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ジプシー・ローズと東劇バーレスクの閉鎖

a0248606_10581371.jpg 永六輔『芸人その世界』に「ジプシー・ローズの東劇バーレスクが突如として中止になったのは、東劇のチャリティー・ショーに出席する皇太子殿下が、運転手のミスで、東劇バーレスクの玄関に車を寄せ、恐れ多くもジプシー・ローズのエロティックなポーズの看板がそこにあった為だという」との逸話がある。
ジプシー・ローズは一九五三年(昭和二十八年)に開場した東劇バーレスク・ルームの専属スターだった。もともとここは東宝のミュージックホールに刺激されて松竹がつくった劇場であり、構成、演出、台本から照明にいたるまでジプシー・ローズを中心に企画運営されていた。ところが客席も大入り満員がつづいていたにもかかわらず翌年一月いっぱいで突如閉鎖されてしまう。そこにやんごとない方面の話が絡んでいたという真偽のほどは筆者の知るところではない。
 もっともジプシー・ローズで隆盛を誇っていたと見えても東劇バーレスクの経営は脆弱だったらしく、客席数二百、入場料二百円は、四百十二席、三百円のミュージックホールの比ではなかった。(小柳詳助『G線上のマリア 』)
 日劇ミュージックホール開場にあたり丸尾長顕は伊吹まり、ヒロセ元美、メリー松原という当時の斯界の大スターの引き抜きを手がけて大成功をおさめ、勢いづいていろんなストリップ劇場へ手を伸ばして相手方の雇った暴漢に襲われたこともあったとか。そんななかジプシー・ローズにだけは引き抜きを企てなかったのは一人くらい敵方にスターを残しておかなければこちらの競争心が鈍ってしまうと思ったからだという。ミュージックホールのスター連にジプシー・ローズ一人で対抗できるほどその魅力は強烈だったともいえるだろう。
 けれど東劇バーレスクが閉鎖となってはジプシー・ローズはマネージャー兼内縁の夫正邦乙彦とともに自分たちのほうから東宝に足を運ぶほかなかった。契約が成立してはじめ大阪のOSミュージックホールに出演し、次いで昭和三十年の年頭公演「東京恋愛通り」で日劇ミュージックホールの舞台に立った。
 しかしながら東劇とはシステムがちがいここは演出、振付の指示が強い。野性味ある自由奔放な個性はミュージックホールの設計図に合いにくく、最大の武器である腰をぐるぐる回すグラインドという技術も発揮できなかった。取締り当局も扇情的という理由で禁止措置をとっていた。こうして彼女は次第に酒に溺れるようになり、わずか三年でこの劇場を去った。
(写真は『昭和写真・全仕事 稲村 隆正』より、東劇バーレスク劇場で1954年)

by yumenonokoriga | 2012-05-10 08:52 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)