小井戸秀宅

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 先年退職するまでわたしはテレビドラマをほとんど見なかった。例外としておぼえているのは市毛良枝が紀子に扮した「東京物語」だけで、嫌いというのではないけれど限られた時間とお金は映画や本に投入したい、となれば何かを断念しなくてはならず、なんとなくそんなふうになった。
 もうひとつ連続物のストーリーを毎日あるいは毎週追うのが鬱陶しいという事情がある。これは小さいときからの性癖で、反面「光子の窓」「夢であいましょう」「シャボン玉ホリディ」などのバラエティ番組は大好きだった。素敵なバラエティ番組の反面でストーリーを追っかけるのがいやになったらしい。そしてこれはわたしが日劇ミュージックホールのファンになった一因でもあった。あそこはストーリーを追う煩わしさがない。
 バラエティ番組を視聴するうちに出演者やスタッフのなかによく小井戸秀宅という名前を見かけた。えらく読み方のむつかしい名前で、「宅」を「家」に類推して勝手に「こいど・ひでや」と読んでいた。ネットで調べて、じつは「こいど・しゅうたく」、本名の読みは「こいど・ひでたけ」とあり、ようやく長年の疑問が解けた。
 いずれにせよその名前は脳裡に残っていて、のちに日劇ミュージックホールのパンフレットでその名前を見て、ああ、ここでも仕事してたんですねと、旧知に出会ったような気がした。
 一九三六年生まれの小井戸秀宅は二00四年に自身の軌跡を振り返って『人生は、ショータイム』(ブックマン社)という本を上梓している。ここではじめてこの人が日劇ミュージックホールのダンサーから出発した人であると知った。はじめ日劇ダンシングチームに入団する予定だったが叶わず、ミュージックホールに欠員があり、急遽五階の劇場に所属することになった。十九歳だった。
 一九七一年から九四年にかけて小井戸は井原高忠(「シャボン玉ホリデー」のプロデューサー)らとともに高級レストランシアター「赤坂コルドンブルー」の運営に携わっている。『人生は、ショータイム』の中味はこのコルドンブルーが中心で、ミュージックホールについてはさほど触れられていない。
 それに「若かった僕は、ダンサーのお姉様から引く手あまたでした」「いつも据え膳を食い散らかしていました」なんてあったりするのでうらやましさを通り越して・・・・・・いやですね、男の嫉妬。
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by yumenonokoriga | 2014-05-30 08:44 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

骨体美

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ある奥様が腰元や下男をつれて桜の盛りの花見に出かけた。腰元の一人が、ほんとうに見事な眺め、お歌でもお詠みなさいませんかと勧めるので、そうだねと一首詠んだのが「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春のにしきなりける」という歌。そこで腰元が、とてもよい歌ですのにどこを見わたしても桜ばかりで柳はとんとありませんと言う。すると奥様は「これ、わたしの腰を見なさいよ」。
 『古今和歌集』にある素性法師の歌を用いた江戸時代の小話であるが、当時にあっても柳腰志向、スレンダー美女へのあこがれがうかがわれる。
 『特別料理』でよく知られるスタンリー・エリンに「最後の一瓶」という短編がある。超レアなワインに大枚をはたこうとする客がいて、売り手のほうは年月が経ちすぎて傷んでいるかもしれないと売るのを躊躇する。買い手はそれを値段を吊り上げる作戦かと邪推してといったストーリーだが、なかで登場人物の一人が「若い娘に髪をながく垂らした骨体美をよしとする今日の標準からすれば、あるいはいくらか肉感的にすぎ、いくらかなまめかしい曲線美にすぎたかもしれないが、わたしは女性はなまめかしい曲線美にかぎると信じこんでいる旧弊な人間なのである」(矢野浩三郎訳)とその女性観を吐露する。
 一九六八年に発表された小説だから、華奢な体型とミニスカートで人気を誇ったツイッギーが意識されているだろう。こうして柳腰志向はその度合を高め骨体美にまで至り、社会は骨体美という美しさを発見したのだった。
 丸尾長顕は一九五九年(昭和三十四年)に刊行された『女体美』で、日劇ミュージックホールでもパリのフォーリー・ベルジュールでもヌードを舞台にもつ劇場はグラマー型、スレンダー型、中間型と、どの観客の嗜好にも応じられるようにしておかなければならないと述べている。また「肉体はすべて文化の洗礼を受けている」とも書いている。もちろん骨体美も文化の洗礼を受けた美であり、ミュージックホールも一定の対応を迫られたかもしれない。
 この時点で丸尾は男性の独善的な好みと断ったうえで「ヌードの脚が筋肉質でならぬように、私たちは舞踊のレッスンにも特別の注意を払っているのだが、現在の私たちの感覚からすれば、女性の筋肉発達は少し困るような気がする」と述べているが、やがてこの筋肉美も讃えられるようになる。
 こうして美は発見されてゆく。
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by yumenonokoriga | 2014-05-25 08:39 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

小浜奈々子、松永てるほ、岬マコさんにお目にかかりました②

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小浜奈々子、松永てるほ、岬マコさんにお目にかかったときの話しから、これまでの本欄の記事を修正もしくは補足しておかなければならない箇所がありますので以下述べておきます。
 まず昭和三十三年下着デザイナー鴨井羊子が監督した映画「女は下着でつくられる」の出演者としてわたしは小柳祥助『G線上のマリア』を典拠にジプシー・ローズ、奈良あけみ、小浜奈々子と列記していて、このときのことを小浜さんにお訊ねしたのですが、それにはわたしは出ていない、「まだぺーぺーだったから、とてもあの人たちとごいっしょするなんて」とおっしゃっていました。映画を観れば確認できることなのですが、まだ機会がなく、ここでは当事者の言葉を載せておきます。
 これに関連して、小浜さんはジプシー・ローズとおなじ楽屋だったとき、ジプシーが泥酔状態で、しかも冬だったからしきりにストーブへもたれかかろうとするので気が気じゃなかったとミュージックホールを去る直前のジプシー・ローズを語っていました。
 その小浜さんの最後の舞台となった「すべて乳房からはじまる」に、それまで行方知れずとされていたヒロセ元美がとつじょ振付のスタッフとしてパンフレットに載っていて、どういった事情があったのか質問したところ、小浜さん、松永さん、岬さん一様にそうした事実は知らなかったし、ヒロセ元美さんにはお会いしたこともないとおっしゃっていました。でも、たしかにスタッフに名前を列ねているので、どう考えたらよいのかとまどっていると、てるほさんから「もしかすると振付の担当が別の場所でヒロセさんから指導を受けていたのかも知れないし、あるいはヒロセさんが図示した振付をミュージックホールが買い取ったことも考えられますね」との話しがありました。
 それからわたしが探しあぐねている虫明亜呂無が松永てるほを讃えた詩(美しい五月、その夜空には松永てるほが似合う、といった一節があったような気がする)をてるほさんにお訊きすると、虫明さんは記憶にあるけれど、詩についてはまったく知らないとのことでした。探索続けます。
 といったところでこの場であらためて小浜奈々子さん、松永てるほさん、岬マコさんに、また貴重な機会を設けてくださいましたN氏にお礼申し上げます。
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by yumenonokoriga | 2014-05-20 06:15 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

小浜奈々子、松永てるほ、岬マコさんにお目にかかりました①

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 このブログを読んで下さっているN氏から、近く小浜奈々子さん、松永てるほさん、岬マコさんとごいっしょする機会があるので、よかったらいらっしゃいませんかとお誘いがあった。
 小浜奈々子さんの名前は高校生のときたしか「平凡パンチ」で知ったから、早くは十代からあこがれていた人たちに拝眉の機会が得られるなんて思いもよらないことで、わが人生にこれまでも、そしてこれから先もあるとは思われない超弩級の青天の霹靂に、さておく何もない無職渡世なのに、何はさておいてもまいりますとお応えしたあと、しばらくは心拍数が増し、その夜はめずらしくひどく寝つきが悪かった。
 これほどの事態に遭遇すると、わたしはみょうに四字熟語に踊らされているような心理状態になるらしく「驚天動地」のお誘いを受けて即座に「欣喜雀躍」で小躍りすると、つぎには、あまりのありがたさから「茫然自失」となり、何をする必要もないのに「周章狼狽」して何をしてよいやらわからず、そして当日になると「羽化登仙」の気分になった。
 もちろん三人を前にして緊張しましたよ。なにしろ昭和四十七年の一月か二月のある日、大学生だったわたしが、日劇ミュージックホール開場二十周年公演「すべて乳房からはじまる」を観て、ミュージックホールっていいなあ、これからも観続けていきたいなあと感じ入った、そのとき舞台で踊っていらした三人、それも歴代のトップスターを目前にしているのですから。それに素顔は地味だけど舞台化粧をすると華やかに変身するタイプもいるらしいけれど、素から華麗なオーラのある方々だからわたしがそんなふうになるのは当然のなりゆきでした。
 「早く亡くなったけど、水原まゆみはえらかったわね。舞台に出ながら夕雨子というバーもやっていたんだから。しっかりしてたんだ」
 「しっかりしてた。でも、ステージの彼女を見ていると、ちょっと儚げな表情が見えて、自然と支えてあげたくなったりして。ファンもそんな気がしてたんじゃないかしら」。
 松永てるほさんと岬マコさんが水原まゆみさんを偲びながらする話に「へーえ、凄い観察力だな」とN氏とわたしは驚いたり感心したり。
 コーヒーを飲みながら懐旧談や関係者の消息をおうかがいするなどこの上なく貴重で、素敵なひとときでした。
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by yumenonokoriga | 2014-05-15 08:50 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

八丁荒し

a0248606_9594289.jpg 八丁荒し。「大辞林」に周囲八丁の寄席の客を奪うほど人気のある芸人という語釈がある。他の辞書にあたっても特に変わった説明はない。
 ところが丸尾長顕はこれに特殊な意味合いを持たせていて「芸能界には『八丁荒し』という言葉があって、自分の劇場を繁栄させるために、近辺の劇場をこわすことが早手回しとされていた。どの劇場でも看板にしているスターを引き抜かれたら、つぶれるにきまっている。お蔭で日劇ミュージックホールは、スターで一杯になった」(「新評」昭和四十七年三月号)と述べている。
 藤原佑好「日劇ミュージックホール「ヌードダンサー」という人生」(週刊新潮平成二十年三月六日号)に引用されているのを再引用させていただいた。
 他の劇場に打撃を与えるほどの引き抜きというのは一般の辞書の語釈とは異なる。芸能界ではふつうこういうふうに八丁荒しを用いているのかどうかはわからない。ひょっとすると丸尾長顕だけの思いこみなのかもしれないが、たしかに日劇ミュージックホールは丸尾の言う八丁荒しで隆盛の基礎を築いたのである。
 初期の三大スターである伊吹まり、ヒロセ元美、メリー松原はいずれも引き抜かれてミュージックホールへやって来たストリッパーたちだった。引き抜きの被害に遭ったのは浅草であり、その後も多くの踊り子が浅草からやって来た。直接には東劇バーレスクからやって来たジプシー・ローズも浅草の舞台に立っていた。小浜奈々子も高見緋紗子も浅草で踊っていた。こんなふうに浅草は八丁荒しの供給元だった。
 ところがトップスターに限っていえば小浜奈々子を最後に浅草の灯は絶えてしまう。アンジェラ浅丘は関西のOSミュージックホール出身だし、松永てるほはNDT育ち、朱雀さぎりは浅草フランス座の舞台に立ってはいるけれど一日でやめている、舞悦子、浅茅けいこ、岬マコも浅草で踊っていたとは聞かない。
 こうなると八丁荒しをしようにも荒らす先がない。娯楽の街としての浅草の地位がそれだけ低下したわけだが、これは真摯な競争を通じて活性化する機会が失われたという意味でミュージックホールにとってもよろこばしい事態ではなかった。八丁荒しがよいとは思わないけれど、荒らす対象がないのはもっと困りものである。
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by yumenonokoriga | 2014-05-10 06:30 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

日劇ミュージックホールに出そびれて・・・

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 シャンソン歌手石井好子(1922-2010)が日劇ミュージックホールのパンフレットに寄せた「村松先生の想い出」という小文が手許にある。コピーでいただいたもので、いつの公演のものなのかはわからない。
 石井さんにはミュージックホール出演の経験はなく、だからこれは出でざる弁を綴ったものだ。もっともミュージックホールの応援団長、村松梢風から何度か出演を懇請されていた。
 一九二二年生まれの石井好子がアメリカ留学を経てフランスへ渡り歌手としてデビューしたのは一九五一年(昭和二十六年)のことだった。村松梢風はパリへ行くとよく彼女が出演しているモンマルトルのキャバレー、ナチュリストのレビューショーに足を運んでいて、石井好子が帰国したときには演出家の岡聡を連れてミュージックホール出演を熱心に口説いたという。「日本ではあなたの出るべきところは、日劇ミュージックホールをおいてありませんよ」「あなたは大人の客の前でパリで歌っていたようにのびのびと歌って下さいよ」と言って。
ただし、このときは二か月ほどして彼女がパリへ戻ったために実現しなかった。
 ついでながら彼女が一九五五年に刊行した『女ひとりの巴里ぐらし』にはパリの劇場に見えた人々として川口松太郎、三益愛子夫妻、山口淑子、川喜多長政、五所平之助、益田義信、佐々木茂索、今日出海、小林秀雄、火野葦平、岩田豊雄といった方々の名前がある。村松梢風もその一人だった。
 その後帰国して、村松梢風からふたたび声をかけられたが、地方公演のリサイタルに力を傾注すると二か月は縛られるミュージックホールへの出演は不可能で、そのままになってしまったという。
 一九六一年二月十三日村松梢風が亡くなって、岡聡から追悼の意味で出演を請われたが、そのころ石井好子は石井ミュージックプロモーションの社長として自身より事務所所属の大木康子と堀内美紀を出演させたく、逆提案してこれを実現させている。
「そんな事で、私は日劇ミュージックホールに出そびれたまま今日に到っている」。
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by yumenonokoriga | 2014-05-05 09:22 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)