根津清太郎

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 関東大震災のあと関西に移住した谷崎潤一郎が船場の大店、根津商店の若夫人根津松子を知ったのは一九二七年(昭和二年)のことだった。その三年後谷崎は最初の妻千代を佐藤春夫に譲り、翌年古川丁未子と再婚するが、松子との関係が深くなるとともに丁未子と別居し、やがて松子と同居するにいたった。
 一九三五年潤一郎は、夫根津清太郎と離婚し森田姓に戻った松子と結婚した。谷崎はその居宅を「倚松庵」と名付けたが、そこには松に倚るという妻への崇拝の思いが表されている。
 松子の前夫根津清太郎は船場の有名な綿布問屋根津商店の御曹司であり、夫妻は一男一女をもうけたものの清太郎の素行は悪く遊蕩にふけり、やがて家産を傾け、離婚のあとその生活はさらに零落していった。
 ある年の京都の顔見世で谷崎と松子が南座に入るのを見届けて「森田松子様、森田松子様、根津清太郎様がお待ちです」とアナウンスさせたという逸話が残っている。戦時中には北海道で事業に手を出したこともあったそうだが経営者としての訓練は受けていない彼には無理な話だった。
 戦後の清太郎については丸尾長顕『回想 小林一三』に詳しい。
 みじかい期間ながら丸尾長顕に拾われて日劇ミュージックホールではたらいている。ジプシー・ローズがミュージックホール入りしたころというから昭和二十年代末だっただろう、丸尾長顕のところへ、自分はいま藤沢に住んでいるが金を落としたので借してほしいとやって来たことがあり、丸尾は根津に千円渡したという。もとより電車賃云々は嘘で、それほどに追いつめられていた。丸尾は谷崎松子とは遠い親戚で、また幼なじみでもあった関係から清太郎とも面識があった。
 まもなく清太郎は鎌倉の丸尾長顕の自宅を訪ね、玄関から通るような身分ではないからと断ったうえで、小樽へ出て造船業をやり、それも失敗し、いまはなすすべもなく生きているばかり、職を失い、家も財産もなく、藤沢でおふじさんという女性と同棲しているという当時の身の上を打ち明け、そうして懇願したのである。
 「お助けを願います。何でもいい、仕事をさせて下さい。ミュージックホールの掃除番でも結構でございます」と。
(写真は谷崎松子)
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by yumenonokoriga | 2013-06-30 09:20 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

落合登

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 作家の東理夫氏の父君は外国系通信社で働いていて、そのオフィスはいまのマリオンの場所に建つ新聞社の八階にあった。つまり日劇と隣り合う朝日新聞社ビル内に置かれていた。のちの作家は中学生だったころ、ときどき父親の忘れ物や何かを届けにこのオフィスへ来ていて、その際には日劇ミュージックホールへの階段の前を通って行くのをお定まりのコースにしていた。一九四一年(昭和十六年)の生まれだから五十年代のなかばにあたる。
〈そこには巨大な絵看板があって、半裸の女性たちが婉然とポーズをとっているそれを見る時は、いつも胸がドキドキしたものだった。あれはジプシー・ローズだったか、メリー・松原だったか・・・・・・今も目をつぶると、妖艶な彼女たちの笑顔が浮かんでくる。〉
 当時の思い出がしるされたこの一文(「週刊文春」平成十二年二月十七日号)は荒俣宏『万博とストリップ』(集英社新書)の書評として書かれたもので、その荒俣本には「日劇ミュージックホールといえば外国人旅行者にも人気があった有楽町の名劇場で、ストリップとはいわず『ヌードダンス』の殿堂ともいわれた。オチアイ・ノボルという画家の描いたアメリカン・ピンナップ調のパンフレット類も、いま見ればたしかに新鮮なおどろきを与えてくれる」とある。
 オチアイ・ノボルについては、画・落合登、文・西川清之『絵本・落語長屋』に安藤鶴夫が寄せた序文にこうある。
〈明治44年の秋、いまの港区本芝に生れているから、れッきとした明治の東京ッ子である。昭和2年に、〈光風会〉に入選している。まったくの独学である。それから、松竹洋画部に入って、12年にPCL、それがそのまま、ひきつづいて東宝となり、本社・美術課課長をしながら、宣伝プロデューサーを勤めて、さて、いまはフリーの御家人となられたからこそ、こんな、たのしい絵本も描けたのである〉。
 本書は一九六七年青蛙房の刊行だが落合登はこの翌年昭和四十三年に亡くなっている。ミュージックホールに関係した画家では小野佐世男が有名だが、落合登もパンフレット類だけではなくて絵看板も描いていたかもしれない。とすれば中学生の東理夫の胸をドキドキさせた絵看板のなかにはこの人の作品も含まれていたということになる。
(写真、パンフレットの表紙にはNoboru Ochiaiの署名がある)
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by yumenonokoriga | 2013-06-25 11:50 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

関根庸子をめぐる訂正ひとつ

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 昨年二0一二年十二月十五日付「関根庸子」からことし一月十日付「『新宿の夜はキャラ色』」まで六回にわたり、本コラムでは関根庸子、現、森泉笙子さんとその著書や経営されていたバー、カヌーについて採りあげました。思いもよらずそれらの記事がいま作家をされている森泉さんの目に止まり、おたよりとともに著書(写真)をいただき、またお会いしてお話をうかがいました。
 ところで一連の記事のなかでわたしは彼女の日劇出演の事情について「朱里みさをが率いる旅の舞踊団の座員だった。敗戦後の混乱のなか家計は貧しく、自分が一家を養わなければという思いが募ったはての選択だった。(中略)関根庸子はこの舞踊団を振り出しにやがて日劇ダンシングチームに入団、ここで十人ほどの特別チーム『ビューティーズ』が編成され、メンバーの一人としてミュージックホールへ出演した」と書きました。(「『欲望の迷宮』における関根庸子」)
 典拠としたのは橋本克彦『欲望の迷宮』でした。
 ところが森泉さんによるとこの記述は訂正しなくてはいけないと考えているうちにいまに至ったそうです。せっかくお話をうかがったものですから、ここに正確を期しておきたいと思います。
 上の拙文にある「日劇ダンシングチームに入団」とあるのは正しくはオーディションを受けて出演したとのことです。オーディションには、唄って踊る女性の三人チームとして臨んだところ、結果として踊りを専門とする関根庸子だけが採用され、二人の歌い手は合格しなかった。それを承けて彼女は単独で日劇の舞台に立った。つまり日劇ダンシングチーム入団ではなく、オーディションで出演が叶ったというのがその次第です。
 森泉さんとお会いした際には関根庸子時代の楽屋での写真やミュージックホールに出演したときのパンフレットなどを見せていただき、とてもファンタスティックなひとときとなりました。
 先日「ニューヨーク・タイムズ」で人気ファッション・コラムと社交コラムを長年担当してきた名物カメラマン、ビル・カニンガムを追ったドキュメンタリー映画「ビル・カニンガム&ニューヨーク」を観ました。そのなかで誰かがビル・カニンガムが撮りたいのは「年齢を重ねてもスタイリッシュでありつづける女性なのよ」と語っていました。そのときわたしは森泉さんのことを思い浮かべていました。
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by yumenonokoriga | 2013-06-20 08:57 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(1)

公演リスト

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 寺田寅彦が一九三0年(昭和五年)十一月の「渋柿」に寄せた短文のなかで、新宿の武蔵野館で観た「トルクシブ」というソビエト映画について、スクリーンの中央アジアの広い野を行くおびただしい数の綿羊の群れと現実の新宿のたいへんな混雑とが二重写しになったといった感想を述べている。。ありがたいことに武蔵野館については新宿歴史博物館『キネマの楽しみ~ 新宿武蔵野館の黄金時代~』に大正九年から昭和十年までの上映記録が収められている。
 そこで寺田寅彦の記述を確認するために本書を開くと昭和五年十月八日から十四日にかけて上映されていて、ヴィクトル・トウリン監督、トウルクシブとシベリアをつなぐ鉄道工事の記録映画、一九二九年製作と説明がある。
 日劇ミュージックホールについては『theNichigeki Music Hall』に昭和二十七年三月の開場公演「東京のイヴ」から昭和五十七年三、四月公演「エロティカルグラフィティ」までの三十年にわたる公演記録が掲載されている。
 〈私にとって、ダニー・ケイの「虹を掴む男」を初めて観たのは日劇、春川ますみやトニー谷を見たのは日劇ミュージックホールだった。これは信じられないかも知れないが、初老の田谷力三(往年の浅草オペラの大スター)が「恋はやさし 野辺の花よ」を歌ったのも日劇ミュージックホールだった。和製グルーチョ・マルクスの永田キングを見たのもここだ。〉
 先日読んだ小林信彦『私の東京地図』(筑摩書房)の日比谷・有楽町の章に上の一節があった。公演記録によると田谷力三は昭和三十一年十一、十二月の「三つの饗宴」と昭和四十九年三、四月の「春に舞う妖精たち」にゲスト出演しているのが知れる。ヌードは前者ではトップの伊吹まり代にメリー松原、奈良あけみ、ジプシーローズ、春川ますみが、後者では松永てるほがトップで舞悦子、浅茅けい子、水原まゆみ、岬マコ、高見緋紗子がつづく。著者が言っているのは「三つの饗宴」のほうだろう。
 こうして記録はとても重宝だし、貴重な資料である。残念ながら『theNichigeki Music Hall』以後、つまり昭和五十七年五、六月公演から閉場する昭和五十九年三月までの記録はない。劇場を設置運営した東宝が社史編纂する折りにはぜひこの欠落を補ってほしいものだ。できれば日劇小劇場の記録とともに。
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by yumenonokoriga | 2013-06-15 08:44 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「夜」の映画たち

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 「ヨーロッパの夜」「世界の夜」「アメリカの夜」・・・・・・一九六0年代はじめにブームとなった「夜」もののポスターには「陶酔と興奮!いながらにして味わう世界のデラックス・ショウ」「絢爛!陶酔!北・南米都市の夜を彩るデラックス・ショウ」「いながらにして楽しめる世界の歓楽境!ただようデラックス・ムード」といったふうに同工異曲の宣伝文句が書き込まれている。
 テレビが本格的に普及しつつあるころだから、「夜」の映画たちはお色気で客を呼ぶ映画界の苦肉の策だったろう。しかし小学生にそんな事情はわからない。ポスターから美女たちが舞うスクリーンの光景を想像した。大人たちの興奮を少年は想像のなかで味わっていた。
 手元にあるポスターコレクションには「夜」シリーズのポスターが何枚か収録されていて、見ていると甘酸っぱく、ほろ苦い気持になる。こうしてときどきはポスターに接しても「夜」の映画のいずれもいまなお未見のままだ。DVDになっているかどうかも知らない。ソフト化されていれば観てみたい気持はあるが、そのいっぽうで、かつて抱いた夢が失望に変わるかもしれないといった恐れもある。  
 戦前のドイツのミュージカル映画「狂乱のモンテカルロ」のなかで巡洋艦からモンテカルロに上陸した艦長のハンス・アルバースと少尉のハインツ・リューマンの二人が「世界一の美女と遊ぶのさ 金髪がいい黒髪がいい 細身がいい太めもいい」と男の悩ましい夢を歌う。「夜」の映画たちはこんな思いを抱いたままそっとしておいたほうがよいのかもしれない。
 すべての男に森鴎外『ヰタ・セクスアリス』の「金井君」のような体験があるのかどうかはわからないが、わたしのばあいそれは「世界の夜」とともにあった。
 一九六九年(昭和四十四年)の春、地方から上京した大学生の目に有楽町の巨大な円筒形をした建物が目に入った。そう、日本劇場である。当時はまだ日劇ダンシングチームのレビュー公演が健在で正面にはその看板がかけられていたが、わたしの視線はもっぱら建物横手に入口を構えた小劇場、日劇ミュージックホールに向かっていた。そのとき「世界の夜」の記憶が甦り、あそこにいたとおなじ美しいダンサーたちがここにいると実感した。
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by yumenonokoriga | 2013-06-10 09:27 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

わたしの「金井君」体験

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 森鴎外『ヰタ・セクスアリス』に哲学者「金井君」が浮世絵を通して性にめざめたエピソードがある。六歳のとき近所の小原という四十ばかりの後家さんの家に行くと、どこかの知らない娘といっしょに綺麗な彩色の絵本らしきものを見ていて、「金井君」も覗いてみたが人物の姿勢がとても複雑で何を描いているのかそのときはさっぱりわからなかった。それから「金井君」は十歳のとき何の気なしに自宅の鎧櫃を開けたところそこにかつて小原のおばさんに見せられたとおなじ種類の男と女が異様な姿勢をしている絵があり、彼は「兼て知りたく思った秘密はこれだ」と思ったのだった。
 わたしがウォルト・ディズニー製作の「フラバァ」を観たのは一九六一年(昭和三十六年)十一歳の夏だった。フレッド・マクマレィ扮する化学の先生がフラバァなる超弾力性物質を発見し、これをいろんなところで使ってのてんやわんやの爆笑劇で、長身ぞろいのバスケットボールのチームを相手にした弱小チームがフラバァを用いて逆転勝利するシーンはよく知られている。
 この映画を忘れがたくさせているのに映画館を出たとたん耳に飛び込んできた中年のおじさん二人連れの会話がある。「きょうはなかなかいいショーを見たなあ」と一人が言えば、もう一人が「うん」とかなんとか相槌を打った。ショーが歌謡ショーなんかではないとどうしてわかったのかは不明だが、この一瞬少年の胸を大きな衝撃が襲った。そして「フラバァ」のすぐ近くの映画館に目を遣ると、そこには宝石をちりばめた綺麗なブラジャーとパンティだけを付けた背のすらりとしたブロンド美人の看板があった。上映しているのは「世界の夜」という映画だった。
 中年男たちの会話で胸がドキンとし、看板を見て頭に血が上り、心臓は大きな鼓動を打った。見てはいけないと思いながら身体は看板の前で止まった。ダンサーの白い裸身、ハイヒールを履いた脚線の美しさに興奮を覚えたが映画館に入る勇気はなかった。夕食のときは「世界の夜」の興奮を親に気取られてはならぬとむやみに緊張した。わたしの「金井君」体験のひとこまである。
このころ「ヨーロッパの夜」「世界の夜」「アメリカの夜」といったお色気ショーもののブームがあり、そのさなかのわが「金井君」体験はのちに日劇ミュージックホールに足を運ばせた機縁となった。
 あこがれの「世界の夜」はいまなお未見のままである。
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by yumenonokoriga | 2013-06-05 09:18 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)