関根庸子という名前

 本ブログ二0一三年一月五日の「『欲望の迷宮』における関根庸子」という記事についてご本人の関根庸子さん(いまは森泉笙子として文筆と絵画の活動をされています)からおたよりをいただきました。
 はじめに該当の記事を再録します。

 橋本克彦『欲望の迷宮』というルポルタージュがある。手許にあるのは一九九二年十月刊の講談社文庫版。これには「新宿歌舞伎町」という副題が附いていて、正題と副題を合わせると歌舞伎町という迷宮に展開する欲望のドラマであると知れる。本書第六章「文学バーの夜ごとの宴」は著者による関根庸子へのインタビューをもとにした内容となっている。
 バー、カヌーの開店は一九五九年(昭和三十四年)、閉店は六五年(昭和四十年)、開店時、若きマダム関根庸子は二十六歳だった。カヌーを経営する前は日劇ミュージックホールのトップダンサーとあるが、これは過剰なリップサービスだろう。『theNichigeki Music Hall』の公演リストにその名前はないから、中堅スターといったところではなかったか。
 その前は朱里みさをが率いる旅の舞踊団の座員だった。敗戦後の混乱のなか家計は貧しく、自分が一家を養わなければという思いが募ったはての選択だった。ちなみに朱里みさをは七十年代はじめ「北国行きで」で大ヒットした歌手の朱里エイコの母親である。関根庸子はこの舞踊団を振り出しにやがて日劇ダンシングチームに入団、ここで十人ほどの特別チーム「ビューティーズ」が編成され、メンバーの一人としてミュージックホールへ出演した。ここまでは松永てるほのばあいと似ている。
 ライトを浴びた踊り子が週刊誌「女性自身」に連載したのが『私は宿命に唾をかけたい』だった。著者は「あれは、当時、王さまのようにミュージックホールに君臨していた丸尾長顕さんがプロデュースしてくださったんですね。その印税がカヌーの開店資金になった、というわけなんです」と語っている。
 多くの男がカヌーのマダムに言い寄った。そのなかには紀伊國屋社長田辺茂一もいる。野坂昭如もいる。けれど野坂が誘いをかけてきたときには彼女は密かに結婚し、妊娠もしていた。こうしたなか彼女が頼りとし、相談相手となってもらったのが埴谷雄高で、埴谷自身「バー時代、しばしば、私は彼女の同行者であるが、バーをやめたあとも、男の子と女の子の教育、夫君の店の拡張、父と母の入院、そしてまた、彼女の執筆に及ぶすべての相談役をつづけ」たと書いている。
 『欲望の迷宮』のインタビューがなされた時点で関根庸子は二人の大学生の母親、インタビューには埴谷雄高も顔を見せている。
 ちなみに関根庸子は本名っぽい名前だが芸名との由。

 コメントを寄せてくださっているのは「ちなみに関根庸子は本名っぽい名前だが芸名との由」の部分で、以下お許しを得て私信の一部を紹介しますと「実際は関根は本名で、名前の庸子は私の母が当時、姓名判断に凝っていて付けた名前でした」とあります。つまり戸籍の名前とは別に庸子は本名扱いとなるわけで関根庸子は本名っぽい芸名ではなく本名としてよかったという次第です。
                   □
 クリスマスイヴの日に森泉さんとお会いした際、所蔵されているミュージックホールのパンフレットに載る関根庸子の写真を撮らせていただきました。
a0248606_9211856.jpg
a0248606_9251933.jpg
a0248606_9254297.jpga0248606_9261941.jpg
[PR]

# by yumenonokoriga | 2016-12-26 09:32 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

記念公演

 日劇ミュージックホールは昭和二十七年三月十七日「東京のイヴ」で開場した。それから十年経った昭和三十七年三月一日に開幕した舞台は「そっと乳房は夢を見る」と名付けられていたが、これには十周年記念公演の冠はない。
 記録によるとさいしょに周年記念公演とされたのは昭和四十七年一・二月の「開場20周年記念 すべて乳房からはじまる」で小浜奈々子、松永てるほ、朱雀さぎり、舞悦子、浅茅けいこ、岬マコといった当時の、またのちにトップスターとなったダンサーが集った絢爛とした舞台だった。
それから五年のちの昭和五十二年一・二月の「開場25周年記念」公演は「’77乳房の祭典」で、おそらく開場二十周年の「乳房」が意識されている。
 そして昭和五十七年は「日劇ミュージックホール開場三十周年記念特別公演 ’82エロティカル序曲」(蜷川幸雄演出)で幕を開けたが、このときは有楽町の日劇ではなく東京宝塚劇場に移転していた。残念ながら開場三十五周年を迎えることなく昭和五十九年ミュージックホールは閉場した。
 「すべて乳房からはじまる」と「’77乳房の祭典」のパンフレットには演劇評論家橋本与志夫が「観客席からの二十年!」と「25年・ひとむかし」を寄せ、なかで思い出の歌手として高英男、丸山明宏、深緑夏代、宝とも子、橘薫、黒田美治、柳沢真一、ペギー葉山、淡谷のり子、雪村いづみ、水森亜土の名を挙げている。本ブログでは歌手を採りあげたことが殆どないので、ささやかな記念と思い出に歌手名をしるしておいた。
 もうひとつ「’77乳房の祭典」には紀伊國屋書店の創業者で粋人文化人として知られた田辺茂一が「25周年を祝って」という一文を寄せていて広瀬元美や伊吹マリ、桜洋子たちの思い出とともに「江戸川乱歩さんが元気だった頃、私はよく先生と一緒に、日劇ミュージックの楽屋を訪れた」と書いていて乱歩とミュージックホールのつながりがあったことが知れる。
 江戸川乱歩がこの劇場について書いたエッセイがあれば読んでみたいな。ご存知の方いらっしゃれば教えてください。
(写真はトニー谷と田口久美。「’77乳房の祭典」のパンフレットより。)
a0248606_10272056.jpg
[PR]

# by yumenonokoriga | 2016-12-07 10:29 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

山本晋也と日劇ミュージックホール

 昭和四十九年(一九七四年)五・六月公演「裸舞裸舞ふあんたじい」で日劇ミュージックホールは日活ロマンポルノのひろみ麻耶を起用して評判を呼んだ。この年の二月、彼女は「実録・ジプシー・ローズ」でデビューしていて、ジプシー・ローズとの縁つながりでの起用だった。
この評判を承けて荒木尚志プロデューサーが推進したのが日活ロマンポルノとの提携で、同年末の「ブラボーエロスの祭典」での大山節子を手はじめとして田中真理、田口久美、谷ナオミ、八並映子、松田瑛子、小川亜佐美、山口美也子、志摩いづみといったロマンポルノ女優陣がつぎつぎと舞台に登場した。なかで大山節子は舞台に立ったのを機に映画をやめてミュージックホールの専属となった。
 日活との提携は女優陣にとどまらず演出にも及んでいてロマンポルノの監督がミュージックホールの一部の景を演出するようになった。そのなかのひとりに山本晋也監督がいる。
 昭和五十四年一・二月公演「’79愛とエロスのファンタジア」の第二部第六景「ぽこちん共和国」は山本の演出、黒鉄ヒロシの原作脚本、ロマンポルノから原悦子が出演した。
 前年には同監督、原悦子主演の「ポルノ・チャンチャカチャン」が公開されていて赤塚不二夫がポスターを担当している。山本晋也が狙っていたものがマンガと濃い関係にあるのがうかがわれる。
 「’79愛とエロスのファンタジア」のパンフレットに「ミュージックホール初演出の弁」を寄せていて、それによると昭和十四年生まれの「カントク」が終戦直後、小学一年生のとき伯母さんに連れられて日劇で観たのが「鐘の鳴る丘」で、大劇場ではなく日劇小劇場での芝居だった。その後「広瀬元美さんやジプシー・ローズねえさんたちの活躍を“奇譚クラブ”という本で知り、おねえさんたちは私のオナペットになりました」、そしていま「その人たち、いわば日本のポルノのあけぼのを創ったおねえさんたちの流した、一しずくの汗を、舞台に感じながら、稽古にはげんでいるのは感無量です」と真情を述べている。かつてのオナペットたちが立った舞台を演出した出世譚である。
a0248606_11585873.jpg
[PR]

# by yumenonokoriga | 2016-11-07 12:01 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

台本

 ある方のご厚意で日劇ミュージックホール昭和五十四年十一・十二月公演「愛を唄う乳房の舞」の台本を見せていただいた。台本は劇場があったころでも関係者以外の目に触れることはめったになく、いまは超レアものである。
 本公演のゲストは山口美也子、三原玲奈、東郷あんり、ヌードでは朱雀さぎりがトップで、岬マコ、水原まゆみ、明日香ミチ、朝比奈れい花と続いている。
 なかは全七十五頁ガリ版印刷で、念のため日本語ワードプロセッサについて調べてみると、東芝がワープロ史上画期的とされるJW-10を発表したのが昭和五十二年(一九七七年)、価格は六百三十万円とあったから本公演のころはまだワープロが普及するまえの時代だった。
 余談ながら谷沢永一『紙つぶて』に「安部公房が昭和二十五年に出した『魔法のチョーク』はザラ紙に謄写版刷り、タテ十七糎、ヨコ十二糎、全部でたった二十九頁、パンフレットの切れはしのような本だ」「開高健が昭和二十六年、二十歳のとき、孔版私家版としてごくわずかに友人間に配った長篇処女作『あかでみあ めらんこりあ』」といった記述があるように日本文学史上、ガリ版印刷はあだやおろそかに出来ない。芸能史においても同様で、台本を眺めながらそんなことを思った。
具体の見本として第二部の「白と黒のレディたち」を挙げておこう。

〈M-君の瞳に恋してる
オーバチュアあって、ウインドウひき取る。白格子越しに、白と黒のドレスの女たちがみえる。
白組朱雀さぎりを中心に上手側、黒組、岬マコを中心に、下手側、唄手(東郷あんり)
白組がセリで踊る時、黒組が舞台でポーズしたり、その反対もあり、最後、それぞれ対になっているという、色の対照をおもしろくみせたい。
衣装は、シックでエレガントなドレス、手には、小さな扇子を持っている。
装置は、大黒バックに、ガーデン風白吹き抜け(パイプ)〉

 といった具合で絵コンテもなく、ここから板の上(舞台)の状景を思い浮かべるのはむつかしいけれど、こうした骨格に花を、実をつけて素敵な舞台に仕上げたスタッフ、出演者のいとなみは舞台に接したことのない方にもご想像いただけるような気がする。
(管理画面が新しくなったので使ってみたが、斜体文字の修正がうまくゆかなかったので旧管理画面を使うと、今度は写真の回転の方法がわからない。不体裁だが斜体文字よりマシなのでこちらでアップしました。)
a0248606_1041639.jpg
[PR]

# by yumenonokoriga | 2016-10-01 10:39 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「ふともも出すべからず」

 一九0三年(明治三十六年)品川と新橋のあいだをそれまでの鉄道馬車に代わって電車が走った。これが東京の路面電車のはじまりである。
 そのころ一八九三年(明治二十六年)生まれの岩田豊雄、のちの作家獅子文六は三田の慶應幼稚舎の寄宿舎にいて横浜の実家に帰るときはいつも品川駅まで電車を利用していた。車内には筆書体で書かれた石版刷りの乗車心得が掲示されており「煙草のむべからず」「たんつば吐くべからず」などとならんで「ふともも出すべからず」の一項があったという。
 裾の乱れもはばかられた明治の代にミニスカートはなく、ふともも云々は男性向けの禁令だった。勇み肌の職人や棒手振りの商売人のなかには紺の香の高い腹がけを一着に及んだだけで乗車する者もいて、六尺ふんどしが見え隠れする格好にふとももはあらわで、外国人にも見苦しいというので車内行儀の注意に及んだのだった。
 男でもこのような具合だから女のふとももを電車内に見るなど考えられない時代であったが、そこはよくしたもので昔の日本人は女の足指の線に色気を覚えていた。
 髷に結って眉を剃り、唐桟の襟つきの着物に八端の黒繻子の腹合わせの帯を引っ掛けに結んで食い込むような白足袋をはいて、煙管を持って、お客と花魁のあいだをとりもつというのは古今亭ん生「お直し」にある遣手(おばさん)についての描写で、色街の女が足元を美しくするため足袋のおしゃれをしていたことがわかる。
 飯島友治編『古典落語亭ん生集』(ちくま文庫)はこの箇所について、足袋は新品で足にぴったり合うのが粋とされたので色街の女はきつめの足袋をはく前によく揉んで糊をおとし、さらに、はいてから霧を吹きかけて足指の線を出したと註釈をつけていて、脚線美ではなく足指の線を愛でていた感覚が窺われる。
 谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』の督助老人は息子の嫁の颯子さんの足の拓本を何十枚も色紙にとり、そのうち出来のよいのを飽かず眺めていた。脚線美はともかく足の美しさへの執着は現代人にはわかりにくい感覚だが、足袋にこだわった色街の女を思うと督助老のこのみは伝統を踏まえた美学なのだった。
 そして昭和戦前。モダニズムとエロ・グロ・ナンセンスの社会風俗が盛んに言いはやされたころ有楽町に日本劇場が開場した。一九三三年(昭和八年)のことで、まもなく誕生したダンシングチームのラインダンスがたいへんな人気を呼んだ。このころには取締当局の眼中に男のふとももはなく、対象はもっぱら女のそれで、すでに一九三0年 (昭和五年)警視庁保安部はレビューの踊り子を対象として「ズロースは股下二寸未満はこれを禁ずる」という条項を含む「エロ取締規則」を発していた。
 こうして明治から昭和にかけて「ふともも出すべからず」の狙いは男から女へと移ったのであったが、あたりまえのようでいて一大転換の気がしないでもない。

a0248606_11484939.jpg
[PR]

# by yumenonokoriga | 2016-09-16 08:46 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)