『楢山節考』の誕生

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 いい才能をもつ人を見ると、なんとかして世に送り出したい、真剣に世話したくなる。丸尾長顕は自身についてこんなふうに述べている。日劇ミュージックホールのダンサーとともに漫画家の久里洋二、作家の深沢七郎、おなじく関根庸子たちの誕生に丸尾は深く係わった。こうした資質は劇場の運営や演出にもプラスに作用したにちがいない。
 深沢七郎についていえばギタリスト桃原青二としてミュージックホールの舞台に立たせ、そのうえ作家修業をさせ、書き上げた『楢山節考』を審査員の傾向からみて受賞の可能性が高いと考えられた中央公論新人賞にターゲットを絞って応募させ、出版の世話もした。マネージャーとしての能力はたいしたものと言わなければならない。
 丸尾は雑誌「経済往来」に昭和五十五年十一月号から三回にわたり「楢山節考ざんげ(ラ・エキスピヤーシオン)」という回想記を連載している。『楢山節考』が「中央公論」に掲載されたのは昭和三十一年十一月号だから、連載時点からおよそ四半世紀前にさかのぼる話である。
 丸尾によると深沢ははじめ「楢山」と題した小説を持ってきた。穴だらけだったが面白くなりそうな予感がしたという。一回目の書き直しは大きな欠点だけに止めた。二回目はコンストラクションの組み換えを主にした。三回目は文章の細かいところに重点を置いた。
〈四回目が正念場だった。彼も自分の作品に憑かれたように打ちこんで来た。ボク自身がまず冷静になって全体を眺めてみることだった。題が「楢山」だけでは弱いことに気がついた。いろいろ考えた末に「楢山節考」にしようと、これは強引に命令した。それはリアリティを演出するためだった。楢山節というものが実際に存在して唄われているかのように取扱うために、歌詞を書き、彼には音楽の才能があるのだから作曲させた。それは最初には発表されなかったが、「楽譜」が添付してあったのだ。楢山節考という苦心した題名がぴったり真実性を帯びるようにという配慮だった。〉
 中央公論新人賞の審査員は三島由紀夫、伊藤整、武田泰淳の三名で、丸尾は三島の趣味を考慮して『楢山節考』のおりん婆さんが死骸や白骨や不気味な鳥たちに囲まれるシーンを強調するよう書き直させた。こうして五度の推敲が終わったとき、新人賞応募の締め切りは明後日に迫っていた。
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by yumenonokoriga | 2013-09-30 08:20 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

『いまそかりし昔』

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 日劇ミュージックホールのダンサーだった炎美可のお兄さん築添正生(ちくぞえ・まさみ)の書いた『いまそかりし昔』(りいぶる・とふん、二0一一年三月二十三日発行)に彼女に触れた文章はないけれど、袖振り合うも他生の縁で、いまそかりし昔のステージで見た炎美可という美女のあで姿を思い出させた本であるには違いない。
 著者は一九四四年(昭和十九年)生まれだから、いまそかりし昔、といえば昭和の二十年代から三十年代にあたる。じじつこの本ではそのころの思い出が端正で、味わい深く、かすかな哀調を帯びた筆致で綴られている。
 コッペパン、ゴム鉄砲、学校をさぼった日の昼間の名画座、原っぱや校庭の片隅での草野球などなど、それらは多くの同世代の人たちがいつか見た光景に通じている。そうしたなかに祖母平塚らいてうを回想する文章がある。
〈祖母は、その量はせいぜい一合位でしれたものだったが、お酒がすきでその一合ばかりのお酒を、折々のちょっとした肴と一緒にゆっくり楽しんで飲んでいた。そんな時に私が顔を出すと、祖母は「ちょっと、つきあってよ」と言って、盃をとりだして勧めてくれた。(中略)・・・・・・(祖母とは)一度も一緒に暮らしたことのない私にとって、祖母との関わりには、おばあちゃんと孫という間柄にしてはやや遠慮がちなものがあった。が、一緒にすごした晩年のそのひとときのおかげで、祖母の書斎で、ふたり庭の花や木をながめながらお酒を飲んでいた場面をおもいだすと、その人は、多くの人に知られた「平塚らいてう」という人物ではなくて、奥村明というおばあちゃんとして私の記憶のなかにあらわれてくるのだ。〉(「祖母らいてうのこと」)
 ちなみに著者は父正二(まさじ)母曙生(あけみ)の長男として生まれた。母曙生は奥村博史、明(はる)の長女だった。つまり著者の母方の祖父奥村博史は画家、そして祖母明は青鞜社の創立者で婦人解放運動の先駆者として知られる平塚らいてう、その人である。
 もしかすると祖母と兄がお酒を飲んでいる姿を築添美可さんは目にしたことがあったかもしれない。
 築添正生は体調のすぐれない状態がつづくなか、二0一0年三月二十三日半生を過ごした京都の自宅の書斎で静かに永眠した。
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by yumenonokoriga | 2013-09-25 05:40 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ある日京都で

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 定年退職を控えた二0十一年三月に私用で京都へ出かけた折り、以前から一度訪ねてみたかった善行堂という古本屋さんを訪ねた。店主の山本善行さんは先年評論家の岡崎武志さんと共著で『古本屋めぐりが楽しくなる 新・文学入門』(工作舎)を出していて、これがとてもたのしく、古本好きにはこたえられない本だった。
 たどり着いた小さなお店の棚は店主のシブイ趣味がもたらす味覚がやさしくほんのりと漂っている感じだった。古本だけでなく、山本さんの著書やそのお薦めの新本も何冊か置かれてあり、なかに『いまそかりし昔』というゆかしい書名(古語辞典の語釈で、いまそかりはありの尊敬語)が目を引いた。そこへ店主が親しいお客さんとおぼしき女性に「築添さんは平塚らいてうの孫にあたる方なんですよ」と話すのが耳に入った。『いまそかりし昔』には築添正生(ちくぞえ・まさみ)という著者名があった。
 「平塚らいてうの孫」と聞いたときわたしの耳は一瞬とんがっていたのではないかな。女性解放運動の元祖のお孫さんがヌードダンサー炎美可として日劇ミュージックホールにデビューしたとひところ話題になったものだ。ならば炎美可と『いまそかりし昔』の著者とはどういう関係なのか。わたしが即座にその本を買ったのは言うまでもない。
 巻末に遺稿集となった著者の詳細な年譜があり、一九四四年生まれの金属工芸家(金工家)には一九五0年生まれの次妹美可がいた。著者と炎美可が兄妹だったとしてまちがいないだろう。年表の頁を繰ると一九九九年の一時期著者はさまざまな重圧から家を出て東京の妹宅に滞在したとある。この妹が美可さんなのかもう一人の妹美土さんなのかはわからない。
 炎美可(写真)については「文藝春秋」が八十年代にはばたく各界期待の星、といった特集を組んだ際に、平塚らいてうの孫がステージ中央で踊る日、たしかそんなタイトルで彼女を採りあげていたおぼえがある。残念ながら彼女がトップスターとしてステージ中央で踊る前に劇場が消えてしまったけれど。
 ネットで見るに彼女は都立国立高校を卒業後アングラ劇団、黄金劇場に所属し、その後一九七七年三月にミュージックホールにデビューしている。
 たまたま訪れた京都の古本屋からミュージックホールに翔んだこの日はわたしの数奇な一日となった。
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by yumenonokoriga | 2013-09-20 09:15 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「初春狸御殿」

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 MGMのミュージカル映画黄金時代を振り返るアンソロジーの名篇「ザッツ・エンターティンメント」、そのPart3で案内役のジーン・ケリーが「もう二度と訪れない時代。しかし思い出とフィルムは永久に残ります」と語る。
しかし映画はフイルムに残せても舞台はそうはゆかず、それを見た人の思い出のなかにしか残せない。でもあまりその種の話をしていると団菊じじいの嫌味に陥りかねない。閉場してずいぶんと歳月が経つ劇場のことをあれこれ書く気持に嫉妬や羨望を抱かせたいといった気持は皆無だけれど、本コラムも悪趣味にならないよう心しておかなければならない。
 その舞台であるが、かつては日劇ミュージックホールの舞台を収めたVHSビデオがいくつか市販されていたからまったく片鱗に触れることができないわけではない。ただしそれも松永てるほ、朱雀さぎりがトップになって以後の話であり、アンジェラ浅丘、小浜奈々子以前となると映画の断片に見るほかない。
 まえに中平康監督、小林旭主演の「野郎に国境はない」を見たときスクリーンにアンジェラ浅丘の名前があって心ときめいた。キャバレーのヌードダンサー役で出演していて残念ながら前半で殺されてしまったけれど、それでも彼女が踊るシーンがあるだけでマニアには貴重で、まさに眼福をもたらしてくれたものだった。こんな出会いはたのしい。
 ビデオに黴がきていま手許にないのが惜しくてならないが、アンジェラ浅丘とともに一時代を築いた小浜奈々子には「初春狸御殿」という出演作がある。「狸御殿」は和製ミュージカルの定番で、近年では鈴木清順監督が「オペレッタ狸御殿」を撮っている。
 木村恵吾監督「初春狸御殿」は大映製作の時代劇ミュージカルで、市川雷蔵、勝新太郎、若尾文子ら往年の大映スターが総出演して繰り広げる軽快で明るく楽しい絵巻である。大映専属ではないトニー谷、和田弘とマヒナスターズ、松尾和子ら当時の人気者が共演しての顔見世も豪華であったが、わたしにはなによりもヌード界のクイーンと讃えられた小浜奈々子がセミ・ヌードのニンフ役で出ているのがうれしい驚きであった。
 フィルムに残る「もう二度と訪れない時代」の思い出である。
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by yumenonokoriga | 2013-09-15 05:26 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

村松梢風と奥野信太郎

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 中国文学者で慶應義塾大学の教授だった奥野信太郎(写真)に『女妖啼笑 はるかな女たち』という随筆集があり、戦前の東京と戦時下の北京の世態人情を背景に幼いころからの女たちとのかかわりが詞藻豊かな達意の文章で書かれている。こういう本を著すほどだから女との関係にいかほど意を用いたかは想像されよう。
 この人の弟子のひとりにおなじく慶應の教授だった村松暎がいた。日劇ミュージックホールの応援団長を自任していた村松梢風の子息で、暎が師事したことから梢風と奥野とは親しくつきあうようになった。
 梢風は遠州森町の在の新興成金の家に生まれ、信太郎は父は陸軍大尉、母は安政の大獄で斬首となった幕末の志士橋本左内の姪という家に生まれた。生まれ育ちの環境はだいぶん異なるが女、そして中国という点で共通するものがあった。
 「ともに早く父親を亡くして遺産が自由に使えるようになり、片や家作を端から売り飛ばして芸者遊びにうつつを抜かせば、一方は田畑を端から売って吉原に入れ揚げるといった往年の放蕩息子であったから、気が合ったのも当然であろう」と村松映は『奥野信太郎随想全集』第一巻の解説で述べているが仔細に見ると女にも中国にも好みの異同はあり、何よりもあれほどミュージックホールに関わりの深かった梢風に対して、信太郎がこの劇場に言及したことは管見する限りではなかった。親しく交わるなかに梢風がいて、慶應での親しい同僚にこの劇場と縁のあった池田弥三郎がいたが、そうした交友関係があるにもかかわらず信太郎とミュージックホールの関わりは見えてこない。
 中国にしても信太郎が愛したのは、柳絮舞い、胡同に物売りの声がやさしく流れる平和で古きよき北京だったのに対して、梢風は陰謀がうずまき、革命家が暗躍する魔都上海に生きた。
 先に引いた村松暎の一文には「好奇心の旺盛な信太郎は、古いものをくずして出て来る新しいものにも、とびついて行く。が、そういう新しいものは彼の心を満たすことはできない。当時最新であった日活ホテルを常宿として、出来たばかりの日劇ミュージックホールに入りびたって大満悦であった梢風とは違うところである」と書かれている。
 とはいえ奥野信太郎も市川左団次や中村勘三郎、菅原通斉たちとともに東劇バーレスク・クラブのジプシー・ローズを応援する「風流バーレスク・クラブ」のメンバーの一員だった。お互いにニアミスを避けていたのかも知れない。
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by yumenonokoriga | 2013-09-10 10:07 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

小浜奈々子のオーラ

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 小浜奈々子を発掘した村松梢風はその魅力について「おそろしくきれいな八頭身で、顔つきもなんとなく伊東絹子に似ている。(中略)伊東絹子に似ているとどこでもいわれるところから、本人も意識的に、眉のかき方からすべて伊東絹子を模倣している」と書いている。
文中の伊東絹子は一九五二年(昭和二十七年)、第二代目ミス・ユニバース・ジャパンに選ばれ、同年七月にアメリカ合衆国カリフォルニア州のロングビーチで行われた第二回ミス・ユニバース世界大会に、日本代表として出場し、ここで三位に入賞した。
 小浜奈々子が模倣したかどうかはともかく、彼女はミス・ユニバース・ジャパンに匹敵していて、それはとりもなおさず国際舞台でも通用する可能性を意味していた。
 彼女が日劇ミュージックホールにデビューするおよそ半年前というから一九五五年(昭和三十年)の五月か六月ごろの一日「内外タイムス」の芸能記者だった橋本与志夫はぶらりと浅草座を訪れ、森福二郎支配人から姉妹ストリッパーというのは記事のネタにならないかと原みどりと小浜奈々子を紹介されている。そのとき橋本はまだどこかアカ抜けないところはあるが長身で初々しい小浜奈々子を見て「ひょっとするとこれは大ものになるのではないかな」と直感したそうだ。村松梢風は小浜奈々子の魅力を見抜いたミュージックホールの先生たちはさすがに目が高いと述べているが、この世界に詳しい記者もなかなかの目利きだった。と同時に小浜奈々子のオーラがどれほどのものだったかを示してもいる。
 原みどりはまもなく結婚して舞台を引くが小浜はのちに「ミュージックホールの女王」となった。彼女の妹が西崎ぼたん、従妹が朱雀さぎり。いずれもミュージックホールで踊り、とくに小浜時代を支えた朱雀さぎりはやがて松永てるほとともにトップスターとなったのはご承知のとおり。
 ここまで見てくるとミュージックホールの応援団長村松梢風の功績はその字義のとおりとても大きかったことがよくわかる。
 
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by yumenonokoriga | 2013-09-05 10:38 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)