東劇バーレスクと映画「シェーン」のことほか

a0248606_1191340.jpg 今回はこれまでのコラムに関連して補遺もしくは註釈の記事を載せておきます。
 「ジプシー・ローズの東劇バーレスクが突如として中止になったのは、東劇のチャリティー・ショーに出席する皇太子殿下が、運転手のミスで、東劇バーレスクの玄関に車を寄せ、恐れ多くもジプシー・ローズのエロティックなポーズの看板がそこにあった為だという」。
永六輔『芸人その世界』にある逸話だが、近藤啓太郎『裸の女神』にはやんごとない方面が東劇にやって来たのは「西部劇映画『シェーン』の一般公開に先立つプレミアム・ショーだかチャリティ・ショーだかが盛大に行われたとき」と記述されている。
 東劇バーレスクが開場したのは昭和二十八年(一九五三年)一月一日、そして翌年一月限りで閉場した。いっぽう「シェーン」の日本公開は同年十月二十日だからありそうな話ではある。いずれにせよ皇族とジプシーローズの看板とを出会わせたことは松竹の大谷竹次郎会長の逆鱗に触れた。この事件の翌々年同会長は歌舞伎の伝承発展への貢献を認められ文化勲章を受章している。

 浅草でジプシー・ローズを永井荷風に引き合わしたのはロック座のピカ一、園はるみというストリッパーだった。つんつるてんの背広に下駄履き、片手に買物籠をさげた姿の老人をいぶかしんだジプシーが、「あんまり変なの、紹介しないでよ」と言うと園はるみは「あら、何おっしゃるの、ジプシーちゃんは。ニフウ先生じゃないのよ、有名な・・・・・・」「こちら、永井ニフウ先生よ。ほら、知ってるでしょう。濹東綺譚・・・・・・」と紹介したという。
 荷風をニフウ先生と呼ぶ踊り子がしっかり「濹東綺譚」を口にしているところにまゆつばを思わせないでもないが詮索のしようもない。
 日劇からタクシーに乗って有楽町へ焼き芋を買いに行ったり、給料の前借りに来ては給与担当者の頭をスカートの中に入れて貸してよと言うへんてこな個性のオソノさんだが、ストリッパーとしての実力は高く、岡田恵吉『女のシリ・シンフォニー』には「現在東京だけにも百二、三十人の裸を売り物にする踊子がいるだろう。その中でストリップ・ティザァと呼べるのはヒロセ・元美を筆頭に園はるみ、島崎魔子、フリーダ・松木くらいのもの」とある。
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by yumenonokoriga | 2014-01-30 11:05 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「ファイアbyルブタン」

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さきごろ「ファイアbyルブタン」という映画を観た。先年フレデリック・ワイズマンが撮った「クレイジーホース☆パリ 夜の宝石たち」とおなじくクレイジーホースのショーがスクリーンで演じられているのだが、今回は3D映像。
 二0一二年パリのナイトスポットの殿堂クレイジーホースはゲストアーティストに高いヒールと底の赤を特徴とする世界的シューズデザイナークリスチャン・ルブタンを招き、彼の希望で映画監督でもあるデイヴィッド・リンチが音楽を担当した、そのショーは〈FIRE〉。八十日の期間限定で公開され、パリのショービズ界の絶賛を博したという。
 映画は舞台のプログラムが3D映像に再構築され、これにルブタンのコメントやダンサーたちのインタビューで構成されている。完璧といってよいボディラインの美女たち。靴と脚線のフェティシズム。華やかな美とエロティシズムの饗宴を3Dの映像技術があらゆる角度から捉える。
 一九六三年生まれのルブタンがシューズデザイナーを志したのは、ダンサーの脚線に惹かれてその靴をデザインしたいと思ったのがスタートだった。ファッションモデルじゃなくてダンサー。直線で鋭角的なモデルじゃなくて柔らかい曲線のダンサーのための靴をデザインしたかったんだと述べている。
 今回の仕事については「仕事のオファーははじめは断りを入れ、そこから自分が本当に出来るだろうか検討してゆくんだけど、今回はまず引き受けた。いつもとは反対にね」と語っていた。
 浅草の劇場に日参して楽屋で女優、踊り子と過ごすのをたのしみとした永井荷風は「渡鳥いつかへる」「停電の夜の出来事」「春情鳩の街」といった軽演劇の脚本を書き、「春情鳩の街」のときは自身舞台に立った。春川ますみが贔屓だった谷崎潤一郎また日劇ミュージックホールのために「白日夢」を舞台にのせ丸尾長顕とともに構成・演出者に名を列ねた。三島由紀夫は日劇ミュージックホールの脚本を書いて謝金をもらった際、丸尾長顕に、なんだこれっぽっちかと言ったそうだが、おそらくうれしいのを照れ隠ししてたんだと思いますね。
 こうして美しい裸のために才ある男は一肌も二肌も脱いだ。今回そこにクリスチャン・ルブタンがくわわったのである。
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by yumenonokoriga | 2014-01-25 10:40 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

正邦乙彦、高清子、ジプシ・ローズ

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 正邦乙彦は眼の色が変わるほどジプシー・ローズに執着した。このとき妻の高清子は本気で嫉妬したという。女優のプライドをかなぐり捨てて正邦のいそうな横浜セントラル劇場、新宿セントラル劇場、浅草常盤座等を駆けずり廻った。やがて彼女はあきらめたが、正邦がジプシーという素材を見つけスターに磨き上げた手腕は認めざるをえなかった。
〈男と女の関係より、正邦自身が果たせなかった超一流スターの夢をジプシーを通して完成しようとしている意欲を、正邦のなかに発見して清子は気持半分、許してもいい、と思うようになっていた。生活費を渡しにやってきた正邦に「あんたにはもったいない女だよ」と軽口をたたくようになった。〉(小柳詳助『G線上のマリア』)
 高清子をひいきにしていた永井荷風がこの事情を知っていたとは思えないが、正邦、清子、ジプシーによるドラマは荷風のすぐ近くで演じられていたのである。
 昭和三十九年(一九六四年)十二月十八日、ジプシー・ローズは代々木のアパート三階から転落し幡ヶ谷の黒須病院に救急車で担ぎ込まれるという出来事があった。腰の骨が折れ、腎臓が破裂し、再起不能といわれながら強靱な体力で半年後に退院した。入院中に、正邦は入院費稼ぎもあり外人ストリッパーを引き連れて地方巡業に出かけている。その間、付き添いを正邦の母カルが担当するいっぽう、清子は週に何回か病室の掃除を受け持った。
 この入院中の挿話は十八年にもわたり四人の子供を母と妻に押しつけて、男は別の女と同棲しためずらしい一家ならではの奇妙なエピソードであろう。もっともこのとき高清子はジプシーを正邦の持ち駒のスターと割り切っていたと小柳前掲書にはある。
                     □
 筒井康隆氏が「週刊新潮」二0一三年七月四日号で高清子について情報提供を求めていて、彼女について書きかけていた当コラムを未定稿のまま編集部に送ったところ「新潮45」二0一三年十月号筒井康隆「高清子とその時代」で筆者および本コラムが紹介されていました。筒井さんありがとうございます。 
「高清子とその時代」には彼女が出演した映画が丹念にたどられていて、筆者としてはぜひスクリーンでお目にかかれるよう願っています。
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by yumenonokoriga | 2014-01-20 09:01 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

正邦乙彦と高清子

a0248606_1134848.jpg 永井荷風ごひいきの女優、踊り子の一人高清子はのちにジプシー・ローズのマネージャー、内縁の夫となった正邦乙彦の妻だった。もちろん法律上は正邦と高は離婚していないから、正邦とジプシーは十八年にわたって同棲したことになる。
 そのかん高は正邦の母と一つ屋根の下で暮らし、四人の子を育てている。彼女は戦前から荷風と親しく、戦後も昔なじみの仲だった。
坂口安吾が「この人には、変テコな色気があった」と述べていて、それはいかなるものかせめて映画を見てみたいと思いながら、まだ叶えられない。
 〈正邦と高清子は夫と妻という眼と、同じ役者としての眼との二つの眼で相手を見ていた。同業としての馴れ合いの面ときびしい批判、という相反するものを、お互に持っていた。うまくいっているときはふつうの夫婦の百倍も蕩けたが、状況が一変すると、妻が舞台人として一本立ちしてしている女性だけに、自分の意見を主張して譲らず、お互の確執は広がるばかりであった。〉
 小柳詳助『G線上のマリア』にある夫妻のありようである。
 ここへ昭和二十五年ジプシー・ローズが現れる。
 ジプシーの前に正邦はヘレン滝のマネージャーだった。小柳前掲書によるとヘレン滝に高清子が嫉妬を覚えたことはなく、またそれまでの正邦の浮気も一過性であったため、彼女の嫉妬もなかったらしいが、ジプシーのばあいはそうはいかなかった。これまで正邦が浮気をしていた女たちとは全然違ったタイプであり「若くてはちきれそうな肉体、それにくやしいけれど女の立場から見ても認めざるをえない美貌の持主」に心おだやかではいられなかった。
 『G線上のマリア』はとても優れた評伝で、わたしはこの労作を高く評価するものだが、ただ、ここにある高清子の感情の動きをどのように跡づけたのかは疑問であり、また不思議に思う。正邦には取材しているけれど高清子にはどうだったのだろう。
 彼女が孫の目前で心臓麻痺を起こして亡くなったのは昭和五十七年五月二十四日。この本の発行は同年十二月三十一日だから、彼女に直接取材するのは可能だったとしても。このノンフィクションのなかにある作者の思い込みのような書き方が気がかりなところである。
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by yumenonokoriga | 2014-01-15 09:23 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(3)

永井荷風と高清子

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永井荷風のお気に入りの女優に高清子という人がいた。
『断腸亭日乗』にその名前がはじめて見えるのは昭和十三年五月二十一日で、この日、浅草のオペラ館では荷風原作のオペラ「葛飾情話」が演じられていて「閉場後舞踏家高清子及び永井智子菅原君と共に森永に飲む。余大酔して新橋の旧事を語る」とある。翌日も舞台がはねてからの会合のあと荷風は高清子を今戸の家に送っている。
 なお上の記事にある永井智子は「葛飾情話」の主役の歌手、のちに作家永井路子が実母であることを明らかにした。菅原君とあるのはその夫菅原明朗で「葛飾情話」の作曲者だ。太平洋戦争末期、夫妻は荷風とともに空襲を避けながらその身辺の面倒をみた。
 荷風日記にある高清子の記事をもう少し引いておくと「(オペラ館)閉場後永井高清子等と銀座コロンバンに一茶す」(昭和十三年七月八日)、「オペラ館の閉場するを待ち高杉智慧子高清子竹久よし美等と酉の市を歩み仲の町茶屋浪速屋に飲む」(同年十一月一日)といった具合だ。
 そして戦後。
 「午後常盤座楽屋。或新聞社写真記者あり。その請ふに任せ、女優桜むつ子高清子其他七八人と一座にて撮影す」(昭和二十三年四月二十日)
 「薄暮常盤座楽屋。偶然戦争前オペラ館女優なりし西川千代美に逢ふ。伊豆伊東にて踊師匠をなし居れりと云。桜むつ子高清子等と福島に喫茶してかへる」(同年十二月二十三日)
 高清子は大正二年浅草の生まれで、エノケン一座の看板女優だった時期もあり、荷風の日記にあるようにオペラ館でも活躍している。戦後も常盤座や日劇小劇場で活動をつづけている。
 どうしてそれほど彼女にこだわるのか、日劇ミュージックホールとさほどの関係があるとも思えないのにといぶかしむ向きもあるかもしれない。
 じつは高清子はジプシー・ローズの内縁の夫だった正邦乙彦の正妻だった。彼女と正邦はおなじエノケン一座の座員で、昭和十年十月座長の媒酌で結婚式を挙げている。
 というわけで高清子についてはかねてから気になる存在だった。
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by yumenonokoriga | 2014-01-10 10:34 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

ニフウ先生

a0248606_9554573.jpg 永井荷風『断腸亭日乗』には日劇ミュージックホールの記事はない。もともと派手でお高くとまっているようなイメージの銀座に対してすがれた風情の浅草への思い入れがあった荷風である。
 ただしミュージックホールの前身、日劇小劇場には何度か足を運んでいる。
「午後日本劇場五階楽屋に桜むつ子を訪ふ」(昭和二十四年二月二十二日)
 「午後銀座。日劇五階の演芸を看る」(昭和二十五年一月二十三日)
 「燈刻銀座買物。偶然日劇五階出演の踊子等に会ひ不二屋に少憩してかへる」(昭和二十五年二月二日)
 おなじく三月九日の夕方には日劇五階楽屋にいて、踊り子たちと銀座で食事をして帰っているし十月十七日と二十八日にもここを訪れている。ただしこれ以後小劇場を訪れた記事はない。
 桜むつ子(写真)は荷風ひいきの女優で、名脇役として小津安二郎の映画などで活躍したのはご承知のとおり。
 近藤啓太郎『裸の女神』によると荷風はジプシー・ローズとも面識があった。ロック座のスターだった園はるみがジプシーを食事に誘って楽屋を出るとそこに荷風が待ちかまえていて三人で仲店通りの森永で食事をした。
「いったい、どこの親父よ」「あんまり変なの、紹介しないでよ」とジプシーが園はるみに小声で文句を言うと、彼女は「こちら永井ニフウ先生よ」と紹介した。ジプシーはカフウじゃなかったかしらと思ったものの自信もなく「あら、ニフウ先生でしたの。お名前はよく知ってましたわ」と挨拶したという。荷風は上機嫌で「さあ、何を食べます?・・・・・・わたしはお子さまランチ」。
 ロック座支配人だった仲澤清太郎は自分の知っているかぎりではカフウをニフウと言っている踊り子はいなかったと証言しているが、『裸の女神』ではロック座のスターがニフウと口にしている。ただしここにある、園はるみと荷風、ジプシーのやりとりが何を以て典拠としているかはさだかではない。
 ニフウをめぐってはもうひとつ、橋本与志夫『ヌードさん』に、荷風がロック座で踊っていたナミジ笑をひいきにしており、彼女が「ニフウさん、ニフウさん」と呼んでいて、当の荷風も満足げに微笑んでいたのが印象的だったとある。橋本与志夫の実見にもとづく話だろう。
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by yumenonokoriga | 2014-01-05 09:27 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)