丸尾長顕にとっての『楢山節考』

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 丸尾長顕「楢山節考ざんげ」に第一回中央公論新人賞の授賞式の写真がある。審査員のひとり伊藤整がマイクの前に立ち、うしろに深沢七郎、丸尾長顕、嶋中鵬二中央公論社社長の三人がならんでいる。
 嶋中社長は作品掲載誌と授賞式の主催者だから当然として、丸尾長顕がひな壇に立つのは異例であり、丸尾自身もその点は承知していて「しかし何故師匠のボクが授賞式に弟子と並んで舞台に立たねばならなかったのか、そのいきさつをいま思い出すことができない」と書いている。
深沢の師に対する深謝の気持がひな壇に立たせたのか。あるいは深沢と中央公論社が、もともと作家志望だった丸尾に花を持たせたのか。そのいっぽうでは丸尾の弟子を誇示する気持や自己顕示欲のあらわれというふうな解釈も可能であろう。
 「楢山節考ざんげ」には、大宅壮一をはじめ幾人もが『楢山節考』は丸尾が書いたものではないかと疑っていたとある。なかでも大宅は、いまさらキミ自身が応募小説を書いたとあってははずかしいものだから他人の名前を使ったのだろう、あの小説にはキミが好んで使う独特のニュアンスのある文章が十数箇所ある、それらは指摘もできると問いつめた。
 丸尾は、師匠の文章は弟子に影響するし、だいいち自分がペンをとって添削したのだったら五回も書き直させる必要はなかったと抗弁し、さらに深沢が受賞後に発表した「東北の神武たち」が大宅の虚説を払拭したと述べている。
 要約すれば上の通りだが、カネをめぐる深沢との亀裂を語る文章のなかのこの箇所は『楢山節考』は深沢と自分とのほとんど共作に近いものだったんだよとほのめかしているとしか読めない。
 丸尾の抗弁に大宅壮一は納得したそうだが、ここにあるほのめかしはいまも生きていて、丸尾が深沢の持つ川船で『楢山節考』を閲読したとき船上にいた画家でイラストレイターの久里洋二は半世紀以上経ったいまもこうつぶやく。(『ボクのつぶやき自伝』)
〈『楢山節考』は深沢君が全部自分で書いたのだろうか?船での会話ではほとんどの部分に丸尾さんが手を加えているようだった。細かいアイディアですら丸尾さんに聞いていた。しかし結果的に深沢君が受賞し、何かあったのか、深沢君は二度と丸尾先生とは会わなかった。深沢君は日劇MHの出演もやめてしまった。〉
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by yumenonokoriga | 2013-10-30 09:36 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

久里洋二が見た丸尾長顕と深沢七郎

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 深沢七郎『楢山節考』の最終稿を師である丸尾長顕が閲読したのは両国の川開きの日の夕べだった。中央公論新人賞応募の締め切りは明後日に迫っていた。
 深沢は小さな川船を一艘持っていて、それを船宿に預けて貸し賃を稼いでおり、その船が閲読の場となったのである。深沢はまたお茶の行商仲買人もやっていて、丸尾によると「彼は素朴なイメージを持たれているが、なかなかどうして、世故にたけ、理財の才能を持っている隠れた一面があった」。
 漫画家、イラストレーターの久里洋二は鎌倉の丸尾邸で深沢七郎を紹介されている。
〈「久里君、面白い男を紹介するよ」と出て来たのがジャンパーを着た猫背の男だった。「僕ね、お茶の行商をしとるんよ。それにギターも弾けるから。それが、のちの作家・深沢七郎との初めての出会いだった。〉(久里洋二『ボクのつぶやき自伝@yojikuri』)
 『楢山節考』最終稿を丸尾がチェックした川船にはもうひとり久里洋二がいた。久里の記憶では江戸川の花火を見に行ったとなっていて丸尾の回想とは異同がある。また丸尾が「五回も書き直したのだから、殆んどもう手を入れるところはなかった。よし、これで勝負しようと決心した」とあるが久里の記憶は異なっている。
〈その時、丸尾先生が、原稿用紙を前にして深沢君と何やら話をしていた。「ここのところは、もっと緻密に表現したらどうなんだ」「いや、これで良いと思うだけど」「だめだね、老婆の心の中が書けてないよ」「そうかな」「分らないのか」原稿のトップには『楢山節考』と書いてあった。〉(久里前掲書)
 深沢七郎は第一回中央公論社新人賞を受賞した。久里洋二は川船での一夜を思い出し、有楽町の中華料理屋で丸尾、深沢とともに祝杯をあげた。
〈ところが、その後どうしたのだろう?深沢君は丸尾さんと会わなくなってしまった。なぜ?〉
 久里洋二の上のツイートでは、およそ三十年前の昭和五十五年、丸尾長顕が深沢七郎との関係破綻のいきさつを書いた「楢山節考ざんげ」にまったく触れていない。久里がこれを知らないとは思えない。あるいは、深沢側の証言がないのを考慮して「なぜ?」と書いたのかも知れない。
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by yumenonokoriga | 2013-10-25 09:20 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

深沢七郎のNMH再訪

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 昭和三十六年(一九六一年)深沢七郎「風流夢譚」に天皇、皇族が殺害されるシーンがあり、そのため掲載紙の中央公論社長宅が右翼に襲撃され、夫人とまちがえられてお手伝いさんが殺害されるという「風流夢譚事件」が起きた。
 衝撃を受けた深沢はそのため一時筆を折り、各地を放浪したのち昭和四十年に埼玉県南埼玉郡菖蒲町(現久喜市)に落ち着き「ラブミー農場」を開いた。また同四十六年には墨田区東向島に今川焼屋「夢屋」を、さらに埼玉の草加にも新しく「夢屋」を開いている。そのころに深沢が日劇ミュージックホールを再訪した話が嵐山光三郎『桃仙人 小説深沢七郎』に見えている。嵐山の誘いにようやく重い腰を上げた作家は切符を買ってホールに入ると舞台横のドアを開けて楽屋への細い会談を上がり、そこでスタッフとしてミュージックホールに舞い戻っていたヒロセ元美と出会った。嵐山は「十八年ぶり」のミュージックホールと書いているが具体の年の記載はない。ヒロセ元美は昭和四十七年の「すべて乳房からはじまる」や翌年の「ニッポンエロチカ・ワールド」で振付として名を見せているからおそらくこのころのことだっただろう。
 ヒロセが「おじさん、ひさしぶり」と寄ってくると深沢は「なにもかも昔のままじゃねえの。オレだけがこんな爺さんになっちまったよお」と応えている。
 このとき嵐山は何を思ってか深沢に「マルオさんて、どんな人だったんですか」と訊ねた。答えようとしない深沢に嵐山は「マルオさんて人が、オヤカタの小説の先生だったんですよねえ」と追い討ちをかけた。すると深沢の顔が急にけわしくなった。誰にも言いたくない嫌な記憶をたどっているような表情だった。
 「マルオなんてやつは、ろくでもないやね。先生づらして偉ぶるやつでね。もしかしたらマルオに会うじゃねえかと思って、それでここへ来たくなかった」と小声で早口に言った。ミュージックホールへ行くのに腰が重いという裏には丸尾長顕との確執が作用していた。
 深沢と古山高麗雄の対談が『深沢七郎の滅亡対談』に収められている。初出は昭和四十六年四月「季刊芸術・春季号」だから「マルオなんてやつは、ろくでもないやね」とほぼおなじころだが、ここで深沢は「丸尾長顕さん」「丸尾先生」と呼んでいる。儀礼上あるいは社会通念として深沢がほんとうに「先生」と口にしていたのなら煮え湯を飲む思いだったにちがいない。
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by yumenonokoriga | 2013-10-20 09:04 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

丸尾長顕と深沢七郎の愛憎

a0248606_8544114.jpg 大谷能生『持ってゆく歌、置いてゆく歌』は「音楽で読み解く新たな文学論」として、冒頭にギタリスト、深沢七郎が採りあげられている。なかに深沢七郎をめぐる人間関係が図示されていて眺めているといろんなことが思いあわされて興味深い。
 たとえば深沢と「共演」という線でつながるのは日劇ミュージックホールのトニー谷、団鬼六、そしてとなりにある「師事」の線には丸尾長顕がいる。
「師事」とは別に「先生たち」という線があり、そこには正宗白鳥、石坂洋次郎、井伏鱒二、谷崎潤一郎がいる。
著者の大谷氏が、深沢と丸尾の関係が破局に終わったのを踏まえて図示したとは思われないけれど、図らずも「師事」と「先生たち」とは二人の微妙な関係を伝えている。
 『楢山節考』が「中央公論」に掲載されたのは昭和三十一年十一月号、『風流夢譚』はおなじく昭和三十五年十二月号で、このかんに「丸尾センセイから学ぶものは何もない」と深沢が言うほどに両者の関係は悪化していた。ここでの「師事」とはその程度であり、「先生たち」とは違って日常頻繁に接しているために愛憎の度合は濃くなるいっぽう金品をはじめ俗世のもろもろが絡まりやすい。
 丸尾にすれば手取り足取りというほどに教え込んだ弟子が「丸尾センセイから学ぶものは何もない」と言いながら、「先生たち」を崇めたてまつる姿を見れば憤懣やる方ない思いを抱かざるをえなかったのではないか。丸尾自身がかつて作家志望だったという事情がよけいに感情を複雑にしただろう。
 ところで『持ってゆく歌、置いてゆく歌』には、深沢が「先生」がたのうち正宗白鳥と石坂洋次郎に「プレスリーが出現したということはキリストが再現したことと同じだと思います」と語り、両先生ともイエスともノーとも返事はなかったけれど、これは自分の説明がまずかったからだと思うとのエピソードが引かれている。
 丸尾によれば深沢は正宗白鳥宅を訪れ便所の拭き掃除をして白鳥を驚かせたり、石坂洋次郎宅の前の木によじ登りこそ泥とまちがえられたりしたことがあった。いずれも知遇を得るための非常識かつ涙ぐましい努力だった。丸尾の目には、プレスリーとキリストを結びつけるなど、耳目を聳動させるための戦略としか映っていなかった。
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by yumenonokoriga | 2013-10-15 08:53 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

丸尾長顕、深沢七郎の義絶

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 深沢七郎は『楢山節考』を機に賞金、原稿料、上演料、レコードの印税、映画の原作料とそれまでとは比較にならない金銭を得る身となった。それを丸尾長顕は「夢のような大金」と書いている。しかし丸尾は「ボクは本当に彼から割り前を貰おうとは思っていなかった」「深沢がいくら金を儲けようとそれはそれでいい事だ。金をもってくるつもりがあれば黙ってもってくればいいのだ。そんなつもりがなければ黙って持ってこなければそれでいいのだ」と考えている。
 わたしはこの記述の裏を読んだり、思惑を忖度しようとは思わないから、ここは額面通り受け取っておこう。ところが丸尾を変心させた出来事が起こった。
 あるとき深沢は丸尾に「センセイはキリスト様みたいだなァ。いや全くキリスト様だ」と言ったという。丸尾がどうしてと質問すると「だってお金のことをちっとも言わないもの・・・・・・」との返事だった。これに丸尾はカチンと来た。彼にはキリスト様とほめ殺しをして金のことを上せぬようにするための予防線としか考えられなかった。
 そこで丸尾は関根庸子に「私もお礼を払ったから、あなたも払うべきよ」といった意味の話をさせた。丸尾はこの女弟子からお礼は取ってないから彼女のほうもとまどったにちがいない。深沢の反応は丸尾の予想を超えたもので、中央公論社の嶋中社長にこの話を持ち込んだ。嶋中社長からは丸尾に、深沢は心配せずともこちらで責任を持って育てる、その代わりこれまでのお礼として百万円出すとの話があった。丸尾は憤慨して取り合わなかったところ嶋中社長から再度、二百万でという申し出と「彼(深沢)も、丸尾センセイから学ぶものはもう何もないと云ってる」との話があった。ただし深沢は以前丸尾に十五万のシボレーの中古車を贈ったことがあり、その十五万は二百万から差し引くという条件が附帯していた。
 中央公論社としても深沢の背後に自分がついているよりも引き離したほうが得策と考えたのだろうと丸尾は言う。それにしても「これが十年間手塩にかけて、日夜彼のために苦心惨憺してきた人に云う言葉だろうか。深沢ってそんな奴だったのか」と丸尾は思う。以上が丸尾の側から見た破局の経緯である。
 ところがこの直後、中公側から丸尾に申し出た百万も二百万も吹き飛んでしまう大事件が深沢七郎と嶋中社長、中央公論社を襲う。「風流夢譚事件」という驚天動地の大事件である。
(写真はミュージックホールでで催された『楢山節考』受賞記念祝賀会。新海均『深沢七郎外伝』より)
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by yumenonokoriga | 2013-10-10 08:33 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

丸尾長顕・深沢七郎・金銭問題

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 永井荷風ははじめ広津柳浪に師事した。そのころ弟子が自分名義で作品を発表するのはむつかしく、一本立ちするまでは師匠の名義で、あるいは師弟合作というかたちで掲載されることが多かった。
 明治三十二年(一八九九年)五月荷風は『煙草雑誌』に「三重襷」という短篇小説を発表しているが名義は柳浪になっている。同年の「花籠」「かたわれ月」こそ荷風名義だが、「薄衣」「夕せみ」は柳浪荷風合作名義である。
 これには、弟子の名義では読者の注目が得られないという事情と金銭が絡んでいて、秋庭太郎『考証永井荷風』には「その原稿料などは柳浪に支払われて荷風に多く渡らなかったというが、崇拝していた柳浪と合作名義で(中略)自己の作品が掲載されたことは当時の荷風にとって本懐であったろう」と述べている。
 本懐かどうかは別にして、ここからは文学上の師弟と金銭のややこしい事情がうかがわれる。師が弟子を世の中に出す努力をすればするほど費用もかさみやすいから名誉の問題だけでは片付けられなくなる。学校とおなじで毎月の授業料を納めるかたちにしておけばあるいは合作というかたちをとらずに済んだかもしれないが師弟間に授業料などなじまないとすれば合作名義はそれに代わる文壇の知恵だったと考えられる。
 もちろん『楢山節考』の昭和三十年代には師弟合作名義といった慣行は廃れていて、名義問題などないけれど、それで師弟間の金銭問題が消滅したわけではない。ここのところを師としての丸尾はどう考えていたか。
〈原稿の指導は金で出来るものではない。その代り一作毎に腕を上げてくれることに大きな喜びがあった。ボク自身谷崎のおやじに批評を聞いたり御馳走になったり講義めいた話を聞いても、一文もお礼を持参した覚えはない。伊豆のお宅を訪問する度に和田金の牛肉を持参したりするぐらいで、これは手土産というものだ。
 そんなものだと心得ていた。〉
 谷崎と丸尾とのあいだはそれでよかったのだろう。けれどこの問題に一般論や法則はない。じじつ丸尾と深沢となると事情は違ってくる。丸尾が執筆した「楢山節考ざんげ」には日劇ミュージックホールの舞台に上げ、作家として世に送り出した深沢への怨み節が漂っている。
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by yumenonokoriga | 2013-10-05 06:23 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)