シド・チャリシー

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 「バンドワゴン」に触発されて今回は番外篇としてシド・チャリシーを採りあげます。
 ハリウッドに脚線美をもたらしたのはミュージカル映画だった。サイレントからトーキーへ。スクリーンに音が加わりミュージカル映画はその申し子となった。『ハリウッド製チーズケーキ』のカメラマン、マディソン・S・レイシーはその興奮を「ミュージカルだ!レッグアートの道楽者の耳に音楽が新鮮に響いた。小さな衣装をつけた可愛い女たち。形のよい足首、シャープな脚線美、官能的なタイツ。レッグ、レッグ、レッグ!」と語っている。
 たとえば「ザッツ・エンターティンメント」で紹介される白黒版「雨に唄えば」などハリウッドの古いミュージカル映画を見ると、いまの基準からすればS・レイシーが興奮するほどには脚線の魅惑はなくむしろ「太め」。ただ女性の脚がこれほどもてはやされたのにはピアノの脚にもカバーを掛けていたという話があるほど厳格な性道徳を強要したビクトリア時代の影響から抜け出ようとする雰囲気が大きく作用していた。極端に言えば脚の恰好にかまっちゃいられない、脚を見せてくれる女性に見物客、カメラマン、新聞記者等々が群がった。おなかをすかせた二人の子どもを残して亭主に捨てられた女優はガーターを着けるか、シームのあるストッキングをはくだけで悲惨な境遇から抜け出すことができたとはおなじくS・レイシーの回想である。
 ビクトリアニズムから脱して、その後事態は二つの方向へと進展する。一つはスクリーンや舞台で魅力ある女性たちが脚線美をあらわし、男たちを魅了する。もう一つは脚線だけじゃなく身体のあらゆる部分をカメラの前でさらけ出すようになる。二つの方向はあるときまでは同時進行していたけれど、結局は後者が優位に立ったのは週刊誌のヌード写真を見るまでもない。
 しかし魅力ある女性たちが胸はあらわにしなくとも脚線美を披露してくれた時代は確実に存在した。その脚線美の時代、わたしにとって最高の存在はシド・チャリシーだ。そう、「バンドワゴン」や「絹の靴下」でフレッド・アステアとコンビを組んだ女優。「雨に唄えば」でジーン・ケリーの夢想の場面に登場する謎の美女。「バンドワゴン」中の「ダンシング・イン・ザ・ダーク」での優雅さ、「ガールハントバレー」での華麗な美しさは垂涎のシーンだ。美貌美肢シド・チャリシーの出演する全作品を見るのはわが夢のひとつだ。
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by yumenonokoriga | 2014-04-30 08:43 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「バンドワゴン」

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「バンドワゴン」。大好きなミュージカル映画であり、これまでもっとも回数を重ねて観た作品のひとつでもある。
 フレッド・アステアの至芸、オスカー・レヴァント、ナネット・ファブレイ、ジャック・ブッキャナン等達者な脇役陣、「ザッツ・エンタテインメント」「バイ・マイセルフ」「あなたと夜と音楽と」「サムシング・ツー・リメンバー・ユー・バイ」等の素敵なナンバー、そしてアステアとコンビを組んだシド・チャリシーの魅力・・・・・・こうして挙げているだけでミュージカルのたのしさを体感してしまうほどだ。
 日本での公開は一九五三年(昭和二十八年)の暮れで、映画、演劇、ジャズにわたる評論、また映画ポスターやグラフィックデザインにおいて優れた業績を遺した野口久光(1909-1994)がさっそく「NMH雑感 ファンとして一言」で、ミュージックホールとしてもこの「バンドワゴン」に学ぶように勧めている。
〈MGMの近作「バンドワゴン」をみた時に感じたところであるが、あの中のミュージカル・ナンバーのいくつか、たとえばミッキー・スピレーンのエロティックなスリラーをもじつた「女狩り」のナンバーなどはアイデアそのもの、装置、振付などにも、大いにNMHのシヨウの学んでよいところがあつたようにおもう。何も真似してほしいというのではないが、二時間のシヨウが時にやや長く感じるのはテンポの問題とともに内容的なものの不足をいつも感じるのである。〉
 文中の「女狩り」はラストに近い暗黒街での「ガール・ハント・バレー」のシーンで、私立探偵に扮したフレッド・アステアと真っ赤なドレスとハイヒール姿のシド・チャリシーがダイナミックな踊りで観客を魅惑し、圧倒する。大都会の高層ビルの谷間にある公園で二人がエレガントに踊る「ダンンシング・イン・ザ・ダーク」とならぶこの映画のもっとも有名な場面である。
 敬愛する野口久光さんが、大好きな「バンドワゴン」をミュージックホールに繋げてあるのを見るとそれだけでうれしい気分だ。
 上の提案がどれほど取り入れられ、活かされたかはわからないけれど、演出陣には示唆に富むものとして受けとめられたと信じたい。
 それにしてもいちどミュージックホールの舞台で「ガール・ハント・バレー」を見てみたかった。
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by yumenonokoriga | 2014-04-25 08:54 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

一条さゆりのオーディション

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 一条さゆりは、はじめ日劇ミュージックホールのオーディションを受けたが、身長がすこし足らず不採用になったと語っていた。駒田信二『一条さゆりの性』にも加藤詩子『一条さゆりの真実』にもそれを証する具体的な記述はないけれど、あるいは応募したことはあったのかもしれない。
ミュージックホールがダンサーを雇う際に身長の基準を設けていたかどうかはわからない。仮にあったとすればどれくらいを目安にしていたのだろう。ひとつの参考として日劇ダンシングチーム(NDT)のばあいを見てみよう。
 今和次郎『考現学入門』(ちくま文庫)に「レビュー試験場はさまざまである」というルポが収められている。これには一九三八年十二月の日付があり、ずいぶんむかしのはなしになるが、ここに日劇ダンシングチームの募集文が紹介されていて、それによると女子研究生は「十七歳まで、身長五尺二寸以上」とある。つまり戦前の日劇のレビューガールについては百五十六センチ以上がひとつの目安になっていたようだ。ついでながら男子研究生は「十九歳まで身長五尺四寸以上」だった。
 余談だが谷崎潤一郎の晩年の傑作『瘋癲老人日記』に登場する颯子さんは元NDTのダンサーという設定で、彼女について瘋癲老人は「颯子ハ予ヨリモ一寸三分高く、一六一センチ五ミリアル」としるしている。
 日劇ミュージックホールのパンフレットにはふつうダンサーのサイズは載せていないが、手許に一冊だけ身長とスリーサイズを載せてくれているのがある。一九七二年十一、十二月公演「女は黙ってガンバラなくちゃ」のパンフレットによると日本人ダンサーのなかで長身は松永てるほと浅茅けいこの百六十八センチ、いっぽうに百五十七センチの渡エリカや百五十八センチ野々村美樹がいる。公称の数字として多少のサバを織り込んでいたかもしれないが「身長五尺二寸以上」といった目安がここでも活用されていた可能性はある。
 『一条さゆりの性』によれば彼女の身長は百五十六センチ、B九十二、W六十、H九十二とある。渡エリカの百五十七センチと一センチちがいで「身長がすこし足らず不採用になった」のがみょうにリアリティを帯びてくる。
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by yumenonokoriga | 2014-04-20 06:44 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

一条さゆりの夢

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 加藤詩子『一条さゆりの真実』によれば、晩年の一条さゆりは現役時代を回想して「きれーな羽つけて踊ってねー・・・・・・」と口にしていたという。
 ローソクショーで名を揚げた彼女が、郷愁として思い出すのは踊り子になりたてのころの自身の姿だった。羽飾りのついた衣装でマンボに合わせて踊って、だんだん脱いでいって、最後にバタフライひとつになったところで、さっと外すと舞台が暗転する、これがそのころの彼女の舞台だったという。
 踊り子としてはじめて舞台に上がったのがいつだったのかははっきりしないけれど、加藤詩子は昭和三十三年ころと見当をつけている。たしかなのは、岐阜簡易裁判所で猥褻としてはじめて罰金刑を受けたのが昭和三十八年六月五日のことで、このころ名古屋、岐阜の警察は舞台でのヘアー露出には特にうるさかったという。そのかん彼女の逮捕歴は回を重ね、舞台での「猥褻度」はエスカレートしていき、その行き着いた果てがローソクショーであった。
 ここで彼女は俄然注目された。昭和四十六年のことで、これには駒田信二の小説が与って大きかった。悲しい過去を背負った伝説的ストリッパーの誕生である。こうして彼女は絶頂期を迎えたが、しあわせな時期であったかどうかについては加藤詩子は否定的な見方をしていて、彼女の踊り子人生の中では羽飾りをつけて踊っていたころが一番楽しかったのではないかと述べている。また、一条さゆり自身も大やけどを負ったとき「ベッドの中で朦朧とした意識で痛みと闘っている時に、そんな華やかな羽の衣装で踊っていた頃の自分が、走馬燈のように夢の中で出てきた」と語っていたという。
 一条さゆりが「きれーな羽つけて踊って」いたのは踊り子になってほんのわずかの期間だった。乳房は出しても乳首は隠され、下は脱がないといった時代、いわば牧歌的なストリップの時代は終焉を告げ、いわゆる「特出し」の時代がはじまろうとしていた。つまり、彼女が踊り子になったころすでにストリップ劇場で羽をつけて踊れる時代は終わろうとしていた。日劇ミュージックホールというたったひとつの劇場を除いては。
こうした文脈のなかで、ミュージックホールのオーディションを受けたとか、ここで踊っていたとかの彼女の言葉を思うと、ここには彼女の見果てぬ夢があったと考えられる。羽飾りに憧れながら、しかし自身が演じていたのは「特出しの女王」だった。     
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by yumenonokoriga | 2014-04-15 08:25 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

『一条さゆりの真実』

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 一条さゆりについては加藤詩子『一条さゆりの真実』(新潮社)というすぐれた長編ルポルタージュがある。著者は、晩年釜が崎で闘病生活を送っていた一条さゆりを知り、そこで聞き出した彼女の人生行路をしるしたうえで、関係者へのインタビューなどをつうじて語られた内容の真否を検証した。
 結果は副題に「虚実のはざまを生きた女」とあるように、一条さゆりの語った中味はほとんどといってよいほどに脚色されていたことを明らかにしていて、本書により駒田信二『一条さゆりの性』に基づく一条さゆり伝説は大きく修正されなくてはならなくなった。
 ならば彼女が日劇ミュージックホールを受けた云々のはなしはどうだったのだろう。たとえ嘘だとしても、どうしてそのことを語ったのか、彼女にとって日劇ミュージックホールとは何だったのかの問題は残る。
 一条さゆりがはじめてダンサーとして舞台に立ったのは銀座のキャバレー、ショーボートだとされている。昭和三十二、三年ころのはなしだ。ただし『一条さゆりの真実』によるとショーボートではダンサーではなくホステスだったらしい。
加藤詩子は「ショーボート時代に彼女が踊りに興味を持ち、ストリップのステージになるきっかけがあった」と推測している。その傍証として彼女のさまざまな虚言が挙げられており、ここにも日劇ミュージックホールが登場する。
 〈最初はホステスだったものの、後に試験を受けて専属ダンサーになったとも語っているが、このことの信憑性は乏しく思える。なぜなら彼女はその後日劇ミュージックホールでも踊っていたとしており、これはダンサーとしては゛エリートコース゛でもあるので、そこに彼女の願望が多少含まれていたとしてもおかしくはないからだ。〉
駒田信二『一条さゆりの性』で彼女は日劇ミュージックホールを受けたが身長が足りなかったため採用されなかったと語っていたのであったが、別のところではなんと日劇ミュージックホールで踊っていたと話していたのだった。
 日劇出身、宝塚の研究生まで行った、SKDのポスターを見てこの子とはいっしょに踊ってた・・・・・・虚言癖といえばそれまでだが、ここにははからずも一条さゆりの憧れが吐露されているように思われる。彼女がほんとうにやりたかったのはローソクショーなんかではなくて、レビューというショービジネスだったのである。   
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by yumenonokoriga | 2014-04-10 09:03 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

『一条さゆりの性』

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 中国文学者の駒田信二が一条さゆり(1939-1997)をめぐる連作小説を書き継いだのは昭和四十五年から四十八年にかけてで、これらの作品はのちに『一条さゆりの性』として上梓された。この本は小説と銘打たれてはいるが、一条さゆりの舞台に感動した作者がローソクベッドで一世を風靡した彼女からの聞き書きを多く採り入れて書いているため、読者の多くはこの伝説的ストリッパーの伝記として読んできたと思う。
 わたしは日劇ミュージックホールひとすじだったから一条さゆりの名は知ってはいたものの、舞台は見たこともないし、見たいとも思わなかった。ロウソクを何本か束ねて火をつけ、白い裸身に蝋がしたたり落ちるなか、彼女は身もだえし、興奮状態に陥り、性器を広げるそと愛液が分泌されているのを見て、駒田先生はじめ多くのファンは感動したという。
 彼女についてはミュージックホールとの関連で気がかりなことがらがある。
 いま手許にある『一条さゆりの性』(講談社文庫)の冒頭に彼女のプロフィールが紹介されている。もとは「ヌード・インテリジェンス」というストリップ専門誌にある記事だ。それによると彼女は「はじめ日劇ミュージックを受けたが、身長がすこし足らず不採用になった」というのだ。ただしミュージックホールを受けたいきさつやいつごろのことだったかとなるとまったく不明でなんの記述もない。
十九歳で、あるデパートのエレベーターガールとして採用され二年間勤めたが、知り合いの客の一人で芸能会社に勤める池田という男と結婚し退社した。ところがこの男が芸能ゴロで、彼女を銀座のショー・ボートというキャバレーのダンシングチームの踊り子として働かせる。妊娠してダンシングチームにいられなくなると虐待がはじまり、彼女は逃れようとしたがうまくいかず、池田の実家のある松山で芸者として座敷に出るようになった。自殺を試みて果たせなかったりしているうちに池田が死んで、それでも働かなくてはならないから名古屋の芸能社を頼って行きストリッパーとなった。子どもは埼玉にいる姉の養子にやった。
これが駒田先生しるすところのデビューまでのいきさつである。ニュースソースは一条さゆりその人である。ミュージックホールのオーディションを受けたとすればショー・ボートの踊り子になる前あたりだろうか。
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by yumenonokoriga | 2014-04-05 08:44 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)