永井荷風とストリップ

a0248606_10131823.jpg 永井荷風が連日浅草のストリップ劇場へ出入りしていたことはよく知られている。日劇ミュージックホールはどうかといえば、丸尾長顕によると、上品すぎて、と言って、たった一度見えたきりだったという。
 戦前には浅草のオペラ館に日課のように通った時期があった。芝居やレビューを見るにしても「丸の内にて不快に思はるゝものも浅草に来りて無智の群集と共にこれを見れば一味の哀愁をおぼへてよし」(『断腸亭日乗』昭和十二年十一月十六日)と書いたその気持は戦後においても引き続いていた。
 日劇とはほとんど縁のなかった荷風であるが、まちがいなくストリップ濫觴期を象徴する人であった。
 一九四八年(昭和二十三年)一月九日、この日、荷風は戦後の浅草にはじめて出遊した。戦災による被害を検分するかのように周囲を見渡しながら、空襲にもかかわらず菊屋橋角宗円寺門前の石の布袋や仲店、伝法院が無事にあるのを確かめ、そして木馬館の傍に「小屋掛にてエロス祭といふ看板を出して女の裸を見せる」とその日記にある。
 同年三月十二日には「六区レヴユー小屋の裸体ダンス」が警察の干渉により今月いっぱいで禁止同様になるとのうわさをいささか心配気な様子で書きとめ、六月一日には「裸体舞踊一時禁止の噂」はあったが常盤座ロック座大都座の三座が競って演じていると書き、その筆致はよろこびを押し隠しているようだ。
 岩波書店の旧版『荷風全集』第八巻月報にある仲澤清太郎「ロック座の踊り子と荷風」によれば、ロック座には女優、踊り子がいつも四十人前後いて、楽屋は二階がストリッパーの部屋、三階が「普通ショウ」の踊り子や女優たちのいる部屋になっていた。この二階か三階の楽屋へ荷風が現れるのはきまって毎日夜の七時前後、おなじみの黒いベレー帽をかぶり、背広に紺の足袋、下駄履き、よく晴れた日でも蝙蝠傘と買物籠をさげていた。
 昵懇また贔屓にした女優、踊り子として秋庭太郎『考證永井荷風』は櫻むつ子、高杉由美、ヘレン滝、ハニー・ロイ、高清子、高原由紀、摩耶ジユリ、柳登世、三冬マリ、栗田照子、園ハルミ、朝霧幾代、エミー・美山、奈良アケミの名を挙げている。このうちヘレン滝、奈良アケミをはじめ何人かは日劇小劇場、同ミュージックホールに出演している。また桜むつ子と高清子は『断腸亭日乗』に登場している。
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by yumenonokoriga | 2013-12-30 10:10 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

永井荷風「踊子」

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 永井荷風が浅草へ毎日のように出かけるようになったのは昭和十一年あたりからで、なじみとなっ
たオペラ館の楽屋で過ごすうちに作曲家や歌手、踊り子たちと親しくなり、この劇場のために「葛飾情話」という台本を書いた。
 『断腸亭日乗』昭和十三年二月六日には夕方眠りから覚めて掃除、食事のあと電車に乗ってオペラ館へ行き「半裸体の踊子の姿老眼を慰むること甚だし」と楽しい感想がある。しかし戦時下オペラ館閉鎖とともにこのたのしみは失われた。
 こうした経験をもとに、戦時中発表のあてもなく書かれ、戦後になって刊行をみた荷風の小説に「踊子」がある。シャンソン座というレビュー劇場の楽士である「わたし」のところへ踊り子で妻の妹千代美が田舎から出てきて寄宿する。義兄と関係を持った千代美はやがて妻の勧めで踊り子となり、踊りの先生とも関係し、父が義兄か先生かわからぬ子を生んで劇場を引き、芸者や妾を稼業とする。その経緯を「わたし」が独白するという作品で、戦前の浅草の情緒がレビューというあでやかなな彩りを添えてよく表現されている。
〈興行中昼よりも明く煌々と輝きわたつていた燈火は悉く消え、鎖された劇場の表口、また映画の写真を飾りつけた窓だけに残されてゐる薄暗い灯影が、稽古に往来する男女の姿を影絵のやうに照すばかり。時には映画館の高い軒先に梯子をかけて、職人が大勢、飾りつけた絵看板を新しいものに掛け替へてゐます。夏は稽古のあひ間ゝを窺つて、シヤツ一枚になつた役者や女優踊子どもが、幾組となく物陰を見つけ、思ひゝの恋をしてゐると、楽屋口の並んだ横町の彼方から聞えて来る稽古の歌とピアノの音が、その場の伴奏をつとめます。〉
〈シヤンソン座の楽屋口へ来ると、歌手と踊子とが四五人、シユミーズ同様の稽古着をきて、しやがんだり立つたり、夜ふけの風に涼んでゐます。背景を出し入れする舞台裏の非常口が少しあいてゐる隙間から、舞台の灯影と歌や音楽。(中略)若い振付師が、二、二、三、四。三、二、三、四、と踊の拍子を取る声が聞こえます。〉
 いずれも派手な舞台からはうかがいにくい楽屋の一面がしるされている。稲村隆正の写真集『踊り子』にある日劇ミュージックホール楽屋でのジプシー・ローズの写真には上の文章が添えられている。なにほどか日劇ミュージックホールの楽屋と相通ずるものがあったのだろうか。
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by yumenonokoriga | 2013-12-25 09:48 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

昭和二十九年二月一日

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 洋画、漫画、アニメーション、イラスト等で多彩な活動を展開してきた久里洋二は、昭和三十三年(一九五八年)に油絵「鎌倉カーニバル」で二科展特選、同年漫画『久里洋二傑作集』で第四回文藝春秋漫画賞を受賞して世に出る地歩を固めた。
 文春の賞を受賞した際のインタビューで久里洋二は「あなたの師匠は?」との問いに横山泰三と丸尾長顕の名を挙げて、とくに丸尾については「社会学を学んだ」と答えている。もちろん丸尾は洋画や漫画を描くことはなかったが、たまたま知り合った久里を二科会の金沢重治の門下に入れて授業料を出してやり、またナチス勃興以前のドイツの漫画を与えて研究を促したと、これは丸尾が「楢山節考ざんげ(ラ・エキスピヤーシオン)」で述べている。
 久里洋二は二0一二年にこれまでのツイートから抜粋し、一部修正をくわえた記事を集めた『ボクのつぶやき自伝@yojikuri』(新潮社)のなかで「日劇MHのリハーサルを覗く。はみ出し円形ステージは、丸尾先生の発案。ふと後ろを見ると、紺の和服を着た男性が立っていた。青白い顔、すらりとした姿は侍のイメージ。『君がクリくんかい』と言った。丸尾先生に紹介されると、有名な小説家の村松梢風だった。そしてひとこと『女は、いい』と言った」と述べていて、セリの導入が丸尾長顕の主導だったことを証言している。
 この装置の犠牲者のひとりに新谷登、のちの泉和助がいて、セリ中央が下りているところへ落ちて足を痛め、およそひと月の休演を強いられた。昭和二十九年初春公演「花は絢爛と夜開く」のあいだの二月一日の出来事で、『古川ロッパ昭和日記』によると、この日はたいへんな一日だった。ロッパとともに映画出演していた柳家金語楼が新東宝の撮影所に来るとちゅう、同乗していたジープが電信柱にぶつかりおでこと足を打って入院した。夕方ミュージックホールへ行ったロッパがその件を丸尾長顕に話すと、すでにそのニュースは知っていて、おまけに「今日は椿事続出でなあ」と言う。事情を訊くと、新谷登がセリの穴へ落ちて足を挫いた、さらにミュージックホールへやって来た小野佐世男が脳溢血で倒れたと言うのだった。
 ロッパは七時のNHKニュースで小野佐世男の訃報を聞き、そのあとNHKの公開番組「ジェスチャー」で白組キャプテン金語楼の代役を務めている。
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by yumenonokoriga | 2013-12-20 09:14 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「デベソ」泣き笑い

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 岡田恵吉『女のシリ・シンフォニー』に収める写真のなかに日劇小劇場のフィナーレを撮った一枚がある。もともとヌード劇場として構えられたところではないから当然だが、これを見ると日小時代には「デベソ」という張り出し舞台はまだ設けられていない。
 大改装工事のあと日劇ミュージックホールとして再開場したときがお披露目だった。こうしたセリは多くのストリップ劇場にあったが、ミュージックホール中央の円形舞台は回転するのにくわえ、上げ下げして出演者を運んだ。東宝の威力を誇示した設備は他の劇場を凌駕した。
 丸尾長顕編『日劇ミュージック・ホールのすべて』によると直径およそ三メートル、二十九秒で上げ下げしたとある。丸尾が「このセリに乗ってヌードがセリ上がってくるときには、観客はまるでヌードの肌に触れるほどの近さにあって、思わず圧倒されるような感じを受ける」と自讃する舞台だった。
 ただしこの装置は小柳祥助『G線上のマリア』によると案外と出演者泣かせで、ここで泣きをみた事例がいくつか紹介されている。
 〈日劇ダンシングチームの福田富子はセリが上がるとき、回転するシャフトに髪の毛をむしりとられ、直径五センチほどのハゲになった。
 ヌードダンサーの奈良あけみはシャフトにスカートを巻きこまれ、悲鳴をあげた。
 セリが下りているあいだは、深い谷間ができる。そのフチを踊るダンサーは視線が穴へ向くと足がふるえた。専属の新谷登がこのセリに落ちて足を痛めて約一ヵ月休演した。〉
 セリの中に入り、上がるのを待つ時間はお互いの衣装をチェックするなど注意を喚起しあう場でもあったが、ここにも人間関係が反映する。新参のジプシー・ローズの人気に嫉妬した連中は彼女をシカトし、衣装の順番をミスしているのに気がついても知らん顔をしていたことがあったという。
 ともあれミュージックホールの回転し、出演者の出し入れのできる装置の導入は日劇小劇場のころに比較して、演出の手法を大きく高め、広げたことはまちがいない。
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by yumenonokoriga | 2013-12-15 08:54 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

「デベソ」

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 舞台、演劇用語としての「デベソ」は客席に突きだして、観客に囲まれる形になった舞台で「セリ」とも呼ばれる。客席に突き出た張り出し舞台で、ストリップ劇場の舞台やファッションショーでのキャットウォークに用いられている。もちろん有楽町、日比谷通じて日劇ミュージックホールにもあった。
 この「デベソ」について小沢昭一は「裸師たちとの出合い」で、一九四九年(昭和二十四年)春に浅草六区興行街のはずれ、旧江川劇場の地下に誕生した浅草座というストリップ劇場があり、ここが舞台中央から花道のように廊下が客席へ張り出していて、「デベソ」はおそらくこの劇場が最初に試みたものではなかったかと述べている。椅子席五、六十の、踊り子が手にとれるほど接近してくる小屋はなんとも衝撃的で、ちょっとパリの場末の気分を想像させたという。この推論が正しければミュージックホールは浅草座の後塵を拝したわけだ。
 小沢によれば、浅草座をひいきにして通っていたころストリップの世界はこれから進むべき方向として西欧的なバーレスクショーか本邦伝統の見世物芸か、どちらを採るかで揺れていた。結果は西欧型は日劇ミュージックホールだけで、あとは土着的な見世物型に収まった。後者の浅草座はBCクラスの踊り子の劇場であり、見世物としてあの手この手をほどこしていたそうだ。そのころ浅草のAクラス人気ストリッパーとして小沢はメリー松原、ヘレン滝、朱里みさを、ミス池上の名前を挙げている。
 このうちメリー松原は「西欧的なバーレスクショー」のトップ・スターとなり有楽町の「デベソ」の舞台まんなかに立った。
 ついでながら朱里みさを(写真)はミュージックホールにも出演しているがヌードとしてではない。あるいは小沢昭一の記憶ちがいかもしれない。
 彼女は七十年代はじめに大ヒットした「北国行きで」を歌った朱里エイコのご母堂で、映画では一九五0年の大映作品、木村恵吾監督「淺草の肌」で見たことがある。六区の裏通りにある寂れたレビュー劇場美銀座が舞台で、主演は京マチ子、朱里みさをは北見カナ子という京の先輩の踊り子役として出演していた。
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by yumenonokoriga | 2013-12-10 08:37 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ミュージックホール応援団

a0248606_8414277.jpg 一九七七年(昭和五十二年)五、六月公演「エロスの森のひめごと」のパンフレットに「ミュージックホール応援団」についての記事がある。「嗚呼!!花のN.M.H.応援団」と題された文章を書いているのは当時TBSのアナウンサーだった鈴木治彦さん。記事には「TBSモーニングジャンボ 奥様八時半です 司会者」と紹介がある。
 鈴木さんの一文には「応援団」入団のよろこびがあふれている。さすがにファンとしての年季もはいっていて「とに角、日劇の五階が演芸場からミュージックホールに変わって以来のファンを自認している」とある。
ふつうには知られていないこの応援団について「嗚呼!!花のN.M.H.応援団」に探ってみよう。
 まずメンバーとして名前が見えている方を敬称略で列挙してみる。池田弥三郎慶大教授(鈴木さんの師であり仲人でもあったとか)。田辺茂一紀伊國屋書店社長。音楽評論家安倍寧。作家では寺山修司、当時参議院議員だった野末陳平、タレントの毒蝮三太夫、演劇評論家戸板康二、歌手でエッセイストの石井好子。総勢は二十五名だったそうだ。入団とともにクレジットカード状の団員証が渡され、その裏には「応援団規約」がビッシリと書かれていた。
〈1本会ハ日劇ミュージックホールヲ応援シ、ソノ健全ナル発展ニ寄与スルコトヲ以テ目的トスル。
 1本会ハ、人格高潔、品行方正、学識経験豊富ナル、紳士淑女ニシテ日劇ミュージックホールヲ熱烈ニ愛スル者ヲ以テ団員トスル。
 1団員ハ出演者、特ニぬうど諸嬢ヲ舞台芸術家トシテ尊敬シナケレバナラナイ。但シ尊敬ノ余リ特定ノ個人ト限界ヲ超エテ接近シ、すきやんだるノ原因トナルガ如キ行為ヲナスコトハ厳ニコレヲ慎ムモノトス。〉
 ほかにもあるが、上の最後の項目なんか気になりますねえ。なにしろ鈴木さん自身が「団員の面々はこの規約をながめて、何を思うのだろうか一様に、ニヤニヤと意味ありげに笑っていた。果してこの規約にピッタリあてはまる人や、これを忠実に守れる団員はいるのだろうか」と書いているほどだ。
 上述したように鈴木アナは慶應の出身で、応援団員二十五名のうち慶應義塾出身者が池田弥三郎先生はじめ七名を占めていた。
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by yumenonokoriga | 2013-12-05 08:40 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)