泉助人のこと

 井上ひさしが東洋興行株式会社の募集した「進行係四名」に応募したのは昭和三十一年十月のことだった。当時同社は浅草フランス座、ロック座、新宿ミュージックホール、池袋フランス座の四つの劇場を運営していた。「進行係四名」は二百名ほどが応募した超難関だったが、首尾よく採用となった井上ひさしは浅草フランス座に配属となった。
 『喜劇役者たち』はそのころの体験を基にして書いた短編連作集で、ストリップが全盛だった最後の時期の浅草が偲ばれる作品集だ。
 なかの一篇「トンカチの親方」に泉和助の弟子で泉助人(いずみ・すけつと)というコメディアンが登場する。楽屋うちで目利きとして存在感のあるトンカチの親方(大道具の親方)の評価は高い。なぜならば「肥っている。ずんぐりむっくりしていて、鈍重の代表みたいな身体つきをしておる。ところが、実際に動くと、じつに素速い。つまりさ、彼の動きのよさは彼の体型を裏切っておる。そこに意外性が生れる、渥美清があの下駄みたいな顔からアナウンサーのようないい声が出てくる意外性と共通している」からだ。
 それがある日の舞台で助人は左肩を脱臼する。とんだりはねたりはしばらく難しい、すこし休演したらとの意見を尻目に大丈夫、これからはしゃべくりで行くと舞台に上がる。おそろしいほどのスピードでしゃべり、あいだに挟む語呂合わせに客席は沸いたが、トンカチの親方の評価は芳しくなかった。
 「好手はなかなか目立たないが、悪手はすぐに目につくものだって。才能のない役者、のびない役者はすぐわかる。いまの助人くんはのびない役者の仲間入りをしているよ」「わたしはこれまで何百人て役者をみてきたが、語呂合わせを武器にしてのしあがっていったやつはひとりもいない。だからわたしはいまの助人君は買わないのだよ。動くとあんなにおもしろいことができるのに残念だねえ」というふうにトンカチの親方は見ていた。
 それに対し泉助人は「おれの師匠の和助先生は、日本の喜劇役者は躯を動かすと損するぞ、というのが持論なんだよ」「ハーポ・マルクスみたいに躯を動かす役者は偉くなれないそうなんだ。例外はエノケンぐらいなもので、あとは森繁でも伴淳でもフランキーでもみんなある時期しゃべりに切りかえて大物になっている、とそう言う。それでおれも肩を痛めたのを機会にしゃべくりに転向したんだけどねえ」と考えている。
 舞台での語呂合わせをどう考えるかはともかく、ここでは泉和助、助人がめざしていた「しゃべりに切りかえ」に注目しておこう。すなわちコメディアンから性格俳優への方向転換である。けれどこれはコメディアンとして売り出した元手である動きを止めるのだから、トンカチの親方が経験から見抜いていたようにやっかいで危険を伴うものだった。小林信彦の言う「森繁病」である。
 泉助人の言葉からは師匠の和助が「森繁病」に罹患していた姿がうかがわれる。そのウイルスに感染していた助人がのちにどのような道を歩んだかはわからない。日劇ミュージックホールの公演リストに泉助人の名はない。
a0248606_10483149.png
[PR]

by yumenonokoriga | 2015-01-26 10:48 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ギタリスト深沢七郎(補遺)

 前回の記事で深沢七郎はミュージシャンのボックスで踊りの伴奏をしていたのではなく、自身も舞台出演をする立場にあったと、古山高麗雄との対談での深沢自身の発言を踏まえて書いた。ときにはギタリストというよりコメディアンに近い役柄もあったと思われる。
 丸尾長顕『回想 小林一三』に舞台出演していた深沢の写真があったので紹介しておきたい。いっしょに写っているのは関比奈子。
a0248606_9363822.jpg
[PR]

by yumenonokoriga | 2015-01-15 09:36 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ギタリスト深沢七郎

 深沢七郎は芸名を桃原青二として日劇ミュージックホールでギターをひいていた。だったらミュージシャンのボックスで踊りの伴奏をしていたかと言えばそうではなく、舞台に出演するギタリストだった。
 『深沢七郎の滅亡対談』(ちくま文庫)に収める古山高麗雄との対談「ギター・軽演劇・文学・自殺」のなかで「深沢さんは芝居もなさったんですか」との古山の問いかけに深沢は「私はバンドじゃなくて直接出ちゃったの、舞台へ……スパニッシュの人と組んで出たり、まあギターをひくというのが背景になっちゃったわけね、バンドじゃなくて。舞台に出てギターというものを背景に使ったわけですね。丸尾先生が」と答えている。
 たとえば公園のセットで高英男がルンペン姿で「枯葉」を歌う、傍のベンチにはルンペン姿の深沢が坐って伴奏を務めていた。
a0248606_1081970.png
[PR]

by yumenonokoriga | 2015-01-10 10:07 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

NMH開場二十年の週刊誌

 古本屋に積まれてある週刊誌を見ているうちに昭和四十七年(1972年)三月二十六日発行「サンデー毎日」が目に止まった。表紙は「緊急特報 大虐殺!連合赤軍・血の粛清」の大活字と迦葉山周辺の死体発見現場での警察、機動隊員の写真で、これだけだとパスしていたところだが、下方に小さな活字で「日劇ミュージックホール20年の世相」とあったのでさっそく購入した。
 この年の三月十六日にミュージックホールは開場二十周年を迎えた。連合赤軍事件がなければあるいはこの号の表紙はミュージックホールの写真で飾られていたのかもしれない。下はグラビアのトップページにあったもので、このあと楽屋での舞悦子の写真がつづいている。
 記事は四ページにわたっていて、なかに「はじめ、客の半分以上が、外人ということもあった。いま外人は十人に一人くらいだ。女の客もしだいにふえた。三十九年には、女が4.5%。いま12.3%になった」といっためずらしいデータが示されている。
a0248606_9283547.jpg
[PR]

by yumenonokoriga | 2015-01-05 09:26 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)