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夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌

泉和助

泉和助_a0248606_10334941.jpg 日劇ミュージックホールに関係する代表的コメディアンとなるとトニー谷それとも泉和助ひょっとして空飛小助といったところか。
 泉和助については色川武大が『なつかしい芸人たち』に、ショー芸人でネタ作りに才能があり、楽屋内では多くの芸人から敬愛されていたと書いている。「楽屋内では」というのがくせもので玄人うけはするが、大衆受けはしなかった。
 丸尾長顕は、泉和助はむかし八丁荒しという異名があったほどで、その一座がかかると近くの芝居はみんな食われてしまったと書いているけれど、一座が盛んな時期は長くはなかった。名古屋で進駐軍の慰問をしたのちミュージックホール開演時に迎えられたというが公演リストで確かめた限りでは一九五二年(昭和二十七年)七月三十日初日の「サマースキャンダル」が初登場で、このときの芸名は新谷登(しんやのぼる)。泉和助での出演は一九五六年の第二回公演「ふぉりいず やぽね あらべすく」からとなっている。
 一九一九年生まれの和助がエノケン一座に入ったのが一九三四年。これが芸人としての出発で、芝居、タップ、歌などの修行を積んだ。藤山一郎に師事したとウィキペディアにあったが色川武大は二村定一のお弟子さんだったと書いている。楽屋内では尊敬され慕われもして玉川良一、関敬六、ミッキー安川、E・H・エリック、岡田眞澄、トリオ・ザ・パンチらに芸を仕込んだ。
 立川談志『現代落語論』に小ゑんの頃に泉和助を訪ねたときのことが書かれている。
〈下っていたセリ舞台へ落ち、足の骨を折り、ドスンと落ちて「地階食料品売り場でございます」といって気を失ったという彼、ざっくばらんにいうと和っちゃん先生は(皆この呼び名をする。ちゃんがついてその後に先生ってのがついているのはこの人だけ)、古川橋のちかくの汚い病院の一室で、窓から使い古したフラッシュランプを川へほうり込では、空気銃で射っていた〉。
 そこへ「わたし柳家小ゑんという落語家です。一度お逢いしたかったもんで・・・・・・」。さいわい話がはずんでいまだにいろいろとギャグを教わっているとあるが『現代落語論』が刊行されたのは一九六五年、この五年後 一九七0年一月二十八日(推定)に泉和助は不帰の客となる。推定は心臓病、喘息、糖尿病で入退院を繰り返し二月一日にアパートで死去しているのが発見されたという事情による。若い芸人間でネタ帖の争奪戦があったというが判読はできなかったそうだ。
(写真は左、泉和助、右、空飛小助、丸尾長顕編『日劇ミュージックホールのすべて』より)
by yumenonokoriga | 2012-04-20 10:05 | 日劇ミュージックホールの文学誌

いまはない日劇ミュージックホールをめぐるコラムです。

by yumenonokoriga
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