2012年 12月 30日
『新宿海溝』
日劇ミュージックホールのダンサーだった関根庸子が新宿に開いたバー、カヌー、そこに毎夜来ていたのが野坂昭如だったと種村季弘が回想している。この店と女主人については野坂自身も自伝小説『新宿海溝』で触れている。
野坂に店を紹介したのはエッセイストで、当時「婦人画報」の編集長だった矢口純だった。厚生年金会館と成覚寺に近い、以前の特飲街仲乃町の中央道に面したところにあり、いまでは新宿でも珍しくなったバラック建て、入口こそ戸障子ではなくドアだが、ほとんど戦後すぐのたたずまいの店、そこに埴谷雄高、水上勉、田村隆一、中島健蔵、野間宏、井上光晴、吉行淳之介などの文士たちが夜ごと集って泥酔していた。それら文士たちの姿を見てみたい気持から野坂はカヌーを訪れた。まだ彼が、ひょっとすると小説だって書けるかもしれないとひそかに考えていたころだ。
秋のさなかの一日、陽が落ちてすぐカヌーに入ってみると、赤いタイツをはいた大柄な女が、カウンターに沿ってならべられた椅子に乗り、天井の切れた電球を取り替えていた。客はいない。一見の、しかも気の早い客をいぶかしがりもせず、庸子が「いらっしゃいまし」といい、椅子を降りようとして、タイツのふとももの部分に小さな穴を見つけ、「あら、恥ずかしい」と掌でおさえカウンターの中に入った。
種村季弘は、関根庸子は美人だったと語っている。『新宿海溝』にはミュージックホール楽屋での姿を語った矢口純の言葉がある。
〈とってもきれいな肌でね、丁度、ステージを済ませたばかりらしく、こう手を胸で交叉させて、オッパイをかくしながら、こんなかっこうでごめんなさいといいながら、すっと寄ってこられちゃってさ、あたいはもうインタビューどころじゃなかった〉。
今回、この記事を書くために関根庸子について調べているうちに金子遊氏の「シネマと批評の密やかな愉しみ」というブログで彼女が森泉笙子の筆名で作家再デビューをしていたのを知った。名付けは埴谷雄高である。著書に『危険な共存』(河出書房新社一九七0年)『天国の一歩手前』(三一書房一九八四年)『新宿の夜はキャラ色―芸術家バー・カヌー』(三一書房一九八六年)『青鈍色の川』(深夜叢書社二00九年)などがある。また九十年代から油絵をはじめて二000年には太陽美術展会友となっている。