女優・松永てるほ

a0248606_9524674.jpg 日劇ミュージックホール出身の女優といえば春川ますみやあき竹城が思い浮かぶがいずれもヌードを引退してからの転身だった。現役時代に主役級でスクリーンに登場したのは伊吹まりや殿岡ハツエ、マリア茉莉がいるが本格的には松永てるほだけといってよいだろう。
 川本三郎『朝日のようにさわやかに』に彼女が主演した日活ロマンポルノ作品「情痴の檻」に触れた一文がある。物語は川崎あたりでコールガールをしていた女が足を洗い、過去を隠して小さな町の床屋の後妻になっている。亭主は喘息持ちでセックスのほうもダメになっているが、それでも女は小さな幸福に満足している。そんなある日、彼女はむかしのなじみ客に偶然会う。そこからよりが戻ると、お定まりのコースで二人は夫を殺してしまう。J・ ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を思い起こさせるストーリーだ。
 川本三郎はこの映画の松永てるほを讃えていう。
〈女を演じているのは日劇ミュージック・ホールのダンサー、松永てるほ。派手な女だとばかり思っていたがいつからこんなやるせない女が出来るようになったのだろう。いつもは化粧もせず髪をひっつめている女が”向う岸”に男に会いに行く時にはじめて口紅をひき、マニュキアをする。それまで目立たなかった松永てるほがゾクッとするほど色づいた。〉
 川本三郎の「派手な女だとばかり」のイメージは「ヌードの殿堂」としてのミュージックホールのショーの構成や内容から来ている。それが「情痴の檻」では一転して「やるせない女」が演じられた結果、「派手な女」との落差が生じ、そこに著者は松永てるほの魅力を見たのだった。
 昭和四十年代の後半から五十年代の初めにかけて松永てるほは十本余りのロマンポルノ作品に主役、準主役として出演したが、ヒット作には恵まれなかった。おそらく『朝日のようにさわやかに』の著者とは反対に、スクリーンでもなお、舞台の延長線上にある「派手な女」としての彼女を見たいファンも多くいたのではないか。あるいは貧乏くさい「やるせない女」ではなく、「派手な女」のイメージをだいじにしておきたいファンもいただろう。
 「派手な女」とは日劇ミュージックホールのスターの謂にほかならず、そうした彼女を活かすとしても、えらくむつかしそうな企画だなあといまにしても思わざるをえない。
[PR]

# by yumenonokoriga | 2012-02-05 04:27 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

『楢山節考』出版記念祝賀会

a0248606_920407.jpg中央公論新人賞を授賞した深沢七郎の『楢山節考』の出版記念祝賀会が一九五七年(昭和三十二年)二月二十五日の夜、舞台のハネたあとの日劇ミュージックホールを会場にして催された。
 ヌード劇場での出版記念会は世間の注目を惹きやすく、中央公論社が宣伝を兼ねて企画した。思いあわされるのは文化勲章を受章した永井荷風を浅草ロック座の踊り子たちがお祝いした事例くらいのものだろう。一九五二年の十一月五日夜、公園裏の洋食店大阪屋に招かれた荷風は踊り子たちに囲まれ祝福を受けた。秋庭太郎『考証永井荷風』によると「先生はストリップ嬢からおめでとう、勲章バンザイを浴びた」云々と報道されたという。
 『楢山節考』の出版記念祝賀会については講談社の「小説現代」「群像」の編集長や文芸局長等を歴任した大村彦次郎の『文壇挽歌物語』に当夜のことが記されている。
 定員四百名の会場は満員で立錐の余地もなかった。司会を務めたのは丸尾長顕だった。中央公論社の嶋中鵬二と深沢七郎の挨拶のあと、正宗白鳥、つづいて選考委員の伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫が祝辞を述べた。
 実演の部に入ると、泉右徳衛門の振付による舞踊「楢山節考」が披露され、つづいて伊藤久男が深沢の作詞・作曲による「楢山節」を、さらに島倉千代子が「つんぼゆすりの唄」を歌った。いずれも深沢自身がギターの伴奏を務めている。
 大詰めは「M・Hの神武たち」というミュージカル・ショウで、おおぜいの踊り子やミュージシャンが友情出演した華やかな舞台だったという。ここで深沢はヌードダンサーの伊吹まりたちからお祝いのキスを浴び、満場の喝采を博した。深沢はこの年の「中央公論」新年号に「東北の神武(ずんむ)たち」を発表しているから、フィナーレの演目はこの新作を意識したものだった。
 『文壇挽歌物語』にはこの夜、この劇場での井伏鱒二のユーモラスな逸事が記されている。
〈その晩、井伏鱒二は会場に遅れて入り、暗闇の中を案内されるままに最前列の席に坐った。そのあと客の大半がロビーのパーティ会場に移ったのも気が付かぬまま熱心に舞台を注視していた。そのため勝手の分らぬ踊り子たちは井伏ひとりのために暫く踊り続けなければならぬ破目になった〉。
[PR]

# by yumenonokoriga | 2012-01-30 06:40 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

深沢七郎『千秋楽』

a0248606_12233953.gif 深沢七郎が桃原青二の芸名で日劇ミュージックホールに出演したのは一九五四年(昭和二十九年)のことだった。一九一四年の生まれだから遅いデビューだったが、小説家としてのデビューはさらに遅くてこの二年後の一九五六年である。姥捨山をテーマにした『楢山節考』で中央公論新人賞に応募し、これが第一回受賞作となった。
 日劇ミュージックホールには谷崎潤一郎や村松梢風をはじめいろいろな作家が脚本を提供したり一部の景を演出したりして関わった。なかにはゲストで舞台に立った人もいたかもしれないけれど、深沢はギタリストとしてここの舞台を踏んだ経験をもつから楽屋話のできる最適任の作家だ。その意味で『千秋楽』(一九六四年)という小説は深沢ならではの作品であろう。 
 富田長次郎という名前からドンチョーと呼ばれている若いコメディアンがはじめてミュージックホールに出演する。もともと師匠が出る予定だったのが、女ができて東京から逃げてしまい、その代役が回って来たのだった。『千秋楽』はドラマチックな出来事で読ませる小説ではなく、このドンチョーを中心としてコメディアンや歌手の楽屋の日常が淡々と綴られていて、そこからおのずとこの劇場と楽屋のたたずまいが伝わってくる。
 専属のヌードダンサーは月給制だがコメディアンのギャラは契約制で、なかでドンチョーの出演料は最低で一日三回出演して千円である。でも不満など口にしてはいられない。
〈この劇場は檜舞台だがホールが狭く、入場人員も少ないので出演料のことより出演出来るということのほうが問題なのである。〉
 とはいえヌードが主役の劇場でのコメディアンの立場と気持は複雑で、舞台稽古をしてみたところ予定時間がオーバーしそうだとなると、ハダカのないコメディアンの景がまずカットの対象とされるのを心配しなければならない。
〈(なにを言っているんだ)とドンチョーは思った。(ハダカがなんだ)と思った。(ハダカなど芸じゃないぞ)と、思った。(なぜ、そんなにハダカを大切に思ってるのだろう)と、ドンチョーはこのことだけが不満だった。〉
 深沢七郎はこんなふうにコメディアンの屈託を掬い取っている。それは小説家としての見聞もあるだろうが、なにほどかは自身の出演者としての思いでもあったのかもしれない。
[PR]

# by yumenonokoriga | 2012-01-25 05:41 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ジプシー・ローズが倒れた日

a0248606_9171983.jpg ジプシー・ローズが亡くなった翌年一九六八年(昭和四十三年)に作家の近藤啓太郎が『裸の女神 ジプシー・ローズの生涯』を刊行した。あとがきによれば正邦乙彦が協力をしている。
 アルコール中毒が進行していたジプシー・ローズはしばしば幻覚に襲われ、正邦はそんな彼女にうんざりしながらも世話をし、バーを営んでいた。一九六七年四月二十日十時半頃、正邦は階下の流し台で昨夜のコップや皿を洗っていたところ二階で鈍い音がして振動を感じたがそれっきり静まり返ってしまった。胸騒ぎから階段を上がり寝室を覗くと彼女は顔を横ざまにしてうつぶせに倒れていた。裸の胸から横腹にかけて赤いスロージンがぶちまかれて血しぶきを浴びているように見えた。右手から落ちたグラスが畳を赤く濡らし、左手には空瓶が侘しく握られていた。前夜ウイスキーを飲みながら寝入ってしまったジプシーは起きぬけからこんどはジンを飲んでいたのだった。『裸の女神』にある彼女の最期である。
 同書が上梓されて十四年後に出た小柳詳助『G線上のマリア』には彼女が倒れている写真が収められている。赤い絨毯に金髪に染めた彼女がうつぶせになっており、右手には酒瓶が握られ、左手脇にグラスが放り出されている。検死に立ち会った医師は長期にわたるアルコール摂取で心臓が弱ったところへの急性心不全と診断した。ところが、彼女がここ数日下痢で頻繁にトイレへ行っているうちに急な階段から一度転げ落ち、このときの痣が検視の際問題になり警察は変死扱いとして一時は解剖の話まで出たという。
 この『G線上のマリア』の十年後に刊行された田中小実昌『楽屋ばなし』で話は一転する。じつはジプシー・ローズは床に倒れていたのではなく、ベッドのなかで死んでいたのだという。ベッドで死んでるなんて彼女にふさわしくない、「こりゃいけない」と思った正邦は彼女をベッドから下ろし、カーペットにうつぶせにし、酒瓶を握らせるなどした。そうして知り合いの建築士を呼んで写真を撮ってもらった。田中小実昌は正邦からこの話を聞いたという。
 事実とすれば正邦がジプシー・ローズの名にふさわしい死の演出をしたということになる。あるいは正邦のリップ・サービスによる演出なのかもしれない。田中小実昌の小説家としての創作ではないだろうが、往事茫々、事実はいずれとも特定しがたい。                 
[PR]

# by yumenonokoriga | 2012-01-20 08:45 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

ジプシー・ローズの享年

 a0248606_11472932.jpgジプシー・ローズが山口県防府市のスナック・ジプシーの二階で倒れたのは一九六七年(昭和四十二年)四月二十日だった。急性心不全。極度のアルコール中毒が起因していた。
 その享年を『Nichigeki Music Hall』や橋本与志夫『ヌードさん』は三十二歳としているが、これに対して小柳詳助『G線上のマリア 』というジプシー・ローズの伝記が三十五歳と四か月で亡くなったとの異説を示している。
 同書によるとジプシー・ローズすなわち志水トシ子は一九三一年(昭和六年)十二月十八日金曜日に福岡県大牟田市で産声をあげ、一九三八年四月に市立第七尋常小学校に入学、一九四四年に私立不知火高等女学校に入学している。著者は小学校時代の担任のメモや女学校二年生時の通信簿を捜し出して証左としており、享年は小柳の説くとおりとなるだろう。
 志水トシ子が上京したのは一九四九年十二月、近江うららのダンシング・チームに見習いで入り進駐軍慰問のキャンプ回りやキャバレーやクラブのショウで踊っていた。翌年五月末にトシ子はストリップ劇場の浅草常盤座で踊り子を募集しているのを聞いて訪ねた。ここで演し物の采配をしていたのが愛人、マネージャーとなる正邦乙彦だった。正邦が年齢を訊くとトシ子は十五歳と三歳少なく答えた。享年三十二歳説はここが出所というのが小柳の見解である。
 桑原稲敏『往生際の達人』に、ジプシー・ローズが亡くなった日の早朝の出来事が記されている。彼女は正邦に「パパ、起きてよ」と声をかけた。
 〈「さっきから表で、ジプシー・ローズはアル中だ、アル中だと、隣り近所に聞こえるように怒鳴っているのよ。早くやめさせて!」
 正邦が表に出てみたが、人の気配などまったくない。
 「なにしてんのよ。相手がいくら偉い女優さんでも、黙っていることはないわ!」
 「偉い女優さん?」
 「わたしは見たの。浪速千栄子とミヤコ蝶々よ。わたしがあの人たちにどんな悪いことをしたというのよ。」〉
 記事は正邦から出たものだろう。浪速千栄子とミヤコ蝶々の名を挙げたのは「偉い女優さん」へのコンプレックスだったのだろうか。
[PR]

# by yumenonokoriga | 2012-01-15 05:29 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)