2012年 07月 20日
「インテリ・ヌード」小川久美
小川久美についてコメントを寄せていただいたみどりやま様から貴重な資料を提供していただきました。同氏の思い出の雑誌記事は「将来の栄光に”裸”を賭けたインテリ」というもので、副題に「ヌード・ダンサーの小川久美さん」とあります。初出は不明ですが文中に「ヌードになって三か月」という文言があります。この記事にはミュージックホールの入団は一九五八年(昭和三十三年)二月十日、初舞台は同月二十七日とありますから、そこから三か月経った時点のものです。
さて当時二十一歳の小川久美の素顔を雑誌記者はこんなふうに述べている。
〈瞳の大きいどちらかといえば清楚な感じのする美人・ヌード・ダンサーといえば妖艶な美しさを思いがちだが、彼女にはおよそそんな感じはない。むしろ硬質な、造花のような印象ですらある。〉
妖艶から清楚へ。小川久美の登場はそれまでのヌードダンサーのイメージの変化を伴っていたようだ。
そして山脇短期大学を卒業して栄養士の資格を持ち、くわえてラジオ東京のアシスタント職や新協劇団の研究生の経験もあるといった経歴が当時の人々の耳目を引いた。ミュージックホールへの誘いを受けたときの気持を彼女はこんなふうに語っている。
〈新協劇団でワンサをやるのも、テレビに仕出し役でチョット出たりするのもおなじで、一向にかわりばえがしない。いっそヌードになって思い切り勝負をしてみればまた変わったサイの目も出るかもしれない。〉
しかしいざ舞台に立つと、いくら割り切っていたといっても「一種の屈辱感」はどうしようもなかった。くわえてマスコミで大きく取り上げられた結果、同輩のダンサーからは挑戦的な視線で見られるようになる。華やかな舞台とはうらはらに楽屋は人間関係がむき出しになる場所となる。
「なにさ、お高くとまって」「インテリはちがうわネ」と聞こえよがしにいわれたとき小川久美は「お里がしれるわ」と応じたという。ここも言わずと知れた競争社会であり、どちらをよしとするものではないが、いずれにせよ勝ち気でなければ生きてゆく資格がない世界である。
(写真はみどりやま氏提供の記事より)