ジプシー・ローズの享年

 a0248606_11472932.jpgジプシー・ローズが山口県防府市のスナック・ジプシーの二階で倒れたのは一九六七年(昭和四十二年)四月二十日だった。急性心不全。極度のアルコール中毒が起因していた。
 その享年を『Nichigeki Music Hall』や橋本与志夫『ヌードさん』は三十二歳としているが、これに対して小柳詳助『G線上のマリア 』というジプシー・ローズの伝記が三十五歳と四か月で亡くなったとの異説を示している。
 同書によるとジプシー・ローズすなわち志水トシ子は一九三一年(昭和六年)十二月十八日金曜日に福岡県大牟田市で産声をあげ、一九三八年四月に市立第七尋常小学校に入学、一九四四年に私立不知火高等女学校に入学している。著者は小学校時代の担任のメモや女学校二年生時の通信簿を捜し出して証左としており、享年は小柳の説くとおりとなるだろう。
 志水トシ子が上京したのは一九四九年十二月、近江うららのダンシング・チームに見習いで入り進駐軍慰問のキャンプ回りやキャバレーやクラブのショウで踊っていた。翌年五月末にトシ子はストリップ劇場の浅草常盤座で踊り子を募集しているのを聞いて訪ねた。ここで演し物の采配をしていたのが愛人、マネージャーとなる正邦乙彦だった。正邦が年齢を訊くとトシ子は十五歳と三歳少なく答えた。享年三十二歳説はここが出所というのが小柳の見解である。
 桑原稲敏『往生際の達人』に、ジプシー・ローズが亡くなった日の早朝の出来事が記されている。彼女は正邦に「パパ、起きてよ」と声をかけた。
 〈「さっきから表で、ジプシー・ローズはアル中だ、アル中だと、隣り近所に聞こえるように怒鳴っているのよ。早くやめさせて!」
 正邦が表に出てみたが、人の気配などまったくない。
 「なにしてんのよ。相手がいくら偉い女優さんでも、黙っていることはないわ!」
 「偉い女優さん?」
 「わたしは見たの。浪速千栄子とミヤコ蝶々よ。わたしがあの人たちにどんな悪いことをしたというのよ。」〉
 記事は正邦から出たものだろう。浪速千栄子とミヤコ蝶々の名を挙げたのは「偉い女優さん」へのコンプレックスだったのだろうか。
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# by yumenonokoriga | 2012-01-15 05:29 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

吉村平吉とジプシー・ローズ

a0248606_9472679.jpg 一九二0年生まれの作家吉村平吉は戦中は兵士として中国各地を転戦し、戦後復員してからは浅草の軽演劇団に所属し、その後、上野、浅草、新橋、吉原などの風俗地域で生活した。一時期、いわゆるポン引きをしていたこともあるらしい。著書に『実録エロ事師たち』『吉原酔狂ぐらし』『浅草のみだおれ』などがある。二00五年に八十四歳で亡くなった。
 東劇バーレスクや日劇ミュージックホールで踊った伝説的ストリッパー、ジプシー・ローズに『ストリップ半生記 裸の自叙伝』という自伝がある。(筆者は未見)。一九六六年に久保書店から出版されている。田中小実昌『楽屋ばなし』によるとジプシーの手記ふうに書いてあるが、じっさいに執筆したのは吉村平吉と正邦乙彦だった。正邦はジプシーの内縁の夫かつマネージャーだった人だ。
 この『裸の自叙伝』が刊行された前年一九六五年秋にジプシーは山口県防府市のスナックのママに迎えられ、正邦とともに赴いた。吉村の『吉原酔狂ぐらし』には東京を去る二人の送別の宴の模様が記されている。
〈いよいよ東京を去るにあたって、小実昌さんとわたし(吉村)も加わって、ささやかな送別の宴を浅草で開くことにした。
 小実昌さんもわたしも、ジプシーの全盛期からのファンであったし、正邦さんともお互いに個人的に親交があったので、ジプシーの舞台からの引退、そして、いわば都落ちする二人の心情を想い、いささかの感慨があったのである。
 だが、送るほうも送られるほうも、いずれも、そんな深刻ぶったり感傷的になったりするようなタマではなかった。
 ジプシーも、正邦さんも、小実昌さんも、わたしも、大いに楽しく飲んだ。何軒かの飲み屋をハシゴして、結局最後には、新五十間の由紀子のバーで打ち上げることになった。
 深夜まで、ここでも大いに愉快に飲んだ。・・・・・・想えば、一代のストリップの女王ジプシー・ローズの、これが最後の浅草の夜だったわけだ。〉
 翌年『裸の自叙伝』の出版記念会にジプシーと正邦は上京した。おなじく吉村の『浅草のみだおれ』には、このとき浅草のどぜう屋でおいしい、おいしいと丸鍋を三人前もおかわりしていたジプシーの姿が書きとめられている。ジプシー・ローズは翌年四月二十日スナック・ジプシーの二階で急性心不全により倒れたから、彼女にはこのときが最後の東京となった。
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# by yumenonokoriga | 2012-01-08 03:28 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

日劇ミュージックホールは東大大学院!?

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 浅草フランス座といえばかつて渥美清をはじめ谷幹一、関敬六、長門勇といったコメディアンたちが活躍したストリップ劇場だ。また、井上ひさしが台本を書き、のちに北野武が修行を積んだ劇場でもある。いずれも映画やテレビの仕事に手の届かない日々をこの劇場で苦労を重ね、将来を夢見た。
 ストリップ興業に活気があった昭和三十年代はじめの浅草フランス座の位置づけについては井上ひさしの「渥美清と車寅次郎」を読むとよくわかる。初出は「オール讀物」一九九六年九月号。同年八月四日に亡くなった渥美清を追悼した一文で、『映画をたずねて 井上ひさし対談集』に収められている。
 それによれば俗に浅草フランス座はストリップ界の東京大学、おなじフランス座でも新宿フランス座は早稲田大学、池袋フランス座は立教大学、また浅草ロック座は日本大学ということになっている。新宿と池袋のフランス座は近所の大学を取って付けたものだろう。浅草フランス座の格の高さが窺われる。
 大学があれば高校もあって、浅草の百万弗劇場、美人座、浅草座あるいは横浜セントラルといった東京周辺の小屋がその位置を占める。もとより大学を卒業すればその先があり、そこのところを井上ひさしはこんなふうに書いている。
〈「大学」卒業後にもそれなりの進路があって、丸の内の日劇ミュージックホールが東大大学院でしょうか。ここを経て、日劇の「春の踊り」や「夏の踊り」に出演すると、いわば大蔵省へ入省したようなもの。さらにここから映画に出るとか、そのころ仕事を始めたテレビに行くとか(中略)一人前の喜劇役者になるには、生の舞台で、それも厳しい観客の前で、長い間、修行をしなければならなかった。〉
 浅草から日劇、そこから映画、テレビに進出するというのがコメディアンの出世の階梯であり、一九六0年代後半頃までの喜劇役者のステイタスだった。
 深沢七郎の『千秋楽』に、師匠の代役としてはじめてミュージックホールに出演するドンチョーという若いコメディアンが、この劇場は狭く、入場人員も少ないので出演料のことより出演できるということのほうが問題なのだと心に思うくだりがある。小説が書かれた六十年代前半はいまよりずっと東大大学院のエリート性は高かったから、檜舞台に立つドンチョーの得意もそこを加味して想像してやらなければならないだろう。
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# by yumenonokoriga | 2012-01-01 01:09 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)