『ビギン・ザ・ビギン』

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 和田誠『ビギン・ザ・ビギン』は著者の伯父で日劇のショーの構成、演出者だった山本紫朗への聞き書きを核としてこの劇場のあゆみを語った名著である。副題「日本ショウビジネス楽屋口」。
 「オール讀物」一九八一年四月号から一年二か月にわたる連載が初出で、そのとちゅうまさかの日劇の取り壊し決定と日劇ダンシングチームのさよなら公演が重なったために同劇場とNDTへの挽歌となった。
 大劇場についての本だからミュージックホールについてはほとんど触れられていない。できれば丸尾長顕や岡田恵吉等歴代の演出家やスターダンサーへのインタビューを基にした『ビギン・ザ・ビギン』ミュージックホール・ヴァージョンが欲しいところだが、いまとなっては叶わない。せめてどこかの出版社が小浜奈々子や松永てるほ、岬マコたちへのインタビューを企画してくれないものかと願っておきたい。
 それはともかく山本紫朗があつかうのは大劇場のショーだったが、おなじ日劇だからすこしはミュージックホールとも関係するばあいがある。
〈進駐軍で江利チエミも雪村いづみも聴いてるよ。うまいのが進駐軍で歌っているって評判を聞くと、見に行くんだ。進駐軍だから前からは見られない。マネージャーなんか裏にいたから、一緒について行って裏から見る。ついでに珍しいものを食わせて貰って帰るんだ。〉
 やがて雪村いづみはミュージックホールの舞台を踏む。
〈初舞台は日劇ミュージックホールなのよ。市村ブーちゃん(俊幸〉なんかが出た「サンマー・スキャンダル」(一九五二年七月)っていうの。〉
〈そのミュージックホールがきっかけで木倉(博恭)さんに世話してもらって進駐軍。朝五時に新宿の南口に集まって、トラックに乗せられて、舗装してないほこりだらけの道路をガタガタ走って進駐軍のキャンプへ行くの。今じゃ信じられない光景よね。〉
〈日劇の楽屋って空気が悪くて、日劇に出るたんびにのどをやられるのよ。それでも日劇は楽しかったなあ。ミュージックホールに出てる時もね、トントントンて裏の階段降りて、日劇で映画観たり、袖から根岸明美さんが踊っているの観たりしたの。〉
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by yumenonokoriga | 2014-03-30 08:16 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「東京のイヴ」のあとに

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「東京のイヴ」のあと日劇ミュージックホールは再出発公演「ラブ・ハーバー」でハダカを復活させた。もっともヌード陣は個人名ではなく「ミュージックホール・ニンフ」と呼ばれていた。メンバーは五人。「ヌード再登場」という宣伝が効を奏した。やはりハダカは強かった。
 つづいての公演「ジャングル・ラブ」ではヌード陣をさらに前面に立てる作戦を採り、「ヌードの殿堂」路線が固まった。やはり背に腹はかえられなかった。ヌードはR・テンプル、アニタ・バリ(「第三の男」のアリダ・バリの向こうを張ったのだろう)の名がある。
 ミュージックホール第一期の黄金時代を築いた三大スター伊吹マリ、メリー松原、ヒロセ元美が登場するのは七月末からの第五回公演「サマースキャンダル」からで、三人はいずれもストリップ界のスターだったのが、丸尾の引き抜きでミュージックホール入りしたのだった。
 「サマースキャンダル」の舞台稽古がおこなわれていた七月二十日この三人のダンサーが連名で「ストリップ廃業、新しいヌード芸術に邁進する」との声明を発した。
 「私たちは新らしいヌード芸術に邁進し、これを高い芸術にまでエレベートしたい希望に燃えています。幸いミュージックホールが私たちの希望を歓迎、その出演の機会を与えて下さいました。当分日劇ミュージックホールを本拠として再出発するつもりでおります」。
 オーナー小林一三のストリップ追放の意向を汲みながら、しかしハダカは必要だった。そこで考案された「理屈」がストリップを廃してヌードダンサーを迎え入れるというものだった。ヌードとストリップ、女性のハダカという点ではたいしたちがいはない。ある人は目くそが鼻くそを嗤うようなものだと評したとか。しかしミュージックホールをなんとかして軌道に乗せなければならない、声明はそのための話題づくりの意図が透けて見える。この作戦は劇場運営の中心人物である丸尾長顕によって仕組まれたものだった。三人はいずれ劣らぬ斯界のスターであり、その上にヌード宣言の作戦が効を奏したのであろう、「サマースキャンダル」は大入り満員となった。
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by yumenonokoriga | 2014-03-25 08:05 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「東京のイヴ」

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越路吹雪の宝塚最後の舞台は昭和二十六年(一九五一年)四月の「春のおどり」で、同年の六月帝劇の「マダム貞奴」に出たあと東宝に移籍した。東宝専属第一回として十一月に日劇、十二月に帝劇、二本の映画にも出演している。
 翌年には一月と四月に日劇、三月に日劇ミュージックホールに出演。ラジオ「愉快な仲間」(NHK)で藤山一郎、森繁久弥と共演、レギュラーとなった。もちろん映画出演も続いている。という具合に相当なハードスケジュールだ。
 多忙ななかでのミュージックホールへの出演だが、このときの公演は「東京のイヴ」、日劇小劇場改め日劇ミュージックホールのこけら落としだった。
 主演スターは越路吹雪のほかにジャズの水島早苗、バレエの松山樹子、NDTの福田富子など錚々たるメンバーが顔をそろえている。美術スタッフには岡本太郎の名もある。小林一三の意向でストリッパーを使わずスターの背景にはヌードのマヌカンを配置するようにした。
 昭和二十七年三月十五日、日劇ミュージックホールはハダカのない娯楽の殿堂として新装開場した。ところが四百人定員の観客席はパラパラと見物が座っているだけで無惨な不入りだった。四百人定員の劇場で一日三回公演だから千二百人の動員が目標のところへ二百人しか入らない。三月二十七日には三回合わせて百三十人という記録的不入りとなった。入場料指定席六百円普通席五百円も当時としては高かったがそれよりもショーの内容に問題がありというか、要はハダカを軽視したことが客を呼べない最大の理由だった。ひと月公演の予定を半月で打ち切り再度閉場して二回目の公演で再起を期すこととなった。
 「東京のイヴ」があえなく敗北して捲土重来を期す指揮には丸尾長顕があたった。再起の方針は第一にヌードの重視。「第一回の公演では、岡田君が上品に、ただ舞台の飾り物としてヌードを利用しただけである。それをもう少し活躍させようというのだ」と丸尾はのちに語っている。そしてもうひとつはコメディアンを活躍させようとするものだった。
 四月二十五日ミュージックホールは丸尾長顕構成、岡田恵吉演出「ラブ・ハーバー」で再出発した。入場料は値下げされて指定席四百円、普通席三百円。ただしこの舞台のプログラム上の主役はNDTの選抜チームである。このメンバーのなかにのちに女優となる根岸明美がいた。ハダカは復活したが未だ「ヌードの殿堂」ではなかった。
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by yumenonokoriga | 2014-03-20 08:30 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ミュージックホール開場当時の二枚の写真

 先月シネスイッチ銀座でフランソワ・オゾン監督の新作「十七歳」を観た折り、廊下にむかしの銀座の写真が数葉架けられてあるのに気づき、そのうちの二枚をiPhoneに収めさせていただいた。

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 ひとつは日劇の光景で、看板には「ヌードの秋来る!!」「本邦空前の大壮観」「ヌード芸術の大公開」といったミュージックホールのコマーシャルを打ってある。隣には黒澤明監督「生きる」の公開迫るという垂れ幕があり、この映画は昭和二十七年(一九五二年)十月九日に封切られていることからおのずと写真が撮られた時期が知れる。ちなみにミュージックホールが開場したのはこの年の三月十七日だった。
 「生きる」が公開されたころのミュージックホールの舞台は八月二十七日から九月二十三日が「夜も昼も」、九月二十六日から十一月三日が「恋愛15の愉しみ」で、いずれも伊吹まり、ヒロセ元美、メリー松原の「御三家」が出演している。 写真にあるコマーシャルはおそらく「恋愛15の愉しみ」を前にしたものだろう。
 もう一枚は帝国劇場で越路吹雪が主演した「マダム貞奴」の立て看板の写真で、昭和二十六年六月一日から二十六日にかけての公演だったからこちらも時期がわかる。川上音二郎とともに欧米にも巡業した元大女優は昭和二十一年に熱海の別荘で亡くなっており(享年七十五)舞台は死去後さほどの時間が経っていないころのものだった。

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 「マダム貞奴」のあとコーちゃんは東宝と契約して移籍した。宝塚のスターから東宝の専属スターとなった越路吹雪は「マダム貞奴」の翌年三月、日劇五階の日劇小劇場あらため新装なった日劇ミュージックホールのこけら落とし「東京のイヴ」の舞台に立った。
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by yumenonokoriga | 2014-03-15 08:54 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

井上ソノと水原まゆみ

a0248606_10493021.jpg 先年、家族で浅草のお好み焼き屋、染太郎で食事をしたあとおなじ浅草の古本屋で『浅草 染太郎の世界』を見て、吉日の御縁と思いさっそく購入した。昭和五十八年にかのう書房から刊行された本書は、染太郎のおかみさん崎本はるの米寿を寿ぐ文集で、多数のゆかりの人たちによる回想や逸話が寄せられている。なかに「井上ソノ・水原まゆみ」名義の「父の匂い 浅草の匂い」が収めてあるのが日劇ミュージックホールのファンとしてはうれしい。
 まずは「父の匂い 浅草の匂い」にある染太郎の由来。
 昭和十二年(一九三七年)盧溝橋での日中両軍の衝突にはじまる日中戦争にともない、崎本はるの亭主で漫才師の林家染太郎が応召され、はるは幼い息子と二人で留守を守らなければならなくなる。ブラブラしていているのも能がない思っていたところに、自宅の二階を稽古場に貸していた剣劇一座の座付作家から、元手のかからないお好み焼き屋でもはじめたらどう、とすすめられ自宅の一階に開業したのが染太郎だった。
 この「剣劇一座の座付作家」が井上光(愛称ピカちゃん)で、その恋人が常磐座のレビューガールで芸名小桜信子、すなわち井上ソノである。
 井上光は戦争中に胸を悪くして早逝したが、二人のあいだの一粒種が井上悠子すなわち水原まゆみである。井上光は高見順に傾倒しており、浅草を舞台に小説を書きたいという高見を案内して廻ったのもピカちゃんで、井上ソノもそうした縁で高見順を知った。『如何なる星の下に』の元レビューガールで染太郎で働く峰美佐子は井上ソノをモデルにしている。
 「父の匂い 浅草の匂い」にはミュージックホールの踊り子たちの消息も見えている。
〈ミュージックホールの仲間とは、浅草の仲見世に、舞台で必要な小道具、かんざし、化粧品をよく買いに出かけた。その帰り、なんどか「染太郎」へ同期の岬マコ、舞悦子、野々村美樹のみなさんと寄った。〉
〈浅草のヌード劇場、ロック座から日劇ミュージックホールに移った高見緋紗子さんは、ロック座時代、ファンと連れだってよく「染太郎」へ出かけたそうである。染太郎という名前は、ほとんどの踊り子が知っていて、その浸透力には、やはり歴史を感じずにはいられない。〉
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by yumenonokoriga | 2014-03-10 08:47 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

夕雨子の哀歓

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 三浦哲郎『夕雨子』の踊り子は盛り場のステージで酔客を相手に裸身をさらす流浪の芸人だ。彼女のステージでの名前は立川さゆり。
 北海道のS町の華やかとはいいかねるナイトクラブのステージに立つ夜、クラブのマスターはホステスたちに彼女を「こちらは今夜からのショウに出演するダンサーの立川さゆりさん。(中略)日劇ミュージックで(ホールとはいわないが、そういえばウロ覚えの地方人たちが有難がるからで)魅惑のダンサーと呼ばれている一流の踊り子さんです」と紹介した。
 夕雨子のモデルが水原まゆみで、のちにミュージックホールのダンサーとなったことはここでは関係なく、日劇ミュージック云々もマスターの口からでまかせである。たとえ東京の有名な劇場で踊っていたとしても地方のクラブではなんの利点もない。ギャラが高いのだからたまにはAでやってくれてもいいではないか、とくる。業界でAはオールヌード、Bはセミヌード、Cはヌードではなく踊りを見せるダンサーとの由。
 夕雨子はとてもAで踊る気にはなれない。それは勘弁してほしいと頼むと、ならばステージのあいまにはなるべく客席へ出てくれと催促される。つまりホステスとしても働けというわけだ。北の海を鬱陶しい気持で見つめながらる二度と来るところではないとは思う。しかし所属するプロダクションがその気持を汲んでくれるとは限らない。
 重苦しさと煩わしさの避けられない身でもステージに立つときは別だ。
〈出の直前の数秒間、早打ちの胸の鼓動でいえばわずか十を数えるほどの間が、夕雨子には、おととしの春、初めて伊豆長岡のちいさな店で乳房をライトに曝したとき以来、一向に馴れない厭な時間であった。けれども、そんな厭な時間があるからこそ、セリが昇りはじめて、目も眩むようなライトを浴びながら闇のなかに浮び上がっていくときの恍惚は、えもいわれないのかもしれない。
夕雨子は、ただこの一瞬のために、自分は踊り子だと思うことがある。〉
 「この一瞬」のために東京では日々欠かさずレッスンを受けている。いずれ躰が衰えたとき、「この一瞬」が踊り子への未練を断ちがたくして煩悶するのではないかという気がする。
ここのところは作者は取材なしには書き得なかっただろうと想像している。水原まゆみの真情が吐露されていると思う。
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by yumenonokoriga | 2014-03-05 08:49 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)