村松梢風と小浜奈々子

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 近藤啓太郎『裸の女神』によると村松梢風はジプシーローズを飲みに誘ったりもしているが、警戒心を微塵も持たない彼女の天真爛漫さにとまどってしまい、多忙だとして彼女を連れあるくのはやめたという。その代わり銀座や赤坂のバーやナイトクラブの何件かを彼女がサインすればいいように計らい、ジプシーは一党を引き連れ無邪気に飲み歩いた。日劇ミュージックホールの応援団長を以て任じていた人だけありこまめに世話をしている。
 応援団長としてのこの人の最大の功績はミュージックホール史上最高のスター小浜奈々子の発掘とスカウトにあった。そのいきさつについてはみずからの著書『新女経』で語っており、石崎勝久も『裸の女神たち』でそのことについて触れている。
 浅草六区にかつて浅草座という小さなストリップ劇場がありそこに原みどりというストリッパーがいて小浜はその妹でおなじ舞台に出ていた。ある夜、原みどりがアルバイトで銀座のクラウンというキャバレーで踊っていると客のなかに村松梢風がいてすっかり彼女を気に入り、村松はボーイを通じて名前と所属芸能社を聞き、翌日さっそくミュージックホールへ行って推薦した。
 『新女経』では、ミュージックホールの運営委員が芸能社へ電話をかけて原みどりを呼び、そのとき妹の小浜奈々子を同道したとある。石崎は村松が丸尾長顕を誘ってクラウンに出かけたと書いているが、いずれにせよ契約に至った。
 丸尾はとくに感心したわけではなかったが一応の線はいっているくらいの評価で原みどりと契約をした。その席で原みどりは「この子もいっしょに出してくれませんか」と妹を売り込んだ。丸尾は姉以上に妹を気に入りこれはスターになれる娘だと思ったという。
村松梢風は「姉の方はなかなか貫禄があるが、妹はまだごく若くて、私にはさほどにも思えなかったが、劇場の先生たちはさすがに目が高くて、『この子はいまによくなりますよ』といっていた」と書いている。
 こうして昭和三十年十一、十二月公演「桃色の手袋」が小浜奈々子のミュージックホール初舞台となった。
 
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by yumenonokoriga | 2013-08-30 10:57 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

「応援団長」

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 村松梢風は日劇ミュージックホールの応援団長を自任していた。
 明治期の歌舞伎俳優二代目尾上菊之助をモデルにした『残菊物語』や本邦の画人四十七人を採りあげた『本朝画人伝』、「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた清朝王女川島芳子をめぐる小説『男装の麗人』などで知られる梢風だが、その家系はまた文筆一族としても有名で次男の村松道平は脚本家、三男の村松喬は作家、四男の村松暎は慶大教授・中国文学者といった具合だ。長男の村松友吾は中央公論社の編集者だったが早世し、その子友視は梢風が育てた。
 梢風と日劇ミュージックホールについては村松友視『鎌倉のおばさん』のほかに四男村松暎の『色機嫌 女・おんな、また女 村松梢風の生涯』にも記述がある。なかで梢風は、裸の踊り子たちに囲まれるのはいいが「俺なんざ、お前、モテようってのには、若い奴と違って、向うから寄ってくるってわけにいかないから、金をバラ撒くほかに手はないやね」と嘆きとも自慢ともつかぬ述懐をしていて、応援団長ならではのことばとも受け取れる。
 一九六一年(昭和三十六年)に七十一歳で没した梢風だからミュージックホールとかかわりのあったのは晩年にあたっているが、村松暎によればこの時期がその絶頂期だった。
 〈鎌倉時代、つまり梢風の生涯の終章は彼の最盛期だった。仕事でも遊びでも、これくらい自在な時期はなかった。丸尾長顕が日劇ミュージックホールの顧問にしてくれたので、楽屋へも大手を振って入ることが出来、裸の女の子たちに取り囲まれて「センセ、センセ」とチヤホヤされるのは天国であった。〉
 その命日は二月十三日。生涯を閉じたいく日かまえに新潮社から印税が届き、それを枕の下に入れた。その印税が袋ごとなくなっていた。かわいがっていたミュージックホールのヌードダンサーが見舞いに来たあとだった。
〈「あの子にやってしまったんだね」私たちはそう言い合った。七十一歳の最後の最後に女の子にくれてやる金が入るとは、梢風の人生はよくよくツイていたと思うほかはない。〉
 村松暎は父の最期をこうしるしている。
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by yumenonokoriga | 2013-08-25 09:35 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

村松梢風

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 日劇ミュージックホールの公演リストにはしばしば作家や漫画家、演出家が構成、演出者として名を連ねている。谷崎潤一郎、村松梢風、三島由紀夫、江戸川乱歩、石原慎太郎、寺山修司、久里洋二、杉浦幸雄、小島功、武智鉄二、蜷川幸雄といった具合である。遠藤周作のように実現はしなかったものの、おれにも脚本書かせろと言っていた作家もいる。助平心も手伝って機会があれば脚本を書き演出もしてみたいと思っていた人は多かったにちがいない。プロ野球の監督やオーケストラの指揮者を男のあこがれに挙げる方が多いと聞くが、ミュージックホールの演出もなかなか魅力がありそうだ。
 著名人の起用は劇場運営上の戦略で、よい脚本を得る可能性とともに話題性を高めるのに都合がよかったし、起用されるほうからすればヌードの美女に囲まれての仕事だから心はずむひとときだったろう。
 上に名のある村松梢風とミュージックホールについては村松友視『鎌倉のおばさん』に詳しく、小島政二郎のものをはじめいくつかの回想記を踏まえながら描写されている。村松友視にとって梢風は血縁上は祖父であるが、病死した父親に代わって育てられたという意味では父だった。
 春川ますみをひいきとした谷崎潤一郎、丘るり子がお気に入りだった舟橋聖一という具合にこの劇場に出入りした重鎮の文士は何人かいるが、そのなかで梢風は日劇に籍を置く人と同様に「やあ」と平気で楽屋へ入って行けるただ一人の文士だったという。
 同書によればミュージックホールを見物した梢風は大いに気に入りさっそく顔なじみの丸尾長顕をたずねてこの劇場の顧問にしてもらい楽屋に出入りする特権を手中に収めた。昭和三十年の三、四月公演「恋には七つの鍵がある」では、その一景に「桃色の手袋」という台本を提供し、主役の妖艶なジプシーの踊り子にジプシーローズを起用している。
 戦後、梢風は妻と孫の友視を静岡に住まわせ自分は愛人である「鎌倉のおばさん」と鎌倉に住んだ。生活は派手でミュージックホールの踊り子やナイトクラブの女たちとの関係を楽しんだ。「鎌倉のおばさん」はそれが作家を支える女の名誉であるかのように梢風に女たちとの交遊を勧め、せっせと金を渡していて、その金策に四苦八苦していたという。
 
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by yumenonokoriga | 2013-08-20 09:21 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』

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 鴨井羊子には下着デザイナーとしての半生を綴った『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』という著書がある。はじめ一九七三年に三一書房から刊行され、いま、ちくま文庫で再刊されている。
 彼女は一九五八年(昭和三十三年)に「女は下着でつくられる」という映画を監督している。本書に「私は亀井文雄さんの指導で映画を一本監督した」とあることから、亀井監督の指導と協力を得たことが知れる。スタッフ、出演者ともに十人ほどで、神奈川県厚木をロケ地として三か月滞在して撮った。十人の出演者のうちにはジプシー・ローズ、奈良あけみ、小浜奈々子がいた。
 雨の日は旅館で麻雀の場が立ったが鴨井羊子は嫌いで、もっぱら踊り手にジルバなどを習っていたとあるから、教えていたのは日劇ミュージックホールの三人だったかもしれない。
 当時の彼女の回想をもうひとつ引いておこう。
〈奈良あけみちゃんという大柄なストリッパーとレスリングをし、ジプシー・ローズがレフェリーをつとめた。私はもともと女レスラーになろうとさえ思ったくらい力自慢だったからコテンのパーにあけみちゃんをたたきのめした。彼女はくやしさのあまり私のズボンにかみついてボロボロに引きちぎった。でも彼女もジプシー・ローズもやさしい人で、姉さん気取りで私を子分らしくあつかい、一升瓶をおいてよくのみあかし、あげくに着てるセーターなどをパッと脱いてはプレゼントしてくれた。〉
 奈良あけみのレスラーもさることながらジプシー・ローズのレフェリーというのがほほえましい。彼女はOSミュージックホールの舞台で「笑いなさい」という演出家に「私は笑いません」と言って衝突したことがある。このときは丸尾長顕がなかにはいって一人くらい笑わない踊り子がいてもいいじゃないかと演出家を説得して収めた。そんな彼女もこのときは天真爛漫の笑顔でレフェリーを務めていたのだろう。
 この年、公演記録を見るかぎりジプシー・ローズはミュージックホールの舞台に立っていない。前年一九五七年(昭和三十二年)九月二十三日から十一月十日にかけての「ラスベガスの蜘蛛と蠅」を最後に彼女の名は公演リストに見えない。「女は下着でつくられる」はミュージックホールのスターとしてのほぼ最後の仕事だったと思われる。
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by yumenonokoriga | 2013-08-15 09:04 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「女は下着でつくられる」

a0248606_961424.jpg 下着デザイナーとして戦後の文化史に名を残した鴨井羊子に、日劇ミュージックホールのダンサーを下着のモデルにした「女は下着でつくられる」という映画がある。一九五八年(昭和三十三年)製作、三十七分のモノクロ作品。
 鴨井羊子(1925-1991)は戦後、白い質素な下着しかなかった時代にカラフルなスリップ、セクシーなガーターベルトなどを売り出して人気を博した人で、スキャンティの命名者としても知られる。
 映画にはジプシー・ローズ、奈良あけみ、小浜奈々子といった錚々たる顔ぶれが出演している。昭和三十年代の前半はまだ女が下着のおしゃれをするのははばかられるといった雰囲気があった。作品は、下着の色は白でなければならないといった古い観念に対抗して下着をおしゃれで斬新なものにしようと志す人たちが新しい潮流を巻き起こす、というものだそうだが、わたしは未見で、長年見たいと願いつづけているけれどいまだに叶えられないまぼろしの映画である。
 小柳詳助『G線上のマリア』にこのときのロケ風景の記述がある。
〈ロケ現場は華やかな風景であった。たくさんの風船に結びつけられた七色の、パンティ、スリップ、ブラジャーが空から舞いおりる。これを拾った男女がひきおこす悲喜劇。この空から下着がまいおりるシーンだけでも小道具から助監督まで連日連夜パンティやスリップを手に走りまわった。〉
 スタッフたちは、はじめは下着も悪くないなあと思っていたが、そのうち食傷気味になり下着ノイローゼになりかけたそうだ。その裏事情はともかくミュージックホールファンとしてはこういう映画があるのはうれしく、しかも鴨居羊子の発案に戦前の「戦ふ兵隊」、戦後の「日本の悲劇」「戦争と平和」などで知られる社会派の亀井文夫が協力しているのもおもしろい。
 昭和三十年代前半の亀井は砂川基地に取材した作品やマグロ漁民の生活、被差別部落の記録などの貴重なドキュメンタリー作品を発表している。いずれも硬派作品ばかりだが、他方でミュージックホールのスターを出演させた下着映画にもかかわっているのがほほえましい。
 亀井の著書『たたかう映画』(岩波新書)は一九八七年の没後に編まれた回想記であるが、「女は下着でつくられる」について言及がないのが惜しまれる。
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by yumenonokoriga | 2013-08-10 09:02 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「笑わせ屋さん」

a0248606_8573378.jpg 「笑ってはいけない。笑われてだめ。ー笑いのこの世に占める地位は低い」。
小沢昭一「わらわせ業始末」より。
 いまは社会意識もだいぶん変わったが、かつては小沢昭一が言うように笑いを軽視する風潮があり、それはおのずと笑わせる芸人への差別感を生んだ。それでもコメディアンには舞台で笑いを取った実績が生きる自信となる。問題はそこから先にあり、小沢昭一は以下のような道程で喜劇役者のアイデンティティは揺らぐ、と指摘する。
〈そのうちに、笑わせ屋は、最後まで笑われ屋であることに堪えられなくなる。笑わせる、さげすまれる所業が、稼業として軌道に乗るまでは一心不乱だが、社会的に蔑視されることに気付いた時、立腹するのである。〉
〈笑わせ屋は、その所業の中でのさげすみには堪えられるが、送る世の中での蔑視には我慢がならないとなると、彼は、社会的な安住がほしくなる。そろそろ年も年で、そうドタバタひっくり返るのもしんどいし、次第にマジづくのである。マジづくとはマジメづく、つまりシリアスな表現への憧れが湧いてくる。笑いに意味をもたせ、笑いを通して人生を、だの、笑いの中に人の心の温かい心を、だの、ドタバタでなく人間の喜びと悲しみを裏に秘めた笑いを、だのということになる。〉
 チャップリンがそうだった。日本では森繁久彌という不世出の役者がこのコースをたどったから、喜劇人の世界を森繁の影が覆った。小林信彦は『日本の喜劇人』で、森繁の上質のコメディアンから性格俳優への鮮やかな変化がその後の日本の喜劇人への意識にとんでもない異変を起こさせたと述べ、それを「森繁病」と呼ぶ。
 翻って日劇ミュージックホールの舞台に立った喜劇人のうちどれほどが「森繁病」に罹ったのだろう。とりわけミュージックホールが舞台の最高域であった人にとっては「森繁病」に罹患するなど想像もできなかっただろう。けして嫌味で言うのではない。そんな病気と無縁であったことをここで讃えておきたいのだ。
寿ぐべき「笑わせ屋さん」として泉和助、トニー谷、空飛小助、田中淳一、和田兵助、マロ恵一、関ときをといった名前が浮かぶ。
(写真は浅草にある喜劇人の碑)
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by yumenonokoriga | 2013-08-05 08:55 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)