朱雀さぎり、その死

a0248606_10364332.jpg 日劇ミュージックホール閉場のあと一度だけ朱雀さぎりのヌードにお目にかかったことがある。里吉しげみの主催する未来劇場に岬マコとともに客演した博品館劇場の舞台だった。手許のパンフレットで確かめると日にちまでははっきりしないけれど一九八四年(昭和五十九年)の十一月、そのときがわたしが彼女を眼にした最後の機会だった。
 それから七年あまり経った一九九二年(平成四年)一月十三日の新聞で彼女の死去を知った。朝日新聞に載った記事を引いておこう。
〈朱雀さぎりさん(本名三浦規子=元日劇ミュージックホール・ダンサー)
十二日午前三時十二分、肺がんのため、東京都中央区の病院で死去。五十一歳。葬儀・告別式は十六日午前十時から葛飾区白鳥二の九の一の四つ木斎場で、喪主は婚約者の奥義紀(おく・よしのり)氏。自宅(略)
 一九五八年に同ホールで初舞台を踏み、七十年ごろから八十三年までトップダンサーだった。〉
 斯界の大スターの訃報記事におどろき、ついで彼女を悼み、そして素敵な眼福をもたらしてくれたことに感謝を捧げた。
 葬儀の日の一月十六日に産経新聞が追悼記事を載せ、のちに産経新聞社会部『葬送 時代をきざむ人生コラム』に収録された。
 この追悼記事のなかであるファンは「日本人離れしたボリュームのある体だった。腰をグラインドさせて大きく突き出されると、吹き飛ばされるようだったね」と語っている。また弔辞を読んだファンは「三浦家の名前で逝くなんて」と挙式を前にしての死を悼んだ。
 その人柄は涙もろくて人情に厚いとある。
 婚約者の奥氏は彼女に病名を告げてはいなかったが彼女は肺がんと知っていて、兄には手紙で告げていた。婚約者には知らないそぶりを通しつづけた。知らないふりの一環でもあったのか、病院の食事には手をつけず二人で食べ歩いた店の料理をねだって、奥氏はリクエストに応えた。
 そして通夜の席で婚約者は兄から彼女の手紙を見せられたのだった。
 「だまし通したつもりが、わからないふりをしてくれたんです。いいやつでした」。奥氏の述懐である。
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by yumenonokoriga | 2012-06-10 06:37 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(1)

Commented by 秋山薫 at 2012-06-11 01:00 x
私も松永てるほより朱雀さぎりのほうが好きでした。博品館劇場のレビューのプログラムの朱雀さぎりのでているっページコピー
したものだけでも有料で譲って頂けっませんか。TELまってます。。