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夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌

ヒロセ元美

ヒロセ元美_a0248606_9272113.jpg 日劇ミュージックホール開場当時のスターだったヒロセ元美は上海生まれの上海育ち、小さいころからロシア人やスペイン人に踊りを習い、ショウビジネスもずいぶん見てきたという。あちらでも踊っていたという噂もあったそうだが一九五0年(昭和二十五年)八月特別号「オール讀物」に載った永井荷風とヒロセをはじめ数人のストリッパーとの座談「荷風先生とストリップ」では見ていただけで踊ってはいないと語っている。
 この座談会でヒロセは「生意気なことをいうようですが、ただ裸を見せるだけの踊りなら、たんなるリベラルダンスにすぎません。ストリップティーズは、どこまでも女性の裸の柔らかい雰囲気を清潔に表現することだと思います」と語っている。
 まだストリップという用語を広言するのがはばかられる雰囲気のあるころで、当時のカストリ雑誌の名前を借りてストリップは「リベラルショー」と呼ばれたりしていた。ストリッパーも「リベちゃん」なる愛称があった。わたしはそんじょそこらのリベちゃんじゃないわよ、れっきとしたストリッパーなんだからとヒロセ元美は訴えているわけで、彼女の矜恃のほどが窺われる発言である。
 橋本与志夫『ヌードさん』によれば、ストリップティーズつまり焦らしながら一枚一枚と衣装を脱いでゆく技術を日本に紹介したのはヒロセ元美であったというから彼女の本邦裸舞史上に果たした功績はまことに大きいと言わなければならない。彼女が得意としたのはファンダンスといわれるもので、大きな羽根扇を両手に持って魅惑的な白い肉体をふたつの扇を巧みに用いて見せるがごとく、見せぬがごとくの舞台は大きな魅力であったと伝えられる。
 ミュージックホールの運営委員だった岡田恵吉は『女のシリ・シンフォニー』でヒロセを「日本では最高のストリップ・テイザーだった」と評価している。以下は岡田恵吉が語る彼女の艶姿である。
〈五尺四寸近い大女で、若い頃の彼女の胸から胸、脚へかけての線とボリューム、そのチラツカセの巧さは、けだし絶品だつた。僕に楽屋で見せたフアン・ダンスの技術は大変な修練をへた、精進の結果到達出来た種類のもので、毛深い彼女がその股の黒点をチラリとも見せず廻転し、尻の割目をのぞかせず、その扇の位置の正確さと愛嬌はけだしストリップ・ティーズそのものの魅力だつたと云へる〉。
by yumenonokoriga | 2012-08-10 09:30 | 日劇ミュージックホールの文学誌

いまはない日劇ミュージックホールをめぐるコラムです。

by yumenonokoriga
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