メモランダム

a0248606_10295374.jpg 写真は落合登が描いた日劇ミュージックホールのパンフレットで、Noboruのサインがあります。せっかくだからこれを紹介したうえで落合登についての記事を書こうと考えましたが、そうするだけの材料がありません。そこで今回は、手許の執筆メモのうち、どうも独立した記事になりそうもないことがらを寄せ集めてみました。
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 落合画伯の作品ほどレベルが高かったとは思えないが、日劇とおなじく浅草のストリップ劇場にも絵看板は掛かっていて、永井荷風が「花時や裸体踊(はだかをどり)の絵かんばん」「春風やはだか踊の絵看板」の句に詠んでいる。
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本コラムで以前に採りあげた矢野誠一『舞台人走馬燈』(早川書房)に「松永てるほの美貌、アンジェラ浅丘の野性味、小浜奈々子の気品、朱雀さぎりの豪放さ、高見緋紗子の愛敬、明日香ミキの哀愁」という一節があり「明日香ミキ」は「明日香ミチ」に訂正して引用させていただいた。「明日香ミキ」さんはおなじ著者の『昭和の藝人 千夜一夜』 (文春新書)にも登場する。つまり「ミキ」は誤植、誤記ではなく著者の思いこみ、記憶違いから来ている。ちょいと確認しておけば避けられたミスだが、けしてそれをどうこういうのではない。ただ、著者の記憶違いを指摘できる編集者もいなかった、それだけミュージックホールは過去のものとなった、時代が付いたんだなあと思う。
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谷崎潤一郎『卍』の園子は友だちの光子の美しさに見とれ「うち、あんまり綺麗なもん見たりしたら、感激して涙が出て来るねん」と言いつつ涙を流す。作中おなじ園子の言葉に「あんた、映画女優の裸体見て見てつくづく綺麗やなあと感じたことあらへんか?うちやつたらそんな時えゝ景色見るのんと同じやうに、うつとりとして何ちふことなしに幸福な、生きがひある感じして来て、しまひに涙出て来んねん」とある。いずれも谷崎が自身の感覚のよろこびを園子に託した言葉だ。昭和三年発表の『卍』だが、二十数年ののちに谷崎はミュージックホールで春川ますみを大のひいきとした。心中その肌に涙したのかもしれない。
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by yumenonokoriga | 2013-07-30 10:24 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

色川武大の日劇ミュージックホール三十年

a0248606_10131072.jpg 一九七七年(昭和五十二年)の第五回泉鏡花文学賞は「怪しい来客簿」が、翌年の第七十九回直木賞は「離婚」が受賞した。作者名はそれまでの阿佐田哲也ではなく色川武大の名義によるものだった。以後、ふたつの筆名が使い分けられたが、だんだんと色川武大のほうの比重が高くなった印象がある。
 一九八0年(昭和五十五年)といえばまだ両方の名前が使われていて、この年の初春公演「ハロー’80ビーナスの初夢」のパンフレットに寄せた「ミュージック・ホール/客席での三十年」は阿佐田哲也で書かれている。
 浅草との縁が深いイメージのある作家だが丸の内の劇場ともかかわりが深く、さすが標題どおりに年季が入っている。
 「開場の頃の、メリー松原や伊吹まり代、ジプシーローズそれから春川ますみの時代、園はるみ、吾妻京子、桜洋子、パール浜田、アクロバットダンスのRテンプル、女子大出の小川久美や丘ルリ子の頃、アンジェラ浅丘や小浜奈々子の頃、そして現在の松永てるほや岬マコ」という具合に三十年のあいだミュージックホールの舞台に接してきたわけだが、なにしろ伊吹まり代が軽演劇に出ている頃から知っていて、かげながらずいぶん応援したというし、パール浜田の締まった肢体が夢に何度も出てきたというから格が違う。伊吹まり代とおなじく初期のストリップ界のスターだったミス池上も軽演劇出身だったことや、従弟と春川ますみがひところ結婚していたことにも触れている。
 親しかった、あるいは思い出のコメディアン、タレントとしては内藤陳、パン猪狩、ショパン猪狩の兄弟、泉和助、鯉口潤一といった人びとが列挙されている。
 わたしがミュージックホールに通っていた当時いちばんよく出ていたコメディアンは関ときを(写真)という役者だったが、この人については「現在よく出演している関ときをは、往年の浅草のスタア関時男の息子さんだそうだ。親父さんめざして、がんばれ、と彼にも声援しておく」と、父親の代からの話となっている。さすが『なつかしい芸人たち』や『寄席放浪記』を著した人というべきだろう。もっと長生きしてミュージックホールのことを書いていただきたかったのが惜しまれる。
(先日京橋のフィルムセンターで観た清水宏監督のサイレント作品「銀河」に関時男が出演していた。)
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by yumenonokoriga | 2013-07-25 09:13 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「蕩児余聞」

a0248606_9592049.jpg 根津清太郎の日劇ミュージックホールでのはたらきぶりについて丸尾長顕は「彼は実にこまめにミュージックホールのヌードたちの世話をしてくれた」と書いている。
 このあと清太郎は東宝のはからいで宝塚歌劇団の東京宿舎に職場を移した。そこでの清太郎については三田純市『道頓堀物語』の一篇「蕩児余聞」に詳しい。
 宝塚歌劇団は関西に発していたから船場の富豪のぼんちにも多少の関係はあった。清太郎が放蕩者の名をほしいままにしていた全盛のころ、宝塚のトップスターだった天津乙女とマイカーでいっしょにドライブしたこともあったという。
 ある日、舎監として生徒の宿舎に住み込んだ清太郎と、そのころは歌劇団の理事職にあった天津乙女との出会いがあった。
 「あんたらは知らんでしょうけど、あの小父さんは偉い人なんやさかい」と天津乙女は下級生たちに言葉遣いに気をつけて、大事に扱うてあげんといかんよと言い聞かせたが、生徒たちは一向に頓着なく「おっちゃん、衣装のトランクに縄掛けてよ」などと平気で清太郎を使い、「おっちゃん」のほうもホイホイと気さくに腰を上げて応じていた。
 根津清太郎が丸尾長顕に雇われてミュージックホールではたらいたのは昭和二十九年から三十年にかけてのわずかの時期だった。ステージではトップに伊吹まり(昭和三十年六、七月公演「ブラジャーに手を出すな」で伊吹まり代に改名)、ついでメリー松原、R.テンプル、ジプシーローズ、奈良あけみ、桜洋子といった名前が見えている。なかに谷崎潤一郎が大のひいきとしていた春川ますみもいる。余計なことながらミュージックホールの楽屋や廊下で谷崎と清太郎は鉢合わせしなかったのだろうか。
 ともあれ根津清太郎について丸尾長顕とともに三田純市が小説に遺してくれていたおかげで、その軌跡を知ることができたのはありがたかった。
 一九九四年に亡くなった三田純市を追悼した「落魄願望のひと」で演劇評論家の矢野誠一は「蕩児余聞」という作品について、三田の文業のなかでも際立ったものと評価し、巨大な財とともに妻の松子をも失ったこの一代の蕩児の孤独に筆が及んだのは「それはそっくり書き手三田純市の憧憬であり、羨望でもあったように読める」と述べている。
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by yumenonokoriga | 2013-07-20 06:18 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

伊東深水が描いた根津清太郎 補遺

 三田純市「蕩児余聞」に、伊東深水が日劇ミュージックホールの楽屋風景を描いた「戸外春雨」ほか数点の作品中に根津清太郎の姿もあるとの記述があった。そこでウェブサイト上で「伊東深水」「戸外春雨」で検索をかけてみたところ「気ままに 大船での気ままな生活日誌」というブログに「福富太郎コレクション展」図録所収「戸外は春雨」が掲載されていた。
 記事の題名は「福富太郎コレクション展」。日付は二0一一年二月二十八日。
 ブログ上に筆者のお名前はないが「気ままに」子はこの展覧会について「昭和のキャバレー王のニックネームをもつ方なので、豪快な派手なイメージをもっていたが、実際はだいぶ違っていた。戦前、自宅の二階に鏑木清方の絵が飾ってあったが、戦災で失い、是非また清方の作品をと青年時代、思い続けていたそうだ。酒も煙草もギャンブルもせず、靴は一足、タクシーにも乗らず、給料をこつこつ貯めて、ようやく一点の清方作品を手にいれた。その後、キャバレー事業を開始し、それが当たり、福富さんの蒐集美術品はどんどん増えていったのだ。その100点近くがここに集合しているのだ」と紹介したうえで「戸外は春雨」にかんして「劇場の舞台裏を描いたもので十数名の様々な姿態の踊り子が描かれている。画集ではみたような気がするが、実物ははじめてだ」と述べている。
 実物は福富太郎コレクション所蔵だが、ここにあるようにに画集にも収められているとすれば、図録ともども気をつけていよう、そのうち出会えるかもしれない。
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 その「戸外は春雨」(三田純市「蕩児余聞」は「戸外春雨」としている)の向かって右の下の絵に中年の男が一人ぽつねんと壁にもたれかけている。根津清太郎と思いたいが「蕩児余聞」に「小麦色の肌をした踊り子たち、青や赤や、白や黒の衣装の散らばったその風景の片隅に、その老人が、たぶんファンからの贈り物であろうか、花束を手にして立っている」とある絵柄とは違っている。ただし、はっきりとはわからないけれど男が花束を持っていると見えなくもない。
 終わりになりましたが、参照、引用させていただきましたブログ「気ままに 大船での気ままな生活日誌」に御礼を申し上げます。
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by yumenonokoriga | 2013-07-15 10:36 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

伊東深水が描いた根津清太郎

a0248606_9332146.jpg 谷崎潤一郎夫人松子の前夫根津清太郎は丸尾長顕のプライベートな使用人として日劇ミュージックホールで、ついで日比谷にあった宝塚歌劇団の東京宿舎の舎監としてはたらいていたところ、脳溢血により一九五六年(昭和三十一年)五十七歳で不帰の客となった。
 作家で上方落語と上方芸能にかかわりの深かった三田純市に『道頓堀物語』という短篇集がある。一九七八年に光風社書店から刊行された本書の一篇「蕩児余聞」に、船場の老舗の若旦那としてその放蕩ぶりをとどろかせた根津清太郎の面影が語られている。
 オーディションの審査員を務めるなどミュージックホールと関わりの深かった画家で、朝丘雪路の父君としても知られる伊東深水(写真)が楽屋をスケッチしに来たことがあり、根津清太郎もそこに描かれていたと丸尾長顕が書きとめている。三田純市によればこのときの楽屋風景の作品は「戸外春雨」をはじめ数点ある。
 ある日、スケッチに倦んだ深水が珈琲でもと地下の食堂へ下りて行ったところ偶然に清太郎と出会った。画家がとまどってぎこちないあいさつをすると「ここのコキール、ちょっといけまっせ」と昔に変わらぬ上品な船場言葉で声をかけてきたという。根津清太郎は若いときから大阪の画家たちと交遊があり、その関係から東京から来阪した伊東深水を派手な遊びの宴席に招いたことがあった。
 深水のミュージックホールの楽屋を描いた絵について「蕩児余聞」には「小麦色の肌をした踊り子たち、青や赤や、白や黒の衣装の散らばったその風景の片隅に、その老人が、たぶんファンからの贈り物であろうか、花束を手にして立っている」としるされている。機会があれば見てみたいものだが、それまでは、ようやく生活の苦労から脱却しかけた男の穏やかでしみじみとした表情がそこにあると思っていよう。
 のちにその絵が出品された展覧会にやって来た花柳章太郎が見るなり「オ、こりゃ根津さんじゃないか」と叫んだ。この新派の名優も宴席に招かれひいきを受けていた。
 花柳は随行させていた若い役者に語った。
 「この人の奥さんが、いま谷崎先生の奥様なんだよ」
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by yumenonokoriga | 2013-07-10 09:32 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

根津清太郎の最期

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 谷崎潤一郎夫人松子の前夫で、かつて船場の老舗の御曹司だった根津清太郎は戦後、尾羽打ち枯らした果てに「お助けを願います。何でもいい、仕事をさせて下さい。ミュージックホールの掃除番でも結構でございます」と丸尾長顕にすがった。昭和二十年代の末か三十年代のはじめのことだった。
 その必死の頼みに丸尾は自分の給料から清太郎の生活費を出すつもりで「それでは、明日からミュージックホールへいらして下さい。生活費全部という訳にはいかないが、お小遣いの足しになるだけは、私の給料から割いて差し上げます」と応じた。
 戦前の羽振りのよいころ根津清太郎は岸田劉生をひいきにしており、丸尾長顕に「麗子像」をプレゼントしたことがあった。戦後、丸尾の娘が盲腸炎に罹ったとき、その絵が手術費用となった。結果として清太郎に娘の命を救ってもらった思いとともに丸尾は肚のなかで、清太郎をこのままに捨て置けば谷崎松子さんに迷惑がかかるかもしれないと憂慮していた。けれど東宝に雇ってやってほしいとは言い出しかねた。こうして清太郎は丸尾のプライベートな使用人としてヌードダンサーの世話や走り使いの仕事をすることとなった。その仕事ぶりについて丸尾は「彼はさすがに今迄大勢の人達に、ちやほやされている。そのちやほやされかたの中で、一番自分が嬉しかったことを人にしてやればいいのだから、まさに心得たものだった」と書いている。
 二三か月してその仕事ぶりが小林一三の長男富佐雄の目にとまった。丸尾のポケットマネーの話を聞いた富佐雄が、それでは東宝で世話しようということになり、清太郎はそのころ日比谷にあった宝塚歌劇団の東京宿舎の舎監として雇われた。
 女房のおふじさんとその妹、子供を引き取り生活は落ち着いた。仕事ぶりもよく生徒たちの評判も上々で「おじさん」「おじさん」と慕われていたという。ところがそれほど経たないうちに彼は脳溢血で倒れて亡くなった。一九五六年(昭和三十一年)、享年五十七。丸尾は葬儀委員長として、船場の大店のぼんぼんにふさわしい葬儀を出した。
 当時宝塚に在籍していた八千草薫が二万円もの香典を包んできたという。丸尾は、生徒への行き届いた世話にたいする感謝のあらわれだったとしるしている。
(写真左から大宅荘一、丘るり子、丸尾長顕、『回想・小林一三』より)
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by yumenonokoriga | 2013-07-05 09:08 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)