『欲望の迷宮』における関根庸子

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 橋本克彦『欲望の迷宮』というルポルタージュがある。手許にあるのは一九九二年十月刊の講談社文庫版。これには「新宿歌舞伎町」という副題が附いていて、正題と副題を合わせると歌舞伎町という迷宮に展開する欲望のドラマであると知れる。本書第六章「文学バーの夜ごとの宴」は著者による関根庸子へのインタビューをもとにした内容となっている。
 バー、カヌーの開店は一九五九年(昭和三十四年)、閉店は六五年(昭和四十年)、開店時、若きマダム関根庸子は二十六歳だった。カヌーを経営する前は日劇ミュージックホールのトップダンサーとあるが、これは過剰なリップサービスだろう。『theNichigeki Music Hall』の公演リストにその名前はないから、中堅スターといったところではなかったか。
 その前は朱里みさをが率いる旅の舞踊団の座員だった。敗戦後の混乱のなか家計は貧しく、自分が一家を養わなければという思いが募ったはての選択だった。ちなみに朱里みさをは七十年代はじめ「北国行きで」で大ヒットした歌手の朱里エイコの母親である。関根庸子はこの舞踊団を振り出しにやがて日劇ダンシングチームに入団、ここで十人ほどの特別チーム「ビューティーズ」が編成され、メンバーの一人としてミュージックホールへ出演した。ここまでは松永てるほのばあいと似ている。
 ライトを浴びた踊り子が週刊誌「女性自身」に連載したのが『私は宿命に唾をかけたい』だった。著者は「あれは、当時、王さまのようにミュージックホールに君臨していた丸尾長顕さんがプロデュースしてくださったんですね。その印税がカヌーの開店資金になった、というわけなんです」と語っている。
 多くの男がカヌーのマダムに言い寄った。そのなかには紀伊國屋社長田辺茂一もいる。野坂昭如もいる。けれど野坂が誘いをかけてきたときには彼女は密かに結婚し、妊娠もしていた。こうしたなか彼女が頼りとし、相談相手となってもらったのが埴谷雄高で、埴谷自身「バー時代、しばしば、私は彼女の同行者であるが、バーをやめたあとも、男の子と女の子の教育、夫君の店の拡張、父と母の入院、そしてまた、彼女の執筆に及ぶすべての相談役をつづけ」たと書いている。
 『欲望の迷宮』のインタビューがなされた時点で関根庸子は二人の大学生の母親、インタビューには埴谷雄高も顔を見せている。
ちなみに関根庸子は本名っぽい名前だが芸名との由。
(写真は『私は宿命に唾をかけたい』より)
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by yumenonokoriga | 2013-01-05 06:19 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

Commented by 安倍 寧 at 2013-01-07 17:13 x
日劇MHといいカヌーといい懐かしい話題ばかり。ぞくぞくしながら拝読しています。いったいあなたは誰?
トニー谷じゃないけれど、あなたのお名前なんていうの?
Commented by yumenonokoriga at 2013-01-09 06:57
☆安倍寧様
お便りありがとうございます。
もしかして音楽評論の安倍さんでいらっしゃいますか。だとすれば、近々御著書『ショウ・ビジネスに恋して』にある丸尾長顕と雪村いづみさんのエピソードを採りあげようと思っていたところでしたので、その偶然にとても驚いています。
日劇MHによく通ったことのある、ふるほん好きの男が定年退職、無職渡世になったのを機に始めたのが本ブログの由来です。
名乗るほどの者じゃござんせんが、野町均(のまちひとし)と申します。よろしくお願いします。