「ふともも出すべからず」

 一九0三年(明治三十六年)品川と新橋のあいだをそれまでの鉄道馬車に代わって電車が走った。これが東京の路面電車のはじまりである。
 そのころ一八九三年(明治二十六年)生まれの岩田豊雄、のちの作家獅子文六は三田の慶應幼稚舎の寄宿舎にいて横浜の実家に帰るときはいつも品川駅まで電車を利用していた。車内には筆書体で書かれた石版刷りの乗車心得が掲示されており「煙草のむべからず」「たんつば吐くべからず」などとならんで「ふともも出すべからず」の一項があったという。
 裾の乱れもはばかられた明治の代にミニスカートはなく、ふともも云々は男性向けの禁令だった。勇み肌の職人や棒手振りの商売人のなかには紺の香の高い腹がけを一着に及んだだけで乗車する者もいて、六尺ふんどしが見え隠れする格好にふとももはあらわで、外国人にも見苦しいというので車内行儀の注意に及んだのだった。
 男でもこのような具合だから女のふとももを電車内に見るなど考えられない時代であったが、そこはよくしたもので昔の日本人は女の足指の線に色気を覚えていた。
 髷に結って眉を剃り、唐桟の襟つきの着物に八端の黒繻子の腹合わせの帯を引っ掛けに結んで食い込むような白足袋をはいて、煙管を持って、お客と花魁のあいだをとりもつというのは古今亭ん生「お直し」にある遣手(おばさん)についての描写で、色街の女が足元を美しくするため足袋のおしゃれをしていたことがわかる。
 飯島友治編『古典落語亭ん生集』(ちくま文庫)はこの箇所について、足袋は新品で足にぴったり合うのが粋とされたので色街の女はきつめの足袋をはく前によく揉んで糊をおとし、さらに、はいてから霧を吹きかけて足指の線を出したと註釈をつけていて、脚線美ではなく足指の線を愛でていた感覚が窺われる。
 谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』の督助老人は息子の嫁の颯子さんの足の拓本を何十枚も色紙にとり、そのうち出来のよいのを飽かず眺めていた。脚線美はともかく足の美しさへの執着は現代人にはわかりにくい感覚だが、足袋にこだわった色街の女を思うと督助老のこのみは伝統を踏まえた美学なのだった。
 そして昭和戦前。モダニズムとエロ・グロ・ナンセンスの社会風俗が盛んに言いはやされたころ有楽町に日本劇場が開場した。一九三三年(昭和八年)のことで、まもなく誕生したダンシングチームのラインダンスがたいへんな人気を呼んだ。このころには取締当局の眼中に男のふとももはなく、対象はもっぱら女のそれで、すでに一九三0年 (昭和五年)警視庁保安部はレビューの踊り子を対象として「ズロースは股下二寸未満はこれを禁ずる」という条項を含む「エロ取締規則」を発していた。
 こうして明治から昭和にかけて「ふともも出すべからず」の狙いは男から女へと移ったのであったが、あたりまえのようでいて一大転換の気がしないでもない。

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# by yumenonokoriga | 2016-09-16 08:46 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

新藤兼人と日劇ミュージックホール

 日劇ミュージックホールは演出に劇場専属の演出家にくわえ、しばしば作家、漫画家、映画監督、舞台演出家などをゲストとして招いていた。すぐれた人材によるバラエティに富んだ舞台づくりは、話題を呼びやすく営業上からも得策という一面もあった。
 公演リストを見ると三島由紀夫、村松梢風、武智鉄二、江戸川乱歩、谷崎潤一郎、清水崑、杉浦幸雄、久里洋二、小島功、石原慎太郎、戸川昌子、佐藤信、野末陳平、観世栄夫、福田善之、里吉しげみ、寺山修司、藤田敏雄、団鬼六、新藤兼人、竹邑類、内海重典、矢野誠一、林家正蔵、バロン吉元、勅使河原宏、黒鉄ヒロシ、山本晋也、なかにし礼、福地泡介、辻村ジュサブロー、水上勉、秋竜山、高橋伴明、蜷川幸雄といった名前が見えている。
 ミュージックホールと結びつきやすい人々がいるいっぽうでわたしには新藤兼人、林家正蔵は意外だった。前者は「殿方はピーナッツがお好き」(昭和五十一年四月二十三日~六月二十二日)後者は「夏の夜のピンクの夢」(昭和五十二年七月一日~八月二十三日)に名を列ねている。残念ながらどちらもわたしは観ていないが、たまたま手許に「殿方はピーナッツがお好き」のパンフレットがあり、第一部第八景の雨月物語を新藤監督が担当したと知れる。
 溝口健二監督、依田義賢脚本の同名映画にある「蛇性の婬」の舞台化で、貧しいせともの焼きの男が作ったものを金に代えようと都へ出て、魔性の女に魅入られこの家に居つくが、やがてこの女は没落した悲運の武将の姫の死霊と見抜いた僧の法力により男は危ないところを助けられるという話である。時間は八分、もちろんせりふはない。そこのところを新藤兼人は「舞踊だからコトバはない。実は、コトバははんらんしているのだが、声がないだけのことである。(中略)わかりきったことだが、ハダカは体ぜんたいでものをいう。体が、囁き、叫び、わめきちらす。哀訴、欲求、歓喜、哀しみは体ぜんたいからながれでる。モモがきしみ、コシがうねり、ハラがよじれるたびに、そこが、ものをいう。口でいうコトバのなんと小さく不自由なことよ。声のあるコトバではいえないコトバのはんらん」と述べている。
 映画で京マチ子が演じた役をここでは松永てるほが演じていておなじくパンフレットには「松永てるほの蛇性の婬を私は溝口健二にみせたい。溝口健二はきっとニコニコと相好を崩すにちがいない」とある。
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# by yumenonokoriga | 2016-09-05 11:40 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

昭和二十八年十一月三日という至福の一日について

 このブログの昨年三月二十四日の項で筆者は同年二月二十四日朝日新聞の「『日劇』は日本劇場の略称。1933年に開場し、映画の話題作を上映する一方で、併設された日劇ミュージックホールでは日劇ダンシングチームのレビューやロカビリー全盛期のウエスタン・カーニバルなどが人気を集めた」という記事を引用して、日劇は遠い記憶になっており、隣にあった朝日新聞でさえ大劇場とミュージックホールを取り違えるような事態になっていると述べた。
 先日蓮見重彦『随想』(新潮社)を読んでいるとこのとりちがえについて触れている箇所があった。
「J.A.T.P.の東京公演は(一九五三年)十一月三日から八日までの六日間にわたって行われ、舞台は有楽町の日劇である。中には、日劇ミュージックホールと勘ちがいしている向きもあるが、普段は日劇ダンシングチームのレヴューと東宝系の封切り作品の上映で客を呼んでいた日劇の舞台いっぱいにオールスターズが登場したのであり、恒例のレヴュー「秋の踊り」は一時的に中断されていたのだと思う」。
 これはスウィングジャズ時代の花形ドラマージーン・クルーパに寄せて書かれたもので、J.A.T.P.(Jazz at the Philharmonic)はプロデューサーであるノーマン・グランツにつらなる有名アーティストからなるオールスターメンバーの編成で、このときのドラマーがジーン・クルーパであった。
 当時高校生だった蓮見先生は初日の十一月三日に得難いチケットを手にして制服姿でかけつけた、とある。
 『随想』は雑誌「新潮」の二00九年新年号から翌年四月号(とちゅう一回休載)にかけて連載されており、文筆家として日劇の大劇場とミュージックホールのとりちがえがないよう気を遣った書き方をしている。その心配が杞憂でないのは上の朝日新聞の記事がはからずも証明している。
 ところで大劇場でJ.A.T.P.のコンサートが催されていたときのミュージックホールの公演はといえば「恋は陽気に戯れて」(昭和二十八年十月二十八日~同年十二月二十七日)で、ヌードに伊吹まり、メリー松原、奈良あけみ、春川ますみの名が見えており、ゲストは柳家金語楼、坊屋三郎、古川緑波、山茶花究、トニー谷の錚々たるメンバーだった。
(なおこの公演については古川緑波がその日記で触れており、くわしくは本ブログ二0一四年六月二十五日の記事「『古川ロッパ昭和日記』に見る丸尾長顕」を参照してください。)
 レヴュー、映画、アメリカからやって来たオールスタージャズバンド、ヌード、有名喜劇人といったふうに、ここにはそのころの華やぎが集約されている。
 蓮見氏の記憶によれば十一月三日のJ.A.T.P.の演奏はマチネー、つまり昼の部のみだった。ということは本場のジャズを生で聴くのはまだまだ貴重だった時代に、オスカー・ピーターソンのピアノ、ジーン・クルーパのドラム、エラ・フィッツジェラルドのヴォーカル等々を目の当りにした感激のさめやらぬなかミュージックホールに上がって行った方も相当数いらしたのではないかと想像される。
 いまから振り返ってもうらやましい至福の一日だったように思う。
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# by yumenonokoriga | 2016-08-09 11:09 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

立ち見の客

 「アサヒグラフ」昭和五十二年一月二十八日号に「二十五周年を迎えたヌードの殿堂」という記事があり、「’77乳房の祭典」が紹介されている。トップスターに朱雀さぎり、そのあと舞悦子、高見緋紗子、岬マコ、浅茅けいこたちがつづいている。トニー谷がゲスト出演しているのが二十五周年にふさわしい。
 なお下の朱雀さぎりの艶姿は同誌より引用させていただいた。
 「二代目」というペンネームの方が「明るく、のびやかなエロチシズム」と題した記事を書いていて客席風景の普通の劇場とちょっと違うところと、まったく違わないところの描写をなつかしく読んだ。
 「たまたまウイークデーの昼間のステージだったが、定員四百人のところが超満員なのである。しかも、空いている左右の席に座らずに、正面の後方にみな立って見ているのが、普通の劇場とは、ちょっと違うところだ」
 「かぶりつきに身を乗り出すでもなく、口笛や掛け声をかけるでもなく、拍手と笑い声だけで、普通の劇場とまったくちがわない。女性の姿も多くて、劇場の話では約一割は女性客だという」
 そういえばわたしははじめから立ち見をしたおぼえはないが、ステージが終わり客席を立ったものの、もうすこし観たいなと次のステージの前半を立って観たことが何回かあったのを思い出した。
 劇場の見取り図をご覧になればおわかりのように左右の端っこの席にくらべると正面、照明室の下あたりからの立ち見は座るかどうかを別にすれば特等席だった。

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 もっともこれは有楽町のころのはなしで、日比谷の劇場は舞台と客席との角度が悪くて、指定席はともかく一般席の多くは有楽町時代の左右の端の席のようなもので、それに立ち見のスペースはなかったから「二代目」さんに倣って言えば、構造面で普通の劇場にくらべるとだいぶん劣っていた。
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# by yumenonokoriga | 2016-07-28 10:14 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

映像視聴のパーソナル化

 このブログを設けている余得で、先日ある方からご連絡をいただき、日劇ミュージックホールに関するコレクションを拝見させてもらった。おかげさまで三十冊ほどのパンフレットを中心に関連記事の載る週刊誌、グラフ誌、台本などが眼福をもたらしてくれた。
 紙媒体のほかにVHSのビデオテープとVHDのソフトがあったが、残念ながらお借りしてもわが家には再生する機器がない。かつてはVHSのビデオ機器と何十本かのテープもあったがDVDついでBlu-rayがとって代わり機器、テープともにいまはない。VHDのソフト(写真)ははじめてで、あまり普及しなかったはずだから機器のほうはいまだに見たことがない。
 映画館で「デジタル上映」という文字を見かけることが多くなった。映画の歴史において長いあいだ唯一の記録フォーマットはフィルムだったが、デジタルシネマの台頭によりフィルムは消えつつある。映像、音声を記録する技術の変化に製作費や劇場の営業の問題などが絡んでの結果だろう。フィルムのもつ質感や光との関係をデジタルはカバーできないと語る人は多いが、そこから先の対応はフィルム派、デジタル派、中間派に別れる。
 こうした流れと並行して映像作品視聴のパーソナル化が進展した。映像機器の発展によるパーソナル化の先には映画館の消滅が待ち受けているのかもしれない。それは劇場が提供してきた祝祭性や社会性の消滅にほかならないと考えるが、なかにはパソコンを通じての対話を促進するだろうと楽観視する論者もいるそうだ。
 ずいぶんと味気ない話ではある。そうは言っても自身の六十数年を振り返っていちばん大きな影響をもたらした家電製品はビデオなのである。古今にわたる作品が手軽に自宅で観られるのは若い人にはあたりまえでも団塊の世代が経験したのは三十歳を過ぎてからであった。
 ここでVHSとVHDの話題に戻るのだが、この両者ともにソフトは残っていても再生機器のほうは今やマニアックな方の部屋にしかないとして過言ではない。
 ビデオ機器の普及をめぐってはVHSとベータ方式との規格とシェアをめぐる争いがあった。これにLD(レーザーディスク)とVHDの争いが続いた。日劇ミュージックホールはVHSとVHDに映像記録を残したが、それら稀少価値のソフトを入手したとしても再生機器がなければ飾りにしかならない。記録方法が変化するとディスクは残っても上映機器は生産停止になりやすい。それと現状ではデジタルはフィルムのように長い歳月の保存に耐えられないらしく、案に相違していまでもいちばん保存に適しているのはフィルムなのだそうだ。
 ミュージックホールの映像ソフトを前にして、切歯扼腕しながらの感想である。
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# by yumenonokoriga | 2016-07-11 10:56 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)