大村重高と須賀不二夫

 日劇の女性ダンサーは男の踊り手を「オトコちゃん」と呼んでいて、丸尾長顕によるとこれほど、男の舞踊手をピタリと表現した言葉はなく「親愛とケイベツと、パートナーとしての信頼の入り混じった複雑な感情があふれている」のだそうだ。
 その代表格の一人が大村重高で、昭和十六年、十七歳のとき故郷の鹿児島から上京し日劇ダンシングチーム(当時は東宝舞踊隊)に入団して「オトコちゃん」となった。
 戦後、日劇小劇場ができてすぐ五階に移り、そのままミュージックホールに在籍し、昭和五十六年に日劇会館が取り壊される直前、東京を去った。(石崎勝久『裸の女神たち』)
 日小のころ、休んだことのない大村が下腹部に激痛を覚え、診察を受けると盲腸炎で入院する事態となった。その日はなんとか終演まで踊り、病院へ向かう自動車を呼んだが、打合せをするからと代役の到着を待った。深夜十二時近く悲痛な表情で待っていたところへ代役が到着し、踊りの振りを教えてようやく病院へ駆けつけた。
 代役の名は須賀不二夫(のち須賀不二男に改名、1919年-1998年)。
 除隊した昭和十四年古川緑波一座に入り、吉本歌劇隊を経て緑波一座に再加入、戦後は劇団たんぽぽ、空気座、劇団新風俗を経て昭和二十七年松竹に入社した。このうち空気座が昭和二十二年八月に新宿・帝都座で上演し大ヒットした「肉体の門」は戦後を代表する舞台の一つとしてよく知られている。松竹に入社してからの須賀が映画、テレビで名脇役として活躍したのはご承知の通りで、わたしには小津安二郎監督作品の常連としての印象が強い。
 写真は小津作品「早春」で、岸恵子の右が須賀。
 それにしても大村重高と須賀不二夫、思いもよらない取り合わせである。
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by yumenonokoriga | 2015-07-16 10:55 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

泉和助のノート

 泉和助は自分のつくったコントのネタを克明に大学ノートに記録していたという。思いついたコントはすぐにノートに書きとめておいた。昭和四十五年二月に歿したとき通夜の席でコメディアンたちが未使用のコントも相当数含まれたそのノートをひとしきり話題にしていて、石崎勝久が『裸の女神たち』に書きとめている。

 「和っちゃんは、一人住まいで急死して、三日もその死が知られなかったんだそうだ」
 「気の毒になあ。それにしても和っちゃんのネタ帳は、いったい誰がとるんだ?あれを手に入れれば、コメディアンとして一生食ってゆけるぜ」
 「もうとっくに、誰かが持っていっちゃったんじゃないかい。なにせ、和っちゃん先生のネタ帳は、生きてるうちからみんなにねらわれてたんだからー」

 石崎は泉和助の死に対して払われる関心よりも、ノートの行方への興味が勝った光景に芸能界のきびしさと芸人の執念をみて、ぞっとする思いだった。
ノートの行方はわからなかったが、アパートの机の引き出しに脱稿寸前の「ドサ廻り」という原稿があり、一部が矢野誠一『さらば、愛しき藝人たち』に紹介されている。
 「ギャグもまた真なり。ギャグがストーリーの芯にならなければ本当の笑い、いい笑いは生まれない。そのために藝人は真剣に勉強を重ねなければいけない。ぶっつけ本番では絶対に生まれないだろう」という文章からはギャグマンとして生き抜く決意とそれが果たせなかった悲痛が見て取れる。
 辻原登『円朝芝居噺 夫婦幽霊』は、母親の訃報に接し帰郷した作者が、土地の古本屋で亡き友の遺品にあった速記原稿を入手し、どうやら三遊亭円朝の幻の怪談噺「夫婦幽霊」と推しはかられたというところからはじまる。このスリリングな発端を読んだとき、ひょっとして泉和助のノートもいつか、どこかで発見されるかもしれないと思ったものだった。
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by yumenonokoriga | 2015-07-01 09:46 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)