脚線美閑話(五)~「太刀魚のような脚」

 戦前の宝塚の黄金時代の幕開けとなったといわれる白井鉄造演出の「花詩集」が東京でも大評判になったのは昭和八年(一九三三年)の夏で、のちに評論家となった安田武は当時小学生で従姉妹たちが宝塚に熱を上げ、いわゆるヅカ熱に罹り、やがて自身も感染してしまって唱歌の時間に「甍の波と雲の波」の「鯉のぼり」を歌うのはよいが「橘かおる」のところでことさらに声を張り上げて先生に叱られたりしている。橘薫は当時の宝塚のスターだった。安田武はまた清純可憐派の櫻緋紗子や久美京子にも心ときめかせていたと書いている。
 脚線美は男にとってレビューの大きな魅力だった。エノケンが活躍したことでも知られる浅草の軽演劇団カジノ・フォーリーのスター梅園龍子について今日出海は「細い脚、太刀魚のような脚、それから嬉しそうな笑ひ」とその魅力を讃えている。榎本健一の夫人で、おなじくカジノ・フォーリーのスターだった花島喜世子も美しい脚と均整のとれたプロポーションが魅力だったと伝えられる。
 「太刀魚のような脚」とはなんともおどろきの表現であるが、舞台上の美しい脚線美は太刀魚どころではなく男の性を大きく刺激していただろう。ただしヅカ熱に罹っていたころの安田武は十歳をひとつかふたつ過ぎたばかりで、当時を振り返って、舞台で演じられる異国の男女の物語が虚構であるとおなじく彼の「性」もまだ「絵空事」だったのだろうと述べている。(『昭和・東京・私史』)
 そうだとしてもレビューという「絵空事」に触れた経験のある少年だったからこそ、前回述べたように、戦争前夜の時代にダンスホールから閉め出されたダンサーが床の雨水をタンゴのステップで広げているその脚線の美しさに心動かされたにちがいない。
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by yumenonokoriga | 2016-03-17 09:07 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

脚線美閑話(四)~ダンスホールが閉鎖された夜

 イギリスの外交官ジョージ・サンソムと彼を追って来日したキャサリンが横浜で結婚の手続きをしたのが昭和三年(一九二八年)でふたりは昭和十四年(一九三九年)の五月まで日本に滞在した。
このかんにキャサリン・サンソムは『東京に暮らす』という見聞記を著して、三七年にロンドンで出版しており、当時の庶民の暮らしやモダンな東京の姿が活写された好著はいま岩波文庫(大久保美春訳)に収められている。
 東京のモダンな一面を代表するひとつにダンスホールがあった。溜池のフロリダをはじめそのにぎわいは相当なものだったというが、当局は一貫して社交ダンスを社会上好ましくないものと見なして風俗営業扱いとした。
 そうした事情もあり男女がホールに赴いて社交ダンスを楽しむ習慣は根付かず、一般にはホール側が女性を揃えておき男性は入場の際チケットを購入して職業ダンサーと踊っていた。参考までに昭和五年「改造」誌上に発表された村山知義の戯曲「スパイと踊子」によればチケットの値段は六時までが十銭券、それ以後は二十銭券、十銭券ではダンサーが五銭を取り、二十銭券ではホール七銭、バンド五銭、ダンサー八銭で分けるようになっていた。
 ダンスホールは昭和五年から十二年までが最盛期でそれ以後はますます制約が厳しくなった。『東京に暮らす』は昭和三年から十一年のあいだの東京印象記だからちょうどダンスホールが盛んな時期にあたっており、わずかではあるがその光景が述べられている。
 「ダンスホールは粋というよりは大衆的な場所です。あまりの人気に、学生は一定の時刻以外はダンスホール及びカフェバーへの入場を禁止する規則が設けられたほどです。小柄な職業ダンサーにはいろいろなタイプの人がいます。小さくて丸顔の可愛い子やほっそりとした優美な人、きものに草履の人や洋服の人、英語がほんの少しわかる人と全くわからない人、でもみんな丁重で親切です。お客は一枚がダンス一回分の回数券を買い、好きな相手を選んで踊ります。踊りはもちろん日本化されていますが、技術はたいしたものです。タンゴがよく踊られますし、どんな複雑なステップも省略されません。ところが、日本人が踊る甘ったるいタンゴは本場中南米のものとは全く違っていて、タンゴ特有の色気も微かな興奮も見られません」。
 戦前の歌謡曲には「雨に咲く花」「小さな喫茶店」「マロニエの木陰」などのようにタンゴのリズムを用いたものがけっこうある。日本人の感性に訴えるタンゴだから「本場中南米」の色気や興奮を表したそれとは異なる。おそらく現在のダンス愛好者でも「本場中南米」ふうに踊ることのできる日本人は少ないだろうからサンソム女史の評価はいささか厳しすぎる。
 それはともかくこのダンスホール、昭和十四年の後半あたりから入口に警官が出張って入場しようとする客を呼び止めて訊問するといった嫌がらせに遭うようになり、翌年には十月三十一日を期して都内のホールに閉鎖令が下され、まもなく全国のホールに及んだ。
 その直後のこと、のちに評論家となった、当時京華中学校の最上級生安田武が本郷の青木堂という酒場にいた。大正十一年(一九二二年)生まれだから当時十七歳か八歳である。
店内には「夜のタンゴ」が流れていた。外はどしゃ降りの雨、そこへ若い女性が数人はいってきた。彼女たちの話を耳にしているうちフロリダ・ダンスホールのダンサーたちと知れた。なかのひとり、黒ビロードの襟に白い兎か何か毛皮のついたハーフコートを着た女性が「電畜の上に肩肘をつき、タンゴのリズムに小さく首を振って」いた。その足元へ視線をやると洋傘から滴る雨水が地図のような流れを描いていた。
 「娘は、ほとんど無意識に、ハイヒールの爪先で擦るように、その雨水の地図を拡げている。きれいな脚をしていた」
 「激しい雨音と「夜のタンゴ」と、美しい元ダンサーと。ビールの軽い酔いが、私の官能を揺する」。(『昭和 東京 私史』)
 安田武にとって四十年以上過ぎてなお忘れ得ぬ脚線美だった。上背のある、スタイルのよい、断髪のモダンガールを想像させる彼女のタンゴのステップは花咲き花散った「東京ラプソディー」の時代の終焉を象徴するようであり、わたしにも忘れ難い脚線美となっている。
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by yumenonokoriga | 2016-03-02 08:41 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)