇場中にひろがり、さらに彼と伊吹が恋仲になるというおまけがついた。この年の契約が終わるとヒロセはミュージックホールを去った。
 蛇足ながらラブレターの要諦は、上の斎藤茂吉先生のように、相手を讃え、自分がどれほど思っているかをわかってもらうことにある。自分の肉体の構造を誇らしげに語ったヒロセ元美のラブレターはこの逆をゆくものだった。
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by yumenonokoriga | 2013-05-30 09:31 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

感謝とともに

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 おかげさまでコラム「夢の残り香」は今回で百回目を迎えました。ご愛読、ご支援にあらためて感謝申し上げます。手許の資料を眺めていますといますこし続けられそうです。これからもよろしくお願い申し上げます。その資料について今回はひごろ執筆にあたりお世話になっている基本的な文献について感謝を捧げながら紹介してみようと思います。
 日劇ミュージックホールの基本文献あるいは正史として挙げられるのは丸尾長顕編『日劇ミュージック・ホールのすべて』と『the Nichigeki Music Hall』で、一九六四年美研出版刊の前者は時代を感じさせるモノクロの、一九八二年東宝出版室刊の後者はカラーの舞台写真を用いながら劇場のあゆみを綴っていて、日本のショウビジネスの歴史の一端を伝えてくれています。
 阪急グループの総帥である小林一三に見込まれ、「清く正しく美しく」から「清く正しく色っぽく」をめざし、長く劇場運営にあたった丸尾長顕にはほかに『女体美』(五月書房一九五九年)や『回想 小林一三』(山猫書房一九八一年)などがあり、劇場の初期のあゆみを調べるのに欠かせません。丸尾は、ミュージックホールはストリップではない、ヌードだと主張して他の劇場との差異化を図りましたが、丸尾のいうところのヌードを含むストリップの時代を描いた名著に橋本与志夫『おお!ストリップ』(スポーツニッポン新聞社出版局一九七五年)と『ヌードさん』(筑摩書房一九九五年)があります。残念ながら両著とも昭和二十年代が中心で三十年代以降のミュージックホールの記述は弱いのですが、そこを埋めてくれるのが石崎勝久『裸の女神たち 日劇ミュージックホール物語』(吐夢書房、一九八二年)で、有楽町の日劇が取り壊されるまでを描いています。
 劇場関係者の手になる著書ではほかに岡田恵吉『女のシリ・シンフォニー』(学風書院一九五八年)があります。著者はミュージックホールの演出家で、第一回公演「東京のイヴ」の構成・演出もこの人が担当しました。丸尾長顕が本書の帯に「岡田君ほど、このけんらんたる女の世界の事情に通じている人は、日本にはいない」と推薦し、ご本人も「僕は戦後約十年間ほとんど、裸の女の子のお相手をしてして暮らしてきた」と語っているうらやましい方の著書だけあって、ハダカを美しく見せるための専門書の趣があります。いずれも絶版ですが、古書店で見かけたときなどぜひ手にとってみてください。
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by yumenonokoriga | 2013-05-25 09:56 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

古書店めぐり

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 本コラム「夢の残り香」の通奏低音は「物一たび去れば、かへることなし。かへらぬものはなつかしからずや」(永井荷風「偏奇館吟草」)といったところか。前向きがもてはやされる世の中であるが後ろを向かないと日劇ミュージックホールの面影はなく、残り香も匂うことはない。そこで折りを見ては古書店へ行き夢の破片などないものかしらと探す。後ろ向きの人間には失われたもの、懐かしいものを拾い集めるよろこびがある。
 二十年ほど前に神保町の某古書店で丸尾長顕編『日劇ミュージック・ホールのすべて』を見かけたときは書名のみ知る本をはじめて目の当たりにしていささか興奮気味となった。一九六四年(昭和三十九年)に美研出版から刊行されていて、そのときの値段は三百六十円。新書版よりやや横に広く表紙カバー以外はすべてモノクロ写真で、当時は小浜奈奈子、アンジェラ浅丘がトップスターの時期だから二人の舞台写真を中心に編集されている。おそるおそる古書価格を見ると四千八百円。
 古書店で掘り出し物を見つけたときはうれしい。まして値が安ければ文句なし。たとえ掘り出し物ではあってもまったく手が出ない値段ならあきらめはつく。四千八百円は一流の投手がコーナーぎりぎりのところを衝いてきたような値付けと思われた。もちろんわたしは財布に手をやった。  
 そのすこしあとでおなじ古書店のショウウインドウに淀川長治編集長時代の「スタア」や『エイゼンシュテイン全集』などとともに初期の日劇ミュージックホールのパンフレット十数冊が六万五千円で置かれていた。古書趣味は値打ちのあるものを安く買ってこそ満足が得られるのだ、金にまかせてめぼしいものを漁るなんてわが流儀にあらず、バブル期の日本企業の土地買占めを連想させて下品であると口惜しさにまぎらせて店をあとにしたけれど、ひと月ほどして立ち寄ってみると既に売れてしまっていて、後悔の念はなかったといえば嘘になるが、それよりも世のなかにはたいへんなマニアがいるんだなあと感嘆久しうした。
 六万五千円はいくら貧書生の当方であってもなんともならない金額ではないから、二度とお目にかかれるかどうかわからないパンフレットのために用意しなかったのはマニアとしての熱心さに欠けているといわれてもしかたがない。よくいえば狂気にはまってはいないということになろうが、趣味人の尺度では失格の烙印を押されそうなわが志の低さではある。
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by yumenonokoriga | 2013-05-20 09:34 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

NMHパンフレット綺譚

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 フランス文学者で古書マニアとしても知られる鹿島茂は『子供より古書が大事と思いたい』で「財政的にはもう一冊も買えないどころか、すべての本を売り払いでもしないかぎり現在の借金地獄から抜け出せそうもない」なかであってなおフランスの古書店からカタログが届くとファックスのボタンに手が伸びるし、古書蒐集のために銀行に借金を申し込んでいると書いている。古書にかぎらず蒐集という行為には人をして狂気と中毒症状に陥らせる魔性がある。
 日劇ミュージックホールのパンフレットは新たなものが世に出ることはないし復刻もほぼ絶望的である。ないとなれば欲しくなるのが人情、そこで・・・・・・と思っても、もともと多数出ているものではないうえ愛好家は収蔵して容易には手離さないから古書市場には出回りにくい。
 ファンがせっせと劇場に足を運び、舞台の美女たちに酔い、見てのあとに人目につかぬよう持ち帰った門外不出、秘蔵のパンフレットを数十冊も抱いて古書店に売りに来るなんて光景は想像しにくい。そのばあいは持主によほどの人生観の変化、転換があったときだろうが、ふつうにはこの種の回心とか宗教的体験は頻繁にはないから出回るとなれば秘蔵家の死去がまずは考えられる。
 以下は古書店主の随想を集めた高橋輝次編『古本屋の自画像』の一編で、東京は古書いとうの伊藤照久さんの「チリ紙交換奇談」にある話。
 朴訥で古本屋と駆け引きしたりするのが苦手なチリ紙交換業のAさんがある日紳士服の誂の箱を十箱ほど伊藤氏のところへ持ち込んで来て、自室にしまっておいたものだが処分したいのであげるという。見れば「りべらる」「デカメロン」などのカストリ雑誌、別の箱には仙花紙の『バルカン戦争』『ファニー・ヒル』などの春本、さらに別の箱にはジプシー・ローズ、奈良あけみ、ヒロセ元美、小浜奈々子、アンジェラ浅丘などが出演していた日劇ミュージックホール全盛の頃のパンフや浅草カジノ座のパンフがつまっている。きわめつけは色鮮やかに摺られた枕絵数十枚。
 よく古新聞を出してくれる奥さんの亡くなった父親の蒐集品で、ものがものだけに棄てられず納屋の奥にしまっておいたのだが子供が出入りするたびになんとかしなければと思っていた奥さんは意を決してAさんに引き取ってもらったという。死蔵されるより新しい愛好家へ届くほうがコレクションにとっても亡き蒐集家にとっても幸せなのだ。奥さんに感謝申し上げよう。  
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by yumenonokoriga | 2013-05-15 08:55 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

「りべらるショー」

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 日本のストリップショーは名画を模した額縁のなかにヌードの女性がはいる「額縁ショー」にはじまるとされている。一九四七年(昭和二十二年)一月十五日、新宿帝都座五階の劇場で行われたショーの額縁に入ったのは甲斐三和という十九歳のダンサーだった。
 いっぽう日劇小劇場で、はだかが注目を浴びたのは同年三月の東京レビューの公演だった。ベリーダンスの鈴木好子やアクロバットをまじえた踊りのエミー白川がエロティックで話題を呼んだ。鈴木好子のベリーダンスは、ヘソを出して踊りながらつぎつぎに衣装を脱いでゆき、最後には股間と胸を覆っただけの姿になって暗転というもので、ヘソの露出だけでも大きな刺激だったというから額縁ショーとともに時代を感じさせる。
 東京レビューは堺俊二(堺正章の父君)、玉島精二、滝沢ノボル、華村明子、桜むつ子、錦ルミ、鈴木好子らのグループに新たに菅富士男(須賀富士男)、波多美喜子、丹下キヨ子らが加わって誕生した劇団で、日劇小劇場での演し物は「りべらるショー『院長さんは恋がお好き』」だった。のちにしばしば小津映画に出演した桜むつ子と須賀富士男が目を引く。桜むつ子は永井荷風のお気に入りの女優だった。
 戦後の混乱期を象徴する出版物として性風俗を売り物とするカストリ雑誌がある。粗悪な用紙に印刷された安価な雑誌で、エロとグロの記事が紙面を飾った。
「りべらる」「別冊モダン日本」(吉行淳之介はこの雑誌の編集者だった)「夫婦生活」「千一夜」「猟奇」「ロマンス」「裏窓」などが有名で、なかでも昭和二十年十二月に発売された「りべらる」創刊号は二十万部を売り上げ、これに触発されて雑誌創刊が相次いだといわれる。そこで「りべらるショー」と銘打てばそれだけで妖しい雰囲気が漂ったのである。
 こうして日劇小劇場ははだかが見られる劇場として話題を集めた。ただしそうなればつぎには衣装付きのレビュー(普通ショーと名付けられていた)では観客は満足しなくなり、はだかレビューつまりストリップでないと客が呼べなくなり、軽演劇集団は苦境に追い込まれた。東京レビューの公演ははだかで話題を集めたものの、それがかえって仇となり自身の首を絞める結果となった。
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by yumenonokoriga | 2013-05-10 08:49 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

パン猪狩

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 コメディアンの出世の階梯といえば浅草から丸の内がその代表格だった。戦前から日本劇場が健在だったころまでは。そうして映画やテレビに進出した。榎本健一、古川緑波、渥美清、コント55号いずれもこのコースをあゆんでいる。
 そんななかパン猪狩(一九一六年~一九八六年)はこの道を拒否した稀有な存在だった。この人をモデル(作中ではポン碇)にした滝大作「ライムライト」(『トンボを切りたかったコメディアン』所収)にはこんなふうに記されている。
 〈戦後、ボードビリアンとして、東宝系の日劇、日劇ミュージックホールなどを舞台に一気に浮上する。これは記録にはっきり残っている。当時売り出しのトニー谷と看板を競っていたと記されているくらいだから、その勢いが想像される。
 そのまま東宝系の舞台をつづけていたら、森繁久弥みたいな巨大な存在になっていたか、堅実な脇役コメディアンの道を歩いていたかそのどちらかだっただろう。だが、結局のところポン碇は森繁にも堅実な脇役コメディアンにもならなかった。ある日突然東宝系の舞台を捨ててストリップ劇場に鞍替えしてしまう。〉
 小説ではこの点についてポン碇がギャラの問題もあったが「もともとおれは晴れがましいところが苦手なんだよ。だから、おれにはストリップの舞台の方が合ってるって思ってたんだ。やっぱりその勘は当たりでさ。自分が納得いく芸ができるようになったのはストリップへ行ってからだもんね」と語っている。人には自分をみがく場としてのフランチャイズがあり、それは世間の評価、物差しとは一致するとは限らないということだろう。東宝を去ったのは一九六三年(昭和三十八年)東京オリンピックの前の年だった。
 滝大作による聞き書きをもとにした『パン猪狩の裏街道中膝栗毛』にはパン・スポーツショー、ミュージックホール時代の名作コント「乱笑門」、パントマイム「切腹」、晩年の芸術祭参加のボードビルショーなどが紹介されていて、そのステージに接したことのない筆者にとってはそれらをせめてものよすがとするほかない。早野凡平といえばわたしには懐かしい芸人だけれど、大当たりをとったホンジャマの帽子の芸はパン猪狩が弟子の凡平に五百円で売ったという有名な逸話がある。
 めざすところはチャップリンではなくモーリス・シュバリエだったそうだ。
(写真はパン猪狩とトニー谷)
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by yumenonokoriga | 2013-05-05 08:32 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)