夕雨子の鞄

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 三浦哲郎の連作小説集『夕雨子』は「父恋うる夕雨子」「愁い多き夕雨子」「風花のなかの夕雨子」「風薫る五月の夕雨子」「晩夏を飛ぶ夕雨子」「巣に帰る夕雨子」の六篇からなっている。「小説現代」昭和四十四年八月号に「父恋うる夕雨子」が掲載され、同誌昭和四十六年五月号の「巣に帰る夕雨子」(原題「旅に病む夕雨子」)で完結し、そのあと単行本として刊行された。
 単行本のあとがきで作者は「断るまでもないことだが、私が一緒に旅をした踊り子がそのまま小説のなかの夕雨子ではない。夕雨子は、私の心に棲む踊り子である」と述べている。
 夕雨子は三浦哲郎が「一緒に旅をした踊り子」を通して創りだされた踊り子にほかならない。その点を確認したうえで、「一緒に旅をした踊り子」がのちに日劇ミュージックホールの舞台に立った水原まゆみだったのがファンにはうれしく、彼女を通してこの創作集が生まれたことを言祝ぎたい。
 「父恋うる夕雨子」から十年余りのちの昭和五十五年に水原まゆみは自著「こんな男と暮してみたい」(東京白川書院)を刊行した。そのとき『忍ぶ川』で芥川賞を受賞した作家は序文に「夕雨子の衣装鞄」を寄せて「まゆみさんの口癖の一つに、〈裸はあたしの衣装〉というのがある。そんな踊り子の鞄など、小指一本あればたくさんと、高をくくっていたのが間違いであった。裸になるための衣装や旅先のバンドに配る楽譜などで、ぴんとふくらんだあの衣装鞄の重かったこと!」とあの旅を回想している。そして、鞄には、旅の踊り子が心に担った荷も含まれていて、その重たさをたよりに書いたのが『夕雨子』だったと創作にあたっての心の裡をかいま見せてくれている。
 昭和四十年代はまだ地方のキャバレーやナイトクラブでも生バンドが演奏していて、踊り子が楽譜を配っていたところに時代が窺われる。当時でもバンドのいないクラブもあったが、レコードで踊るのは味気ないと作中で夕雨子は思う。いまはそんな贅沢を言っていられない。CD一枚でことたりる。いや、そもそもキャバレーやナイトクラブという仕事場がなくなっている。
 日劇ミュージックホールの閉場とキャバレーやナイトクラブの衰退とは相関関係にあったようだ。
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by yumenonokoriga | 2014-02-25 11:48 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

正邦乙彦と吉行淳之介の対談

a0248606_112478.jpg kawaさんという方から「正邦乙彦氏は吉行淳之介と対談しています。(アサヒ芸能連載・「粋談」・文庫「浮世対談」?吉行には「踊り子」(1981年)もあります。」というコメントをいただいた。
 「踊り子」は吉行淳之介の著書『私の東京物語』に収められていて、本ブログでも資料として用いているが、正邦と吉行の対談は知らなかったので調べてみたところ「アサヒ芸能」誌上で昭和四十二年十二月八日に「ヌードは遠くなりにけり」と題して行われていた。
 その道で名高い方々を迎えた一連の対談は集成されて昭和四十六年に三笠書房から『吉行淳之介対談 浮世草子』として刊行され、のち昭和五十一年に番町書房が『粋談』と改めて出している。筆者の手許にあるのは昭和五十五年刊の集英社文庫で書名は三笠書房版におなじ。kawaさんありがとうございます。
 帝都座の額縁ショーで戦後第一号のハダカになった甲斐美春は日劇の案内ガールをしていて、一日八百円のギャラでスカウトしたと正邦が言えば、吉行が、ぼくはそのころ、女学校の講師で一週に二度出講して月給が四百円だった、それくらいハダカはたいへんだったと応じる。
 そうして、あの時代、気がよくて、人がよくて、ある意味ではバカで、またバカでないとハダカにはなれなかった、そのバカが男にだまされ、ヒロポンを打ち、ポン中になるといった時代の断面を正邦は語っているが、行き着くところはジプシーローズで、対談はこんなふうにつづく。
 〈吉行「気はよかったんでしょう」
 正邦「気はいい。こんなに気のいいコはなかったですね。もう天衣無縫という か、赤ん坊みたいだった。これはだれにも話したことはないけど、ジプシーに は、乳首が四つあったんです。
 吉行「ふつうの二つのほかに。小さいやつが・・・・・・。」〉
 日比谷の日劇ミュージックホールが閉場したとき正邦乙彦はNHKの特番に出演してジプシーローズの思い出を語っていた。『対談浮世草紙』の紹介に大正四年(一九一五年)大阪市生まれとある正邦のその後の消息は知らない。
 どなたかご存知の方がいらっしゃれば教えて下さい。
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by yumenonokoriga | 2014-02-20 08:53 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

トニー谷の傲慢とさびしんぼう

a0248606_932297.jpg 色事師のたたずまいを露悪的に漂わせたトニー谷は、それだけで世間の反感を呼びやすいが、どうも楽屋内でも評判は芳しくなかったようで、共演者、スタッフ相手に威張りちらし、わがもの顔に振る舞ったことへの反感は大きかった。
 人気絶頂期の傲慢は柳家金語楼や古川ロッパ等先輩芸人への敬意を欠いたため喜劇人仲間からも疎んぜられた。無名時代の花登筺はOSミュージックホールで幕間コントの構成演出を担当していて、人気絶頂のトニー谷が出演するというので、徹夜で新しいギャグを考えて脚本を持参したところ彼は「客は君の脚本でくるのじゃない。トニー谷の名前で来るのだ。脚本なんていらないよ」と花登の目の前で脚本を破り捨てたという。 (花登筺『私の裏切り裏切られ史』)
 村松友視『トニー谷ざんす』に、昭和二十年代後半つまりトニー谷の全盛期のころのエピソードがある。語るのは村田正雄という当時トニー谷といっしょに舞台に出演していた役者である。
〈当時ミュージック・ホールにね、吾妻京子という僕が惚れていた踊り子がい ましてね。大阪のミュージック・ホールに行ったとき、同じヌード・ダンサー の伊吹マリが仲を取り持ってくれた。で、みんなで「大和」っていうお茶屋に 招待されて行ったとき、伊吹マリが「京ちゃん、宿で待ってるから」と大阪へ 行くといつも泊る「北八」という宿で、吾妻京子が僕を待ってるっていうわけ ですね。でも、招待された席だし、なかなか席を立つことができなくって、そ うしたらいつの間にかトニーがいなくなっちゃった。「北八」に行っちゃって ね、僕を待ってる彼女をしちゃって帰って来るんですよ。伊吹マリと僕の話を 聞いてたんですね。そういったことを平気でやるんですよね、ええ。〉
 こうして傍若無人の話にはこと欠かないトニー谷だが、これらの振る舞いを世渡りの下手なさびしがりやの所行と見ていたのがメリー松原で、『トニー谷ざんす』で彼女はこんなふうに語っている。
〈本人は非常に神経質ですよ、本質的に。それでさびしがりやで、涙もろくて。人に嫌われるのは、いわゆる日本の芸能界というのは封建的で、先輩・後輩のしきたりがうるさいでしょう。そういうのを一切無視しちゃった人なんです。だから世渡りが下手なんですよね。〉
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by yumenonokoriga | 2014-02-19 08:48 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

トニー谷

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 昭和二十五年三月、仙台の児童養護施設を「脱走」して上京した井上ひさしは日劇小劇場の舞台を観て夢のようなひとときを過ごし、これを機にメリー松原は美の女神となった。コメディアンではトニー戸村が印象に残ったという。のちのトニー谷で、改名以前から目立った存在だったことがうかがわれる。
 ながらく日劇のプロデューサーと演出家を務めた山本紫朗はコメディアンの出世の階梯をつぎのように語っている。
〈浅草でやって、浅草から新宿へ来て、新宿から例えば日劇ミュージックホールへ来て、ミュージックホールから日劇へおりるという、そういうパターンがあったんだけど、今は小さい舞台もないし、日劇という目指す桧舞台もなくなっちゃった。今はもう、いきなりテレビですからね、テレビでちょっと目立ったことやりゃあ、すぐ食いついてくる。日劇がなくなったということは、あらゆる意味から考えて、日本のショウビジネスというものを駄目にしていくことになるでしょうね。〉(和田誠『ビギン・ザ・ビギン』)
 トニー谷はミュージックホールが生んだ有名コメディアンだが、上の出世の階梯からははみ出している。多くの喜劇人のスタートラインだった浅草がこの人にはない。そこの舞台に立ったことはあっても浅草と結ぶイメージはない。浅草の生んだ関敬六や渥美清と比較すれば一目瞭然だろう。異例、異色のコメディアンである。そうして世間の反感を買った点においても特筆される。
 矢野誠一の表現を借りると「キンキラキンの、チンドン屋だって尻ごみしそうな派手なタキシードに身をかため、どこで見つけてきたのか太い黒縁の逆三角形の珍奇な眼鏡、それに口髭と、気障の国から気障をひろめに来たようないでたちは、客を唖然とさせ」「あまりにもアクが強いため、心ある識者から顰蹙を買ったものだが、安っぽくアメリカナイズされたその藝は、占領下ならではの軽薄さが横溢していて、ある時代を確実に象徴していた」のだった。
 昭和六十二年七月十六日に亡くなったとき、ある新聞に「ソロバン片手に『さいざんす』」と見出しが付いた。「レディス・アンド・ジェントルマン・アンド・おとっつあん、おっかさん、おこんばんわ」と登場していかがわしさとキザをふりまいた。観客はその舞台に笑いながら占領期日本が生んだあだ花に反感を抱いた。
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by yumenonokoriga | 2014-02-10 09:11 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「過酸化マンガン水の夢」

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谷崎潤一郎が昭和三十年十月に書いた「過酸化マンガン水の夢」はこの年八月に熱海から数日間上京した折りのことを書いた日記、雑感、私小説といった要素を併せ持つ作品で、日劇ミュージックホール、シモーヌ・シニョレ主演の映画「悪魔のやうな女」などが話題にされ、それらが夢にあらわれて怪奇や幻想となってゆく相が描かれている。小説や戯曲が成立する一歩手前にある作家の想念や妄念が語られていて、谷崎の文学が生まれる過程を考えるうえで興味深いけれど、ここではミュージックホールに焦点をあてて見ておくこととする。
 上京したのは「予、家人、珠子さん、フジの四人」で、かねてより松子夫人と珠子さん(夫人の妹)から女だけでは入りにくいミュージックホールへ連れて行ってくれるようリクエストがあり、谷崎は「女の観客は稀にパンパンが外人同伴で来てゐる程度で、夫人令嬢はめつたに見かけたことがないからまあ止したほうが宜しからん」と断っていたそうだが、今回はそうもゆかず婦人連れのミュージックホール出遊となった。もっとも遊びのたのしさはなく、一番後列のなるべく目につかない座席を指定しての観劇で、見渡したところ女性客はアメリカ人らしい男女のカップルとGIが連れたパンパンとおぼしき人たち以外はいなかった。
 このときの公演は「誘惑の愉しみ」で、公演リストによればRテンプルがトップで、ジプシーローズ、桜洋子、春川ますみが名を列ねている。
 ジプシーローズについて谷崎は、ここのプリマドンナらしいけれどもやや老けており、身体に脂肪が付きすぎているのと混血らしい容貌が自分の趣味に合わないとしたうえで、いちばん魅せられたのは春川ますみであり、その根拠を「昨今日本にもかやうに胸部と臀部の発達した肉体は珍しくないが、予は総じて猫のやうな感じのする顔、往年のシモーン・シモン(写真)式の顔の持主にあらざれば左程愛着を感ぜざるなり」と述べている。
 ジプシーローズについての感想は松子夫人には語っているのに、春川ますみに魅せられたことは「このこと家人には語らず心中ひとり左様に思ひしのみ」なのがほほえましい。
 ほどなくして谷崎の夢に春川ますみがあらわれる。前夜に食した牡丹鱧と彼女が結びついて「鱧の真つ白な肉から、浴槽の中で體ぢゆうの彼方此方を洗つてゐた」春川ますみの連想が浮かぶ。
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by yumenonokoriga | 2014-02-05 10:38 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)