「花は絢爛と夜開く」

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 昭和二十九年元旦、日劇ミュージックホール第十七回公演「花は絢爛と夜開く」
が開演した。ヌード陣は伊吹まり、メリー松原、奈良あけみ、マリア・ローザ、桜洋子、春川ますみが名を列ねている。
 この舞台には古川ロッパが出ていて第十一景「東京の蝶々さん」というおよそ二十分の寸劇を演じた。ロッパは直前の公演「恋は陽気に戯れて」にも日替わりのゲストとして出演しているが、今回は一月十六日までのレギュラー出演である。演じたのはアメリカ空軍キャプテン、ピンカートンという人物で、アメリカ人客を意識した出し物だったようだ。日記には、初日の「出の前に、ファンファン坊やと並んで姿見の前に立」っているという記述がある。ファンファン坊や、すなわち岡田真澄、当時十八歳だった。
 古川ロッパはメモ魔でかつ膨大な日記を残していて、その日記は滝大作氏の監修で『古川ロッパ昭和日記』(晶文社)として刊行されている。
 開幕に先立ちロッパは十二月三十日と三十一日に舞台稽古をおこなっている。三十一日には客席に下りてヌード嬢の稽古を眺め「ヌードのダンス、いやもう立派なもんです。ここは高級ヌード劇場として成功した」とその感想をしるしている。
 初日の幕が開いた。「打込みからもう満員」「客席のドまん中迄出てゐる円形の舞台の上での芝居は、三方から見られてゐるので、映画の撮影でもしてゐるやう、舞台でやつてる気分ではない」(一月一日)。「デベソ」で演じるのはフラットな舞台とはだいぶん勝手が違うようで、こうした記述は出演者ならではのものだ。
 「すれちがふストリッパーたちの立派なからだに圧倒される、ここでは、かよはき男性などといふ言葉も通じるべし。かういふ健康な若き肉体の在ることは知らなかったな、感心する」(一月四日)。こちらは出演者の余得と言うべきか。
 楽屋風景では、かつてのヘレン滝のつれあいで、彼女の日劇小劇場出演と引き替えに手切れを課せられた土屋伍一が指圧師として楽屋に出入りしているのが目を引く。伍一の指圧はよく効く、いい心持でまともな男なら月決めで雇いたいくらいだが「性格破産者のいかれ男、これを雇ふわけにも行かず、困ったものだ」とロッパは書いている。
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by yumenonokoriga | 2014-06-30 08:56 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

『古川ロッパ昭和日記』に見る丸尾長顕

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 昭和二十八年の日劇ミュージックホール公演の掉尾を飾ったのは「恋は陽気に戯れて」で、公演記録には柳家金語楼、坊屋三郎、益田喜頓、山茶花究、トニー谷、古川緑波がゲスト出演している。これほどの錚々たるメンバーが出演したのはミュージックホール開場以来はじめてのことであり、勢揃いの背景には劇場の人気と実績の向上、それと運営責任者丸尾長顕の辣腕があった。
 他のメンバーはわからないけれどロッパははじめ予定になく、とちゅう劇場からの要請で出演している。昭和二十八年十一月六日の日記には「日小ミュジックホール(ママ)へ丸尾を訪れる。少し早いので、客席へ廻り、金語楼、坊屋三郎等の出てゐるショウを三十分以上見た。このショウへ交代で出ろといふ丸尾の注文だったのだが、危ふかりし、こんなみっともないものへ出なくてよかった。見てゝ寒くなる」とあるがけっきょくロッパも出演した。
 同年十二月十二日には、翌日から出演予定のトニー谷が映画の関係で出られなくなり、丸尾はロッパに「あんた一つ馬鹿になって呉れへんやろか」と声をかけている。トニー谷の代役とはロッパの沽券にかかわる話だっただろう。「相手が不評判のトニー谷とあっては、乗れる話ぢゃない」「それはまアきかない話にしといて呉れ」とロッパは逃げたが、東宝資本をバックにした丸尾の凄腕がうかがわれるエピソードではある。
 この日、ロッパは翌年新春公演「花は絢爛と夜開く」に出演を決めている。劇場側は三週間の出演を希望していたが、他の仕事の関係で二週間しか出られないとするロッパのマネージャーとの話し合いがつかず、この日、ロッパ御大と丸尾との頂上会談の結果、ロッパの二週間の出演が決まる。ロッパは「丸尾のやうなボジンには、強っ気でおっかぶせなくてはいかん」と書いている。「ボジン」とは意味不明で、あるいはゴジン(御仁)の誤記かも知れないが、要は丸尾のようなタフな奴には強気で対応するほかないというわけだ。
 こうしてロッパがゲスト出演した十二月二十六日、たまたま客席に花菱アチャコが来ていて、丸尾はアチャコを事務所に呼んだ。それをロッパは「丸尾がアチャコを口説く、丸尾の商売上手には感心する」と書いている。
 ロッパの見るところ、丸尾長顕はタフで商売上手な男だった。
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by yumenonokoriga | 2014-06-25 08:51 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

マーカス・ショー余話

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 マーカス・ショーが来日した当時のわが国の興行界はエノケン、ロッパのほかに大江美智子の女剣劇や松竹少女歌劇が人気を誇っていて昭和九年一月十三日のロッパ日記には「弥次・掛声の盛なること驚くべく、三階で女の声、『ターキー、ターキー』と言へば、又反対党が『ツサカ、ツサカ、オリエ、オリエ』と喧嘩だ」と水の江瀧子とオリエ津阪が男役の二枚看板だった松竹座の観客席の模様が記されている。国際劇場は昭和十二年の竣工だからこの時点での松竹少女歌劇団(SSK)のホームグラウンドは松竹座だった。
 こうしたなかでのマーカス・ショーの来日はずいぶんと話題を呼んだ。なにしろ日本人のレビューの踊り子のパンティが股下三寸などとお上から規定されていた時代に外人女性の金粉のヌードなのだから野口冨士男ならずとも若者の血はたぎっただろう。
 これについては古川ロッパも昭和九年三月十日の日記に書きとめているが「人数沢山ではあるが同じやうなものゝ繰返しばかりだ。感心するものなし」とまことに素っ気ない。
 そのころロッパはエノケン一座に対抗すべく徳川夢声、大辻司郎ら旧活動弁士や日活を脱退した小杉勇、島耕二、滝花久子、岸井明、それに渡辺篤、横尾泥海男、古谷久雄、関時夫、清川虹子といった喜劇人たちを糾合した劇団「笑いの王国」の座長を務めていた。彼のばあい観客としてよりも、劇団の主宰者として幕内からショーを見たうえでの判断だっただろう。あるいはむやみにエロティシズムには触れない大人の対応というべきか。
 マーカス・ショーにはのちに歌手また役者として活躍したダニー・ケイがいた。主な映画に『ダニー・ケイの天国と地獄』や『虹を掴む男』、『ホワイト・クリスマス』、『五つの銅貨』などがある。
 日劇でのショーの最中に停電になったことがあり、このとき脇役だったケイは咄嗟にローソクをつけてアドリブでローソクの踊りをして間をもたせたそうだ。機転と才能をうかがわせる若き日のダニー・ケイのエピソードである。このとき野口久光が客席にいた。いずれも和田誠『シネマ今昔問答』にある話しである。
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by yumenonokoriga | 2014-06-20 08:35 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

遠い日のヌード

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 戦前の日劇大劇場でヌードショーが演じられたといってもにわかには信じてもらえないだろうが知る限りでは一度それにちかいものはあった。日劇小劇場、日劇ミュージックホールに先行する話題である。
 昭和九年の初春、上海からやって来たマーカス・ショーという一座の公演で全身に金粉を塗ったヌードの景があり、当時二十三歳で紀伊國屋書店出版部に勤めていた野口冨士男が『私のなかの東京』で「上海あたりでかき集められた二、三流の芸人の集団だということであったが、私にとってははじめてみた外人のショゥで、日本人の踊り子によるレビュゥのパンティが股下三寸などと規定されていた時代だけに、かぶりつきでみた私は白人の踊り子の股に静脈が蒼く浮いているのを目撃して固唾をのんだ。全身を金粉で塗った裸女のアクロバットも、まことに刺戟的であった。この一行にダイニィ・ケイが加わっていたと知ったのは、後年になってからである」と回想している。
 アメリカの踊り子のエロティシズムで話題を呼んだマーカス・ショーの最大の呼び物が「金色の女」の景での全身に金粉を塗ったダンサーで、当時の公許ギリギリのヌードショーというべきものだった。
 寺田寅彦もこのショーを見ていて「マーカス・ショーとレビュー式教育」という随筆を書いている。内容はなにやかやと知識を雑然と並べる教科書をレビュー式の教育と見立ててその問題点を指摘するのを眼目としていてマーカス・ショーはその呼び水に過ぎないのだが、それでも以前に観たベルリンやパリのレビューに較べ「さつぱりしてゐて」「優美とか典雅とかいふ古典的要素の一切を蹴飛ばしてしまつて、旺盛な生活力を一杯に舞台の上に横溢させてゐる」「野蛮でプルータルであると同時に一方では又新鮮で明朗で逞しい美しさ」があると感想を述べたうえで「金色の女」については「どうしても血の通つてゐる人間とは思はれなくて、金属の彫像が動いてゐるとしか思はれない。あんなものを全身に塗つては健康によくないであらうと思ふと余りよい気持はしなかつた。塗料が舞台の板に附くかと思つて気をつけて二階から見てゐたがそんなふうには見えなかつた」と冷静に観察している。 
 生年は寺田寅彦が一八七八年、野口冨士男が一九一一年。年齢の開きは踊り子の股に静脈が蒼く浮くのを目撃した興奮と、ダンサーの金粉が身体によくないのでは舞台に附きはしないかと観察する冷静の違いでもあったのだろうか。
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by yumenonokoriga | 2014-06-15 04:46 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「丸の内から裸追放」

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昭和二十七年一月末を以て日劇小劇場は閉場と決定した。これを朝日新聞が報じたのが一月七日。二段見出しで「丸の内から裸追放、日劇小劇場高級ショーへ」というものだった。
 ここでひとつ問題が起こった。丸の内からストリップ追放、とはなにごとかと、折から上演中の「女の門松」に出演していたヒロセ元美はじめ十五人のストリッパーたちはこの言葉にカチンと来た。しかもオーナーの小林一三の発言として紹介されている。
 ストリップでさんざん儲けておいて、あげくのはてに追放とはなにごとかと彼女たちはおさまらず、こうして、ストリッパーのストライキとあいなった。ストリッパーのストというわけで世間の注目度も高かった。
 対応にあたったのが丸尾で、これはストリッパー諸嬢の言い分が筋が通っている、ストは当然だし、陳謝を要求ずる権利はある、しかしながら「追放」の記事は小林一三がいったものではなく、東宝宣伝部が朝日新聞に流した記事なのだと説得に努めた。彼女たちを連れて朝日新聞に確認にも行ったという。こうしてストライキはなんとか収拾したが、真相はどうだかはっきりしない。
 ここのところの事情について、のちに丸尾長顕は『回想 小林一三』で次のように述べている。
〈小林一三氏は何ら発言した形跡はみられなかった。いわば宣伝部の、次にくるミュージックホールの前景気づけの宣伝記事であったようにさえ思われる。〉
 真偽はともかく小林一三の「ストリップ追放宣言」は小林及び東宝の、ミュージックホールという新劇場はストリップというイメージではない新たなショーをつくってゆくという意志のあらわれだったのはたしかだろう。
 昭和二十七年一月三十一日が日劇小劇場最後の日となった。新聞には「裸の歴史に涙の別れ・日劇小劇場最後の夜」「丸の内の涙・さよならハダカ」といった見出しがあり、千秋楽にはヒロセ元美、マヤ鮎川などが時折り涙を拭っていたという。
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by yumenonokoriga | 2014-06-10 08:13 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

小林一三の迷言

a0248606_910103.jpg 日劇小劇場のストリップ興行は好成績を挙げていたがこの事態を苦々しく見ていたのが日劇のオーナー小林一三である。
 いわく「俺は丸の内で女郎屋をやる気持はない」。
 小林一三は阪急電鉄の経営に参画し、大阪梅田にデパートをつくり、駅とデパートを繋ぐ日本初のターミナル・デパートとした。また、沿線の宝塚を一大行楽地として開発し、宝塚歌劇団はその一環として大正三年につくられた。宝塚新温泉の余興として出発した歌劇団だったがやがて東京へ進出し、昭和九年には東京宝塚劇場を東の本拠地とした。昭和十二年には東宝株式会社を設立し、日本劇場、帝国劇場を傘下におさめた。昭和十五年には第二次近衛内閣の商工大臣に就いている。この大オーナーが日劇小劇場からはだかをなくせと厳命したのだからやっかいだ。 
 小林一三の意向を体して日小問題に対応したのが長男富佐雄だった。この劇場はけっこう儲かっているから閉鎖するにはしのびない、そこで彼はショーと劇場のリニューアルに着手する。
 富佐雄が相談相手としたのが父一三の弟子で子分で旧友でもある丸尾長顕だった。富佐雄は丸尾に、高級で、ストリップではないショーをはじめてみないかと持ちかけている。丸尾は作家として文壇で認められたいと考えていたが、小林富佐雄の求めに応じてショーの世界で世に出ようと決意する。
 この世界の先輩といえば宝塚の白井鐵造、日劇の秦豊吉がいるだけ、つまり自分はナンバー・スリーであるという自負を抱いて新しい劇場の構想に乗り出した。まずは運営委員を組織する。丸尾としては、作品を書いて演出するだけではなく、劇場経営にも参画する狙いがあったという。かくて丸尾、宇津秀男、東郷静男、岡田恵吉、長谷川十四郎の五人が運営委員となった。
 また新しい劇場の名称も当時東宝の撮影所長だった雨宮敬之の提案で日劇ミュージックホールと決まった。
 こうして昭和二十七年一月末を以て日劇小劇場の閉場が決定され、日小は最後のストリップ公演を行うこととなった。
 それにしても「丸の内の女郎屋」とはよく言いもしたものだ。
(写真は日劇小劇場の舞台。セリはまだないようだ。岡田恵吉『女のシリ・シンフォニー』より)
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by yumenonokoriga | 2014-06-05 08:05 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)